こんばんは。付き人です。今夜は三回に分けてお届けしてまいりましたドキュメント「『人魚姫の椅子』が生まれるまで」の最終回(のはず)です。今夜は丹地陽子先生による豪華挿絵付き!(※転載不可) 森さんていつも文豪っぽく和装で仕事してるのね(違)

ちなみに! 現在、西荻窪のURESICA(ウレシカ)さんでは、丹地陽子の個展「読書の愉しみ」が開かれています。「黒猫の薄い本」やその他グッズ販売はもちろん、丹地先生のイラスト原画を間近で見られるチャンスです。ぜひ足をお運びください!URESICAさんHPはこちら→http://www.uresica.com/gallery.html#event

さて、前二つの記事を未読の方は

アイデア篇http://amba.to/2gODtXR

プロット篇http://amba.to/2gIJ0MO

をご覧ください。

 

さて、前回から月日は流れ、夏も終わりに近づいた某日──ふたたび森(と記述することにする)の書斎を訪れてみた。部屋は以前より荒れたようだ。だいぶ苦労の跡がみてとれた。プロットが通ったのが四月あたりだったから、そこから四か月あまり。森の執筆期間としてはゆるりとしたものだろう。

「どうですか? 例のハヤカワさんの新作は、出来上がりましたか?」

「いま三話目を書いてるんだけど……」

「三話目? というと、連作ミステリになったんですね?」

「うん。もともとは長編のつもりだったんだけど、あちらが連作希望ってことで、あと、できれば続編の可能性も考えた作りに、という話なのでね、少し元のプロットからはちょっといじって連作風にしてみた」

「どうですか? うまくいってますか?」

「ううむ……どうかな。一話、二話はそこそこうまくいったような気がしないでもない。ただ、何だろう、まあいつも通りかな。よくもわるくも」

「よくも、わるくも……」

「何て言うか、連作短編集やるときってパチンコの台に座ったような気分なんだよ。一話目で当たりが出るとも思わない。ただ何となくの手ごたえを信じて二話、三話と続けていく→当たりがいくつか出てきて、全体にまとまりが出てくる→巻き戻って修正する、という流れなんだ。だから、今のところ6割の手ごたえだとしても、まあ最終的にどうにかなってしまうということもないわけではない」

「ふむ。じゃあいいじゃないですか?」

「まあね。イチローは普通はゴロになるはずの球を内野安打にできるでしょ? あれと同じで、作家も作数を重ねるとゴロにしかならないようなアイデアでも、まあ何とか商品にはなるか、というものができるようにはなる。でもねぇ、それが味になる場合もあれば、マンネリにしか見えないときというのもあると思うんだ。この作品はどうかな……なんか手が止まっちゃったんだよね。これ以上書いても良くならないというか」

「原因は何なんでしょうか?」

「たぶん、主人公の設定かな。シリーズもの前提とか連作集とか言われると、どうしてもその主人公にしか解けない謎を考え、その主人公だけの推理法というものを考える。そうすると、僕の場合はペダンティックなものを主人公に背負わせることになる。でもそれやると、たとえば今回、椅子にまつわる話だから椅子職人の男の子でしょ? その子の特性で探偵要素持たせると、黒猫の超縮小版にしかならないわけよ。しかも事件がいちいちぜんぶ椅子に絡む。で、椅子をもとにした解釈法になって……なんか最初に想像していたスケール感が全部吹っ飛んじゃってる感じがするんだよなぁ。ああこまった」

「えっと……刊行はいつでしたっけ?」

「12月」

「え! じゃあ9月には入稿しないとじゃないですか!」

「あ、それは普通の出版社さんね。早川さんは超スリリング進行だから10月入稿」

「10月…すごい(絶句)。いやいや、それでも今から書き直してる暇はとてもないですよね?」

今は8月の30日だった。もうあとほぼ一か月しかない。本当にこんな状態で本になるのだろうか?

そんなことを思っていると、メールを告げる音がする。どうやら、森のパソコンにメールが届いたようだ。

「あ、T嬢からだ。……ふむ、どうやらT嬢も今のところ送っている2話分に違和感を抱いているようだ。感じている問題は僕とだいたい同じところだな。これは……やり直すしかないなぁ」

「でも、もう時間がないですよ?」

1か月で執筆。ふつうに考えれば不可能ではないのだろうが、今の森はいくつかの作品を並行して進めている。そんな状態で1か月でゼロから書き直すなんて、森だって経験がないだろう。

「やるしかないよ。T嬢もだいぶ事態の深刻さを感じているようで、明日電話できないかと言っている。なら明日までに根本から考え直そう。この小説にとって何がもっとも大事なのか、どういう展開が望ましいのか」

「そこまでしなくても……出版時期を延ばしてもらえばいいじゃないですか」

「そういう考え方もあるよね。でも僕は個人的にそういうのは編集者が判断すればいいと思ってる。こっちは無駄でもなんでも全力投球する。その結果がダメかどうかってのはT嬢が的確に判断できるよ。それに──」

「それに?」

「これは僕自身の賭けでもある」

「賭け?」

森は数年前の話を始めた。デビュー当初、森はさる出版社に原稿依頼をされたという。刊行月までぼんやり決まり、入稿に向けて改稿依頼をされた。ところがここで、森は肩に力が入ってしまったらしい。

「必要以上にあれこれ変えたくなってしまった。何がダメなのか冷静に判断できなくなって結果その前に出していた原稿とぜんぜん違うものを出して、挙げ句それがその前の原稿を超えていないと判断された。出版はとうぜん流れた」

「そんなことがあったんですねぇ」

「こんなのは出版の世界じゃよくあることだよ。ただ、僕もデビュー五年目だからね。デビュー当初と同じしくじりをここでまた繰り返すようなら、この五年には何も意味がなかったってことだと思うんだよ」

「そんな、そこまで言わなくてもいいんじゃないでしょうか」

「いや、まるで意味がなかったことになる。この関門をクリアできるかどうかは、ある意味僕が次のステップに進めるかどうかの重要なポイントでもあるんだ。ここでつまづいたら、そこまでの作家ってことだよ」

森の決心は固いようだった。その夜、ほぼ徹夜で森はプロットの再考作業を行った。問題点は、連作集にしたときに一つ一つ別個の謎を設定したため、もともとあった全体の謎との絡みがぎくしゃくしていることにもあった。また、その都度探偵が推理を加えることで黒猫臭が出てしまうことも。

森は結局、一話一話に謎をつくる従来の連作のやり方をやめた。そして、そのプロセスにおける探偵の推理も。

「小説を何となく書いている少女と、椅子職人を目指す少年がいる。二人がものづくりをどう捉えるか、その捉え方が一話ごとに少しずつ進展していく。そしてその進展が同時に事件の進展にもつながる。すべてが有機的につながった、この題材にふさわしいプロットにしなければならない。僕は最初の志を知らぬまに途中で放棄していたんだよ」

森はそう言ったきり、あとは黙々とキーボードをたたき続けた。

翌日、T嬢はメールで言っていたとおり、森に電話してきた。そしてこう提案した。

「やっぱりこれ、一からやり直しですかねぇ。出版、延期しましょうか? 私が社内で頭を下げれば済むことですから」

「一か月ください。9月末より少し手前までには原稿を仕上げます。それを読んでもらって、やっぱり無理なら、そのときは延期をお願いします」

「……わかりました」

こうして、森の最後の挑戦が始まった。この五年を振り返っても、森がこんな短期決戦に臨んだことはないだろう。執筆期間一か月未満というのは、「黒猫の接吻」がそうだった。でもあの頃はあれ以外に急いで書くべきものはなかった。あのときとは状況が違う。果たして本当にできるのだろうか?

「まず20日に書き上げてそこから5日~7日で読み直して修正していこう」

森はこうざっくりとスケジュールを立てて執筆を開始した。その集中力はすごかった。いつもなら十分に一度挿入されるネットサーフィンすら一時間に一回するかしないか。珈琲は注いでもクッキーやチョコを食べない。間食ゼロ。たぶん、食べる気分になれないのだろう。

ひたすらキーボードをたたきまくる。一日のノルマを終えるまでほとんど何もしゃべらず、キーボードの音が響き続ける。

そして──27日後。本当に原稿は完成していた。

最後の三日は森はほとんど眠りさえしていなかったようだ。かなり青ざめた顔で森は倒れ込みながら言った。

「できた……たぶん、いい出来なんじゃないかな」

「や、やったじゃないですか、森さん!」

「うむ、書くこと、ものを作って、人に届けるということを見つめ直すことにもなった。どうして自分は書くのか、そして書き続けるのか、うっすらだけどその答えを提示できたと思うよ。これを書く前に息絶えなくてホントによかった」

「おめでとうございます! って、いま息絶えないでくださいね」

「まだ早いよ。T嬢の客観的評価を待とう」

森は原稿をT嬢に送った。そして、一週間後、T嬢から一報が入る。いくつか修正してほしい点が書き込まれており、その修正をまって入稿するということだった。森はすぐに修正作業に入った。そして、10月初旬、無事に入稿。

森の長い闘いは、終わりに近づいていた。

「原稿、何とかなって本当によかったですね」

「いやいや、まだこれからだよ。ゲラになってからが本当の闘いなんだから」

そう言いつつも、森の顔は穏やかだった。たぶん、大きな山をひとつ越えたのだ。

実際、その後の流れはスムーズだった。いつもどおりT嬢及び校正さんのチェックは超絶厳しかったが、それでも森はめげずにゲラと向かい合った。そうして、十一月半ば、とうとう最終ゲラチェックを終えた。

「こ、こんなギリギリまで作業ってやるもんなんですね、これで来月の頭に本が出るとか……すごいハラハラしました」

「だから言ったろ? ハヤカワさんの進行はスリリングだって」

「結局、タイトルは何になったんですか?」

「ああでもないこうでもないって意見出し合って、最終的には『人魚姫の椅子』に落ち着いた。でも最適なタイトルだと思うよ。物語をトータルで表してもいるし、入り口としてもちょっと矛盾をはらんでる感じで面白い」

そして11月の終わり、装丁デザインの色校が届いた。装画は丹地陽子先生。装丁はハヤカワデザインさん。

「以前、『人魚姫の椅子』の執筆がいよいよ佳境ってときに息切れしかけてたとき、丹地先生が付き人が海辺を歩いているイラストを送ってくださったことがあったんだ。それを見た瞬間、これだ! って叫んでしまった。僕のイメージするこの本の表紙にもっとも近かったんだ。それで、そういう自分の感想なんかも丹地先生やT嬢に伝えて、あとは二人で打合せをしてもらった。しかしまあ想像の何乗か上をいってるね、これは。文字組みもすごくいい。決まってる」

「うん、同感です。ていうか、きっかけは私のイラストだったんですね……意外です」

 

かくして、あまりにスリリングすぎる『人魚姫の椅子』執筆の日々はついにピリオドを打たれた。しょうじき、まだそれがどのような作品か拝読していない自分には、これ以上詳しいことは言えない。読ませてもらいたかったのに、森が絶対に読ませてくれなかったのだ。

だから、未来の飼い主のみなさん同様、こちらも12月8日まで気長に待ちたいと思う。どんな話なのだろう? 一通のラヴレターがきっかけで起こる失踪事件をあつかった青春ミステリ。そう言えば、黒猫がぶつくさ文句を言っていた。「あいつまた俺を特典のダシに使いやがって」と。またQRコードあるのかな?

といったところで、3回に分けてお送りしてきたドキュメントは幕。お付き合いいただきありがとうございました。それではみなさん、8日頃、どこかの書店で『人魚姫の椅子』を飼い求めている私を見かけたら声をかけてくださいね。ではでは。

 

 

 

 

 

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(一つ前にアイデア篇があります。未読の方はそちらからお読みくださいhttp://ameblo.jp/millionmaro/entry-12223857689.html

黒猫の付き人を務める合間を縫ってミステリ作家・森晶麿の制作の裏側を追い続けて一年と少しが経過した。

2015年、森は早川書房より『四季彩のサロメまたは背徳の省察』と

『黒猫の回帰あるいは千夜航路』の二冊を上梓している。

 

 

 

「四季彩のサロメ~」が誕生した経緯については前回お話ししたとおり。そこには「椅子使い」のプロットの挫折という背景があった。
しかしおかげで精力みなぎった華影忍なる青年が誕生することになる。〈歩く女百科全書〉を名乗るこの男がサロメの誘惑によって悲劇へと突き進む物語は、黒猫シリーズとは対極にあるような妖艶な雰囲気に包まれている。

「ちょっと思い切りがよすぎた気がしますが……」

「そう? そういえば君は昔、華影忍と図書館で出会っているね」

「え…! そうなんですか、全然覚えていません」

「そうか、忘れてしまったか。まあまた会えば思い出すさ」

「会わなくて結構です!」

先日とうとう読む機会を得たのだが数ページ読んだだけで赤面して本を静かに閉じてしまった。それに黒猫がやたら読むのをやめろというのもあってなかなかその先を読めずにいる。

でも黒猫シリーズの外伝的位置づけと聞いているので気になるのは非常に気になる。

「まあそんなことは置いておいて、以前仰ってた『椅子使い』とはずいぶん違う系統のものをお書きになりましたね。これはどうしてですか?」

「それはT嬢が高校生の話を読みたいって言ったからだね。僕が提出した『椅子使い』のプロットはある男女を幼少期から大人になるまで、かなり長いスパンで追っていく話だったけど、T嬢は高校生のお話が読みたいです(キリッ)って言ったから、それなら一生分を高校時代のある一年に凝縮してしまうか、とやってみたらエロが濃くなった」

「濃くなりすぎです。青春の甘酸っぱさとか、そういうのが欠けてますよ」

「それってさ、後から感じるものじゃない? 青春の真っただ中にいるときに甘酸っぱいなんて、考える? 絶対考えないよ。青春って残酷なものだと思う。とくに男子にとってはむせかえるような内的衝動との戦いなんじゃないかな。どうやったら相手に『触れた』ことになるのか。手を伸ばせば心がわかるわけでもない。でも手を伸ばし始めたばかりの頃は、まだそこに心があるかどうかも見分けられないんだよ。黒猫もきっとそうだったんじゃないかと思うけどね」

「むっ…そ、それはあまり想像したくないですね」

そもそも黒猫が黒いスーツ以外を着ているところが想像できない。

「まあサロメはいろいろと発見があったよ。まず男性一人称で書いて、なおかつ黒猫シリーズの読者に読んでもらうものにする、というのは相当高いハードルだった。でもそれをやったおかげで、〈女性視点からしかいい男は書けないんじゃないか〉という呪縛からは抜けられたし、かなり毒気の強い物語に仕立てることにも成功した。そう、いま〈物語〉と言ったけれど、謎、推理、解決という図式だけではない、展開のうねりがあったという意味ではサロメには物語の萌芽があったと思う。ただ、僕が目指す物語はもう少し温度の低いものなんだよね。サロメはその点では良くも悪くもとても激しい」

「そうですね、たしかに激しいです。そしてその激しい物語「サロメ」に座を奪われた『椅子使い』はいったんお蔵入りになり、その次にはまた黒猫シリーズの新作がきましたね」

「そう、君と黒猫にとってとても大事な回。神回ともいうべきシリーズ最新作だ」

「もうそれ以上は言わないでください!」

暑い、部屋は涼しいのに暑い。

「それで、『回帰』には何か作家としての発見はあったんですか?」

「うん、あったね。とくに第三話の『戯曲のない夜の表現技法』。あれはほぼ君と黒猫は添え物めいた扱いで、女優の卵の女性と演出家の男性の恋物語がメインにある」

「あれが、発見だったんですか?」

「それまでずっと〈物語〉を書きたい、と思っていた。でも、たとえば公園で手袋を探し続ける老人の数奇な運命を僕が書いても、残念ながら需要がないんだ。僕は面白いと思うけど、そこに恋愛が欠けていたら、読者によっては大きな肩透かしを食うことになるかもしれない」

「ああ、たしかに、そうですね。たとえ老人の行動に美学的な意味が生じていたとしても、それだけで森さんの作品を読んだ満足感になるかと言われると、微妙かもしれません」

「そうなんだ。だから僕はこの作品によって、自分が物語作家へシフトしていくには、まずは恋物語を描ける作家になっていくのがいいなと思ったんだ」

「恋物語…っていうことは恋愛小説家ですか?」

「いや、恋物語と恋愛小説はちょっと僕のなかで違うんだ。恋愛小説は恋愛が主題であるような小説だ。対して、恋物語はある物事を恋の側面を通じて語る。決して恋愛が主題にはならない」

「ううむ、わかるようなわからないような」

「ある侍の男が身分違いの女と出会い、別れるまでを描いたら恋愛小説だね。でも、ある侍が剣を極める過程で鍛冶屋の女性に出会い、彼女との恋を通じて剣の道を見つめ直した場合、その主題は恋愛にはないから恋物語だ」

「……それって、一般的定義ですか?」

「いや、僕だけの定義。もちろん恋愛小説のなかにも恋物語であるものもあるし、必ずしも明確に区分できるわけではないけどね。とにかく、僕が恋愛小説を書くのは違うと思うけど、恋物語を書けば、それは黒猫シリーズの読者の期待にも応えられるんじゃないかと思うんだ」

「ふむ……その心は?」

「黒猫シリーズは毎回〈失われた恋物語〉を額縁のこちら側から君と黒猫がああでもないこうでもないと言いながらちゃっかり自分たちもちょっと焦れ焦れしてしまう話だ」

「うっ…そ、そうですね、まあ。暑いですね、この部屋」

「つまり、黒猫シリーズのなかにあらかじめあった崇高な要素というのは、たぶん額縁の向こう側にある恋物語なんだよ。そしてその額縁の向こう側の空気を君と黒猫が引きずることで、君たちの恋愛自体が高次なものに感じられる。じつは、ペダンティックだとか焦れ焦れだとかそういうのはうわべで、本当に黒猫シリーズが支持されている理由はここにある気がするんだ」

「ふーむ、それはいつ頃から気づかれたのですか?」

「吉祥寺でトークイベントをやったあたりからかな。あと特典クイズやってメールで感想いっぱいもらったりしたのもある。そうやってじかに読者と接することで、逆に黒猫シリーズの本当の魅力を教えてもらった気がする。僕自身は無自覚に編み出してるからね。パソコンの前に立てば勝手に君と黒猫がしゃべりだす感じだから」

「そうだったんですね……」

「だから読者の人たちに『焦れ焦れとかペダンティックだとかそんなうわべで好きなわけじゃないんです、それも好きだけど!』って言われている気がして、ようやく気づけた。たぶんもう僕は大丈夫だと思う」

「そうですか。なんだかわからないけど心強いです!」

そうして年が明けた2016年1月、ちょうどT嬢が高松にやってきて打合せをしたようだ。そこで森はふたたび『椅子使い』の話を持ち出した。もちろん以前とはちがうストーリーへと進化した『椅子使い』の話である。

そこでT嬢の食指が動いたらしい。打合せを終えて帰ってきた森は言った。

「手ごたえありだな。うまくいく気がする。もうプロットは僕の頭にできてるも同然だからね」

この日から、森は一気にプロットを作り上げていく。

「かたちそのものが内容であり意味であるような物語にしてみせる」

寝言のようにそんなことを言いながら。

「でも前回の失敗から学んだことは反映しないんですか?」

「するよ。まず、あんまり壮大すぎるのはまだ僕には早い。あと、たとえば〈Aは都市を彷徨っていた。〉なんて書き出しで始まる無国籍風の物語を作るのも時期尚早。あくまで、いまこの世界でふつうに生きている人間の物語として描く。それこそ、サロメとはぜんぜん別のテイストの、高校生が主人公の物語になるはずだ」

そのとおりだった。数日後に出来上がったプロット「椅子使いの身体コスモロジー」は高校生が主人公の青春ミステリだった。

そして今度はいくつかの条件は提示されつつも、見事にプロットが通った。

しかし、この時の森は知る由もなかっただろう。その執筆が想像以上に困難を極めることになるなんて。

(明後日更新予定の「執筆篇」に続きます)

 

 

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2年半ほど前から、わけあって、作家の生活を観察し記録することになった。

美学教授、黒猫の付き人としての業務の合間を縫ってだから、24時間ずっとというわけにはいかないけれど、時間の許すかぎり、森晶麿というミステリ作家に密着した。なかなかたいへんな仕事だった。

はじまりは2014年。この日、森(と記すことにする)は早川書房の編集T嬢と電話でやりとりをしていた。

T嬢「今度はいったん黒猫シリーズ以外のものをやってみてはどうでしょう?」

森は2014年の段階で、黒猫シリーズを5作書いている。もともとデビュー作の次に黒猫じゃない作品を出そうとしていたくらいだから、森は当然この依頼に喜んでいた。

森が電話を切ったのを見計らって、尋ねてみた。

「何を書く予定なんですか?」

「んん、わからない。でもあれかな」

「あれ…?」

「そう、あれ。椅子使い」

「椅子使い? 何ですか、それは」

話を聞けば、森にはデビュー前から「椅子使い」という単語が頭から離れないらしい。ただ、何度かプロットを立てたものの、どうにもファンタジーやおとぎ話にしか昇華できず、お蔵入りになっているという。

「それを今回やるんですか? でも、森さんはミステリ作家ですよね? ファンタジーのプロットを出したら、T嬢はきっと困りますよ?」

「うーん、わかってるよ。だから何とかミステリにしようと……」

「ほかのアイデアではいけないんですか?」

「いいんだけどね」

「何か、黒猫以外のイケメン探偵を創出するとか……」

するとそこで森がこちらを睨んだ。

「それはよそでもやってるよ。でも、そもそも、探偵があって謎があって推理があって解決っていう形式自体が、なんていうか自動車にボディかぶせないでモーターとかエンジンとかまるみえ状態で部品について褒め合ってる感じで嫌なんだよね」

よくわからない譬えだ。作家のくせに譬えが下手って致命的なのではないか、なんてことはもちろん口が裂けても言わなかった。

「ボディをかぶせないっていうか、それが推理小説なんじゃないでしょうか? 純粋形式の文学といいますか」

「うん、そうだね、そういう考え方もある。でも僕はたぶんそこを目指してないんだと思う」

「というと?」

「理想は、本を読んでいる間、次の展開、そのまた次の展開が気になってページをめくってしまい、読み終えてみると結果的にミステリだったことに気づいて『おお…』というやつ。はじめに思いきり『はいこれが引きの謎ですよ~』って感じで提示されて、『さあこれをみんなで推理していきましょう』っていう展開は何だか、ページ飛ばしたくならない?」

「んん、私はそういうものも好きですからねぇ。ていうか、黒猫シリーズってそういう小説ではないかという気が……」

「あれは、人によっては君と黒猫の恋愛部分だけ楽しんでくれればいいように書いてるからね」

「あ、そうだったんですか……」

言いながら頬が熱くなってしまう。恋愛部分だけ、とか面と向かって言わないでほしい。

「それで、『椅子使い』なら、その森さんの目指すミステリが可能かもしれないと考えているんですね?」

「いや、可能かもしれない、とも思わないけどさ。ただなんていうかね、また黒猫に変わる名探偵をひとつ別で作る、とかそんなことならわざわざ書く意味はないんじゃないかという気がするんだよね。あとペダンティックとかそういうのが売りになるのもいい加減卒業したほうがいいと思うんだ。恋愛要素とかキャラとか衒学とか、ぜんぶモーターとかエンジンみたいなものでさ、パーツを褒められてるみたいでいやなんだ。そういうんじゃなくて、物語をきちんと書きたい」

「でも、いまの森さんはやっぱりキャラを求められている気がします」

「わかってるよ。だから悩んでるんだよ」

この会話の数日後、壮大な「椅子使い」のプロットが出来上がった。「あや子と椅子と椅子使い」というのがそれだ。しかしこれは間もなくボツになる。ミステリ部分が弱いということと、物語として盛り上がりに欠けるというのが理由だった。

しかし、森の意気消沈ぶりが激しかったかというとそうでもなかった。

「まあ、だろうとは思ったよ。まだ時期が熟してなかったんだろう。でも前より良くなってる。何より、ファンタジーではなくなったしね。それは『椅子使い』にとって良いことだったと思うよ。今回は出番がやってこなかったけど、今後も僕の頭のなかで調整を続けていく。二軍で投げ続けるピッチャーみたいにね」

いちいち譬えが妙だな、と思ったけれど、それも口にはしないことにした。

その晩、森は夢をみたらしい。少年が女の子にナイフを向けられ、「やれるもんならやってみなよ」と不敵に微笑んでいる夢。その夢に出てきていたのが、華影忍だったのだそうだ。

そうして、上京した際、森は夢のスケッチを軽くT嬢に話し、これを黒猫シリーズの外伝的位置づけとして書いてみてはどうかと提案し、実現することになる。

「椅子使い」はこうしてふたたび長い眠りに追いやられることとなった。だが、森は希望を捨てたわけではなかったようだ。

「たぶんまだまだ簡単には黒猫シリーズの呪縛から逃れることはできない気がするよ。でも、とりあえずは10年後を見据えてやっていかなければならないんだ」

「10年後には何が待っているんですか?」

「文章を武器に戦える作家だよ」

「今は違うんですか? というか、作家は誰もが文章を武器に戦っているのではないのですか?」

「今はいろんな要素を武器にしている。たとえば、いま僕がある樹木に芽が出て葉っぱになり枯れ葉になって落ちるまでの話を書いたって誰も買わないさ。でも、文章だけが武器の作家なら、そこに書かれているのが真夜中の冷蔵庫の音についての描写だけで埋め尽くされていたって飼う価値がある。10年後にそこまでいくのは難しいかもしれないけれど、難しいと言い捨てて放棄することはしたくないんだ。だから、いくら周りからあいつは見当違いなことをしていると思われても、この挑戦は続けていきたい」

「なるほど。それは、きっと先日の車のボディ云々の話とも近いことなんですよね?」

「そうだね。文章を武器に戦うというのは、文章がすなわち内容ってことであり、それがすべてだってこと。さらに、それが物語として美しければ言うことはない。精巧な椅子とかスプーンみたいな感じかな」

「スプーン、ですか」

「スプーンはかたちがすべてだ。手にもって、掬うという目的があって、あの形になっている。目的がそのままかたちであり、それだけで美しい。そこにはエンジンだとかモーターだとかとあれこれパーツを論じる余地なんかない。論じられるのはスプーンそのものについてだけなんだよ。椅子もそうだね」

わかるような、わからないような。でもとにかく、森が真剣に悩んでいることだけは何となく伝わった。

「そのためにはどうすればいいと考えてるんですか?」

「そのためには──やっぱり『椅子使い』かなぁ……」

彼はそう言って、椅子のカタログを手にしていた。この頃から、彼は少しずつ椅子の参考文献を集め始めていた。いつかふたたび、T嬢から黒猫シリーズ以外の作品を、と言われる好機をじりじりと待ち続けながら。

そして──その好機は翌年にやってきたのだった。

 

(明後日更新予定のプロット篇に続きます)

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