「どこの党がなっても結果は同じなのにね」
 珍しく夕食の時間に帰宅した夫のポオは、ワインを片手にそんなことを言った。先日の参院選の話をしているのだろう。私はそれをキッチンで料理をしながら聞いていた。
「同じなわけがないでしょ? 政策も方向性も違うわ」
「そうだね。でも歴史には力学がはたらく。慣性の法則みたいに、元に戻ろうとする力がね。その力は強大ないっぽうで元を辿っても一個人や一団体には簡単に還元しにくい。スクールカーストのように、ごく自然に発生するものだ。よく言うだろ? 歴史は繰り返すって」
「歴史に力学なんておかしいわ」
 私は夫の前にトマトとモッツァレラのチーズを置く。ポオはそれに食卓の塩と胡椒を振りかけ、一度口髭を撫でてからフォークを突きさす。
「今日のはとびきり新鮮そうだね。君の美しい肌のようだ」
「残念ね。私の肌は何一つ損なわれていなくってよ」
「損なわれても困る」
ふふっとポオは笑う。このシニカルな微笑に、私はいつも心を動かされてしまう。もう結婚してだいぶ経つというのに。そもそも家に居つかない夫に、飽きようはずがない。滅多に出ないテレビ俳優に飽きがこないのと同じ原理だ。本当に夫は卑怯だ。殺してやりたいくらいに。
「ええっと、それで、歴史の力学の話だったかな。まず前提として、この国は江戸幕府の200年以上に及ぶ歴史に幕を閉じ、開国して明治政府を作ったものの、その構造は暮らしの外観を大きく変えただけで実際は江戸と大差のないものだった。第二次大戦の終りまで身分制度もあったしね。それが大きく変わったのは大戦後に民主主義国家を目指すようになったからだ」
「目指すとは妙ね。ここは民主主義国家よ」
「そう呼ばれている。でも民主主義国家というのはどこの国もそうだが、それ以前の国家体質をどうにかこうにか民主主義に向かわせようとしつつも民主主義に徹しきれないのが現状さ。この国もメディアでも国会でも民主主義とは思えない耳を疑うような言動が日々飛び交い、政策がまかり通っているじゃないか」
「そう言われれば……たしかに……」
「無理をしているのさ。でもこの無理はやるべき価値のある無理ではある。少なくとも、より良いイデオロギーを見つけるまではね。ところが、ここでさっき言った歴史の力学がはたらく。慣性の法則はもとの状態に戻りたがる。民主主義を目指すより前の状態にね。僕がどこの党に入れても結果は同じと言ったのはそういうことさ。この国は全体的生命としていずれ力学に「負ける」気がしている。いっそ、AIにでもすべてを任せたほうがいいね」
「そうかしら。そんなことをしたら非人間的な国家になっていくわ。無駄をすべて排除して、経済的必要があれば戦争も辞さないような国に」
「何が現状と違うというんだ? それ、今まさにこの国が向かおうとしている方向じゃないか。いま国家は非人間的な方向へと舵を切りつつある」
「非人間的……そうね、先日の相模原の事件もそんな今を象徴していると言えそうね」
「ふふ、君がそんなことを言いだすとはね。あの事件を政治と結びつけたり、この国の状況と結びつける声をよく巷で聞くが、僕はあまり賛同できないな」
「どうして? だってあの事件は現代社会の問題点を浮き彫りに……」
「一個人の犯罪からモデルニテを摘出するのはナンセンスさ。現代に生きている以上、どんな愚行にもモデルニテ(現代性)があるに決まっている。だが、それは社会に問題提起するものではない。前からあるものに、犯罪者が乗っかっただけだ。騒ぎ立てるには及ばない。愚行は愚行でしかない。あの犯罪が何かを象徴するというなら、すべての犯罪に今が刻まれているよ。むしろ僕が興味深かったのは、あの事件が何を象徴するかではなく、世間があの事件にかこつけて何を語ろうとしているか、だ。人々は事件を、国家の非人間的体質と結びつけようとしている。恐らくは前から薄々気づき始めていたことに、今回の事件を得て、うまくそれを結びつけたのだろう。要するに、この国はすでにだいぶ前から非人間的国家への道を辿っていたということだ。ただし、ただの非人間的国家ではない。そこに帝国主義へと帰ろうとする力学がある。僕がいっそAIといったのは、AIには歴史の力学がはたらかない可能性があるからだ。もっとも、それは人間社会の歴史力学よりよほど悲惨な結果を生む可能性もはらんでいるけどね」
「……あなたの話は難しいわね」
夫は嬉しそうにモッツァレラをフォークとナイフで切り分ける。
「ところで君、僕が今日早く帰ってきたわけがわかるかい?」
「さあ、わからないわ」
「僕のお気に入りの女の子が行方不明になってねえ。とても白い、そう、ちょうどこのモッツァレラのような肌をした子だったんだが」
そう言いながら夫はそれにフォークを刺す。
「ふむ。モッツァレラから赤い液体がねぇ」
「トマトよ」
「トマトか、そうか。それにしてはずいぶん赤い」
夫は最後のひとつを口に収めると、それを味わい尽くすように目を閉じた。それから、立ち上がると私を抱き上げた。抵抗したくてもその力は存外に強くて、その腕のなかでは暴れることさえできなかった。
「君に御礼を言わなくてはね。本当に愛おしい一品だった。今夜はどうも君の愛の力学に抗えそうにないな」
そう言って優雅に微笑むと、夫はいつものように寝室へと向かった。私は思った。力学に抗えないのは私も同じだ、と。たとえその先に崩壊しか待っていないとしても、待つことしかできないのだ。今宵は夫を独占しよう。腕によりをかけた甲斐があるというものだ。