旅行の、最後の夕食。
女将が呼びに来てくれた。
その時も僕達は部屋のなか、肩を寄せて目を閉じていた。
手を握って、うたた寝していた。
僕が女将の声に気づいて、彼を倒さないように体を起こして。
目を擦る彼に夕食の時間だと知らせてふたりで立ち上がる。
大きな伸びをして、僕達は食堂へと向かったのだった。
食堂では料理長と女将が配膳しながら待っていてくれた。
白菜で鍋な夕食。
それから、カレイの煮付け。
牛肉のしぐれ煮。
根菜で彩がいい、たくさんの小鉢達。
なにが入っているのか、土鍋も食卓に添えられていた。
立ちのぼる湯気が、すでに美味しい。
ユンホを見ると目をきらきらと輝かせて、手を擦り合わせていた。
待ちきれないという顔。
そうだね、待ちきれないね。
早く土鍋のなかの正体も知りたいね。
わくわくするね。
『今夜はご一緒させていもらってもいいですか、』
料理長は一升瓶を持ってきた。
日本酒か。
『ありがとうございます!』
僕は瞬間的に答えていた。
僕は料理長が持つ日本酒を指して、そしてお猪口を煽るような仕草を彼にして見せた。
すると彼は察したようで、料理長に向かって嬉しそうに頭を下げたのだった。
食べる前に、それぞれがバラバラと動く様子をカメラに収めた。
彼がソワソワとして食卓を覗き込み、料理長と女将が箸や取り皿を手に行き来している瞬間だ。
湯気がブレた瞬間が撮れる。
『どうぞ、座って下さい。』
ふたりが席に勧めてくれる。
『ありがとうございます。』
僕達は言葉に甘えて隣合って座った。
座って見下ろすとまたどれもこれも美味しそうにしか見えない。
美味しいに決まっているけれど。
ドキドキする瞬間だ。
日本酒の前に、女将は瓶ビールの栓を開けた。
小さなビールグラスに注いでくれる。
手慣れた所作は美しい。
働き者の手にお酌をされるなんて、とても贅沢だね。
それから瓶ビールを彼が手にした。
料理長と女将のグラスに注いだのだった。
ふたりのお礼の言葉を、彼は視覚でしっかりと受け取り微笑んだ。
ささやかなお礼の気持ち。
この料理だってもちろん宿代として支払うけれど、それ以上にふたりの心遣いと優しさが嬉しいのだ。
ただの客に、こんなふうに振舞ってはくれないでしょう。
僕達はグラスを寄せて鳴らした。
この音だって、心では感じてくれているはず。
零れないように唇を寄せて喉を鳴らし、白い髭を作る。
ふたりで同じ顔になりながら顔を見合わせた。
笑ってみると、とても楽しいと感じた。
料理長が土鍋を開ける。
そう、この中身はなんだったのだろう。
湯気が現れる。
そして山の匂いがした。
深い深い山の匂いだった。
『うわ、』
思わず声が出た。
彼も可愛い目を見開いて土鍋のなかに表情を明るくさせた。
きのこの炊き込みご飯だった。
舞茸、椎茸がたっぷりとご飯の上を覆っていた。
鶏肉も見える。
人参も、油揚げも。
『うわあ、すごい、美味しそう、』
『お焦げもありますからね、』
女将がしゃもじを入れてご飯を下から持ち上げるようにして混ぜ始めた。
具材とご飯を潰さないように、手つきをふんわりとさせて。
僕は思わずカメラを取った。
その手を撮った。
湯気を、踊るような舞茸を。
まさに、香りが踊っていた。
ユンホ、いい香りだね。
感じてるよね。
踊っているみたいだね。
茶色く味付けされたご飯は艶を失っていない。
そして見えるお焦げの部分。
かりかりとした具合が食欲を更にそそる。
茶碗を渡される。
この一杯の幸福の大きさは計り知れない。
僕が受け取り、ユンホに渡す。
それから、僕が女将に自分の分を渡して貰う。
『こちらもどうぞ、』
料理長が鍋を器に取ってくれる。
熟練された職人の手だ。
僕は慌ててその手も撮った。
撮れたものを、後日ふたりに送りたいと思っている。
たくさん撮ったものを、たくさん送って見て欲しかった。
何気ない瞬間に、僕と彼は満たされていたんだと、伝えたい。
鍋はお土産にした白菜と、豚肉の鍋だった。
鍋の淵に浮かぶ豚肉の脂。
白菜の色はもう透き通っている。
脂が染み込んで芯を柔らかくしてくれている。
シャキシャキした白菜も好きだけれど、豚肉と一緒に溶けるような甘さを纏ったものも大好きだ。
先に飲んだビールが空っぽの胃の中で料理を運んでこいと訴えてくる。
酷く胃袋がへこんだ気がした。
痛い。
はやく、食べたい。
四等分されたカレイの切り身。
茶色い照りが美しい。
小鉢のなかのカボチャも、里芋の餡掛けも、ほうれん草のからし和えも、みんなみんな美味しいそうだ。
小鉢のなかで肩を寄せあっているように見えるよ。
『どうぞ、』
たっぷりと白菜と豚肉を盛られた器を渡される。
今度は渡すのではなく、彼の前に器を置いた。
なんとなく、零しそうで。
言ったら怒られるだろうけど。
ふふ。
続いて僕も受け取る、「召し上がれ」という声を頂く。
ああ、もう、限界だ。
はやくこの鍋の脂の旨味も、炊き込みご飯も五感で感じなくては気が済まない。
『いただきます!』
彼が言った。
どの瞬間で自分にゴーサインを出したのかな。
しかし、遅れてはならない。
僕も食べなくては。
『いただきますっ、』
さっと手を合わせて、すぐに箸を伸ばす。
まずは鍋のスープを。
ひと口啜った瞬間に広がる豚バラ肉の甘味。
脂に馴染んだ白菜の甘味。
ふたつの甘味が口の裏側で美味しさを爆発させる。
甘味、濃厚さ、奥の奥に潜む出し汁の存在。
顔面に降りかかる湯気が体温を上げてくれる気がする。
『あったかい、』
思わず溜息とともに声が出た。
『うまっ、』
隣からも声が上がった。
彼は炊き込みご飯を食べたようだ。
待って、僕も食べる。
なんてつい言ってしまいそうになる。
鍋用の器を置いて、すぐに茶碗を持つ。
箸で掬いあげたらきちんと舞茸が乗ってくれていた。
頬張る。
まさにその動作。
気持ちが先走って飲み込むような動きになってしまったかもしれない。
お行儀悪いかもね。
でも、抑えられなかった。
茶色い旨味がぶわっと広がる。
舞茸、椎茸、鶏肉の茶色い旨味。
醤油と出汁の旨味。
それらの茶色い美味しさが、ぎゅっと詰まっている。
それから、お焦げの茶色も。
『ああ、』
声が漏れる。
泣いてしまいたくなる。
『美味しい、』
つい、実家の母を思い出してしまう。
お母さん、そう、言ってしまいそうになる。
舞茸の香りが、醤油に引き立てられている。
山の香り。
『すごい、こんなご飯食べたことないです、』
料理家の彼の家でも味わったことがない。
隣の彼は黙々と食べ続けていた。
『ここで採れたものしか使ってないからでしょうね、』
料理長が言った。
ここは海も山もある。
それがたくさん混じった食卓だ。
そして地元の人の手によって作られた。
地産地消は、それら三つ揃って初めて言えるんじゃないだろうか。
その土地のものを、その土地の人の手で。
だから今まで食べたことがなかったんだと思う。
生まれて初めて訪れた場所なのだ。
だからこその、この初めての味なんだ。
なんだろうな。
この喜びを表現できる言葉って。
なんだろう。
『生きてて、よかった。』
女将と料理長が、僕を見た。
彼が何かを察知したようだ。
彼も僕の顔を見ていた。
首を傾げて、僕を伺っている。
僕は、ふたりに伝えたいことを、彼にも伝えたいと思った。
椅子の背もたれに、背中と挟むようにして置いておいたノートを取り出す。
テーブルの上にはスペースがないから、膝の上で書いた。
「おおげさかもしれませんが、」
皆が待ってるから、急いで書き殴った。
「生きてこの味をよろこべることを、しあわせだとおもいました」
気持ちが焦って、簡単な漢字しか書けなかった。
「たいせつな人と、たべることができるしあわせ」
もう漢字も書けない。
「おふたりにであえたことが、しあわせだとおもいました。」
似たようなことを、手紙にも書いたけれど。
より露骨な気持ちがここに現れた気がした。
沈黙が生まれた。
そして、ノートとペンを、彼の手が取っていく。
彼は僕と同じように膝の上で書き始めた。
僕を見て、ふたりにノートを見せる。
「きこえていたら、ここにはこなかった」
そうだね。
今頃あなたは現役のアスリートで、世界中を飛んでいたかもしれない。
「うしなったものは、かなしいとは思う。」
そうだね。
そうだよね。
「でも、かなしいところから、うれしいと思うであいがあった。」
うん、そうだね。
「きえないかなしさは、あたらしくみつけたよろこびと同居している。」
同居。
悲しみと、喜びの同居。
ああ、そうか。
それはつまり、彼の姿そのものだ。
笑顔の背景に、せつない思いがたっぷりあるのだ。
「とびこえるたのしさもあった」
飛び越える、楽しさ。
「ふたりでここに来れたことが、明日を変えてくれたんだとおもいます。」
変えてくれた。
未来を過去形で言うんだね。
あなたの未来が、決まった証拠なんだね。
あなたの明日が見えたんだね。
心に決めることが、出来たんだね。
おめでとう。
そう言いたかった。
泣きたかった。
けれど泣けなかった。
もうたくさん泣き過ぎたから。
きっと今夜もせつなくて嬉しくて泣くのだろうから。
彼の胸で。
食事の時間ぐらい、泣きたくなかった。
「なにをあいしているのかを、みつけられたたびでした。」
そう書いた彼の顔には、微笑みがあった。
僕を見て頷いて、彼は前の席に座るふたりに深く頭を下げたのだった。
静かに、深く、長く。
『その優しさが、とっても美味しい。』
彼が言った。
ふたりへの言葉だった。
泣くまいと、精一杯我慢した。
彼だって泣いてないのだから。
でもね、女将は泣いていた。
やっぱり、声というのは人の心を動かすものだ。
ユンホ。
このふたりに優しくして貰えたのは、あなたの心の声がきちんと届いていたからだ。
ふたりが一方的に与えてくれたんじゃないよ。
あなたの人としての本質が、彼らに理解して貰えたんだ。
だからこんなに、美味しい食卓を与えて貰えたんだよ。
思い出して。
野次馬のように興味だけの目を向ける人たちと、商店街で出会った人たちの違いを。
あなたを傷つけた人たちと、この旅で出会った人たちの違いを。
猫達を。
そして、僕を。
僕はいるよ。
あなたのなかに、ずっといるよ。
声とは、全てが音であるわけではなかった。
声とは、眼差しであり、微笑みであり、指先である。
言葉とは、その人のもつ愛である。
傷つける言葉すら発することが出来なくなった人がここにいる。
傷つける言葉を聞くことが出来なくなった人がここにいる。
そんな人が生み出す声は、僕には愛にしか見えない。
愛にしか、聞こえない。
文字は声である。
唇は、声である。
眉の動きも、溜息さえも、声になる。
ユンホ。
僕が見つけたものはね、あなたの愛の読み取り方や、聞き取り方だったんじゃないかな。
あなたと共に生きる為に必要なものを見つけた旅だった。
日本酒に手をつける頃、僕達は音を気にせず笑いあっていた。
彼も、二人も、僕も。
音を飛び越えて、僕達は笑うことを共有した。
蕩けるカレイの煮付けを解してやりながら、僕達は笑った。
炊き込みご飯を何度もお代わりをした。
明日のお弁当を、また違った炊き込みご飯で作ってくれると約束した。
僕達は明日の午前中にここを起つ。
朝食を頂いて、ここよりも都会のあの部屋に帰る。
マンドゥンイに会える。
彼と帰る。
明日の夜は、彼の明日を一緒に見つめているだろう。
泣き止んだ女将の写真を撮って、僕達は完食するまで食べ続けたのだった。
(∵`)土鍋欲しいのぅ
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