「第6話 奴隷マーケット 後編 」の続きです。
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注:この小説は18禁です。現実と空想の区別がつかない方にはおすすめしません。
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マインドスイーパー
……精神掃除士(患者の精神疾患を主とした自殺病治療の特殊能力を持つ医師の総称)
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7.ジグザグパズル 前編
◇
人が「死」を認識するのは、何歳の時だろう。
死を恐れるのは、何歳の時だろう。
そして、死を受け入れるのは、何歳になってからのことだろう。
それを知っている人、覚えている人は殆どいないことと思う。
そもそも死とは何なのか。
恐怖し、畏れ怒り危惧し、そして結果的に「何なのか」分からず、自己完結して紛らわそうとする。
そんな不確定的で未確定かつ流動的な要素。
そもそも要素であるのかどうかも分からないそれは、私達の頭の中、そのすぐ傍を常にたゆたっている。
◇
汀は、壁を這っている小さな蜘蛛を、ぼんやりと見ていた。
どこから入り込んだのか、一センチくらいの茶色い蜘蛛が、一生懸命上に上ろうとしている。
どこに向かっているのか。
上に行って、そして窓も開かないこの部屋のどこに隠れ、何を獲って過ごすつもりなのか。
汀の脳裏に、足を天井に向け、床に転がっている蜘蛛の姿がフラッシュバックした。
気づいた時、汀は動く右手を、強く壁に叩きつけていた。
ジーンと手が痺れる。
ぼんやりとした視線を手の平を広げて、そこに向けると、もはや飛沫と化した蜘蛛の姿があるばかりだった。
「どうした?」
扉を開けて圭介が入ってくる。
汀は小さく咳をしてから、手と壁をティッシュで拭いて、それをゴミ箱に捨てた。
「何でもない」
「具合が悪かったらすぐに言えよ。そうでなくても、最近お前は不調なんだ」
「……お外に出たいな」
「生憎と今日は土砂降りの大雨だ。気づかなかったのか?」
圭介がカーテンを開けると、外の土砂降りの景色が汀の目に飛び込んできた。
しかし汀は、それを一瞥しようともせずに、ぼんやりと繰り返した。
「お外に行こうよ……何か食べに行こ」
「今の体調と、この天気じゃ無理だ」
「退屈だよ」
「ゲームは? 漫画は?」
「そんな気分じゃない」
我侭を言う汀を、圭介は呆れたように見ていたが、少しして息をつき、言った。
「……なら、患者の診察をしてみるか?」
「え?」
汀はきょとんとして圭介を見た。
「でも、マインドスイーパーは、先入観をなくすために、患者さんのことはあんまり知らないほうがいいって……」
「比較的軽度なら、別に構わないケースもある。それに、お前の精神衛生も考えてな……」
少し表情を暗くした圭介を、汀は不思議そうに見ていた。
やがて彼女は頷いて、彼に言った。
「どうせ暇だし、やってみるよ」
◇
「へぇ、あなたがねぇ。マインドスイーパーっていうのかい。小さいのに、たいしたもんだねぇ」
動く右手を、温かい両手で包まれ、汀はきょとんとした顔で、その患者を見た。
「こんなに痩せて。ちゃんとご飯は食べてるのかい?」
優しい顔をした、老婆だった。
「え……あ……は、はい……」
「そうだ。飴ちゃん食べるかい? 今時の女の子が好きそうな飴じゃなくて、のど飴しかないけど、私は黒糖入りが好きでねぇ」
かばんの中から飴を取り出し、二つも三つも汀の手に握らせる老婆。
温かい言葉と行為の攻撃に、汀はついていくことが出来ずに、圭介に困った視線を送った。
しかし圭介は、壁にもたれかかって腕を組んだ姿勢のまま、軽くにやけただけだった。
圭介を頼りに出来ないと気づいた汀は、飴を片手で剥いて口に入れ、残りをポケットに入れた。
そして戸惑いがちに口を開く。
「あの……診察……」
「あぁ、そうだったね。今日はお嬢ちゃんと、お話が出来るんだってね。私の孫も、小さい頃はお嬢ちゃんみたいに可愛かったのよ。今では結婚して、太っちゃったけどねぇ」
「は、はぁ……」
「何歳なんだい? 髪は染めてるのかい? 駄目だよ、小さい頃に染めたら、髪が痛んじまうよ」
「十三歳です。髪は、薬の影響で……」
「あら、そうだったのかい。それは悪いことを聞いたね……」
老婆のペースに流されまいと、汀は無理やりに話題を変えた。
「あの……自殺病の治療に来られたと聞いたんですけれど……」
とても、自殺病を発症しているとは思えない、優しい雰囲気と、元気なオーラを発している女性だった。
それを聞いて、女性はしばらく目をしばたたかせた後、合点がいったように頷いた。
「ええ、そうなのよ。赤十字病院に行ったら、自殺病の第一段階後期とか言われて、もう困っちゃうわぁ」
「だ、第一段階後期……?」
汀はそれを繰り返して、カルテに目をやった。圭介が書いた流浪なドイツ語が目に飛び込んできたが、当然汀には読むことは出来ない。
「それなら、投薬で十分治療できると思います。自覚症状もないみたいですし……赤十字の先生は、何て言っていましたか?」
戸惑いがちに汀がそう聞くと、老婆はにこやかに微笑んで答えた。
「それがね、どうも私は、自殺病の薬が効かない体質らしいのよ。困っちゃうわ、本当」
「は、はぁ……」
「よく聞いてみたら、ここの病院が一番スッキリ取り除いてくれるっていう話じゃないの。少し遠かったけど、来てみたっていうわけ。お嬢ちゃんと会うのは初めてだけど、高畑先生とは何回か診察でご一緒してるのよ」
ペラペラと、良く口が回るものだと言うくらい流暢に、老婆は喋ると、バッグから小さなペットボトルを出して、その中のお茶を喉に流し込んだ。
「圭介……」
「ん?」
圭介を呼び、汀は彼の方に車椅子を向けた。
そして小声で言う。
「赤十字に回したら?」
「まぁそう言うな。息抜きも大事な仕事のうちだ。それより、お前の見立てではどうだ、『汀先生』?」
問いかけられ、汀は手元の資料に目を落とし、右手で器用にめくりながら言った。
「別にダイブしてもいいけど……話口調もはっきりしてるし、瞳の混濁も見られないし……情緒不安定な面も、確認されてないみたいね……投薬が出来ないらしいけど、放っておいても自然治癒するんじゃないかしら」
それを聞いていた老婆が、口を挟んできた。
「それでも心配じゃないの、頭の中に正体不明の病気がいます、なんてことはねぇ。できればすぐにはっきりとした状態に戻して欲しいの」
「でも……自覚症状がないんでしたら、放置していても問題はないと思いますけど……」
汀はボソボソとそう返すと、息をついた。
「一応ダイブしておきますか? 一応っていう表現はおかしいかもしれませんけど……ただ……」
汀は、そこでキィ、と車椅子を老婆に向けた。
「心の中を私に見られて、あなたはそれで構わないんですか?」
端的な疑問をそのまま口に出す。
老婆は、しかし笑顔でそれに頷いた。
「最初は、どんな子がくるのかと思ってたけれど、あなたみたいな可愛い子なら大歓迎よ。どうぞ、沢山覗いていってくださいな」
「はぁ……そうなんですか」
納得がいかない、といった風に汀が首を傾げる。
そこで圭介が汀の脇に移動し、デスクから書類の束を取り出した。
「それでは、契約の確認をしましょうか。それと、当施術は保険の対象外ですので、その点もご了承ください」
「ええ、分かっています。どうぞ、宜しくお願いします」
老婆が深く頭を下げる。
汀は、それを複雑な表情で見ていた。
◇
汀は、施術室の中で、てきぱきと準備をしている圭介を見た。
老婆は、麻酔薬を導入され、ベッドに横になっている。頭にはマスク型ヘッドセットが被せられているが、別段、手足を縛り付けられているという風な様子はなかった。
「絶対おかしいよ。圭介、何企んでるの?」
そう問いかけられ、計器を点検しながら圭介は返した。
「別に。何も」
「私がやらなくても、赤十字のマインドスイーパーで対処できる内容だよ。てゆうか、ダイブする必要がないと思う」
汀の膝の上で、白い子猫、小白がニャーと鳴く。
「ダイブする必要がないって、どこをどうしてそう判断するんだ?」
「だって……たかがレベル1でしょ?」
伺うようにそう聞いた汀に向き直り、圭介は続けた。
「たかが? レベル1でも自殺病には変わりないだろ。何嫌がってるんだ?」
「嫌がってなんていないよ。でも、わざわざ私が行く必要があるのかなって」
「汀、何か勘違いしてないか?」
圭介は壁に背中でもたれかかり、息をついた。
「お前は、人を助けたいんだろう? なのに、この人は助けなくてもいいって言うのか」
「助ける必要がないと思うだけ」
「それはお前の驕りだよ」
断言して、圭介は少しきつい目で汀を見た。
「お前、自分を何か特別な存在だと思ってないか? お前は、特A級能力者である前に、一介の、ただのマインドスイーパーだ。マインドスイーパーは仕事をしなきゃいけない。それがどんな患者であってもだ」
「……圭介は、それが本心なんだね」
そう言って汀は悲しそうに目を伏せた。
「何?」
「圭介は私のこと、道具としか見てないんだ。道具だから言うこと聞けってことでしょ? 道具だから、文句言うなってことでしょ?」
怒りではなく、悲しみが伝わってくる言葉だった。
圭介はしばらく押し黙っていたが、近づいて汀の頭を撫でた。
「すまん、少し言い過ぎた」
「…………」
「最近お前、情緒不安定だぞ。体調も良くならないしな。だから、単純に、『普通』の人間の心理壁を観光ついでに見て来い、っていうだけのつもりだったんだ。いらない邪推をするなよ。幸い、患者もそれに同意してくれてる。小白とダイブして、遊んで来い」
「……遊ぶ? 遊んでいいの……?」
「ああ。そのために用意したステージだ」
圭介は軽く微笑んで、汀にヘッドセットをつけ、マスク型ヘッドフォンを被せた。
「少し、それで頭冷やして来い。時間は二十分に設定する」
「え、五分もくれるの?」
汀が素っ頓狂な声を上げる。
圭介は頷いて言った。
「ああ。それだけあれば、十分遊べるだろ。外に連れて行けない代わりと考えてくれればいい」
「分かった。圭介、変なこと言ってごめんね。遊んでくる!」
汀が笑ってそう返す。
圭介は、計器前の椅子に腰を下ろし、少し表情を曇らせた。
しかしすぐに柔和な表情に戻って、言う。
「行っておいで」
◇
汀は目を開いた。
そこは、巨大なトンネルのようになっている空間だった。
足元の小白を抱き上げて肩に乗せ、汀は周りを見回した。
「へぇ……」
そう呟いて、息をつく。
そして彼女は、ヘッドセットのスイッチを入れて口を開いた。
「ダイブ完了。さすが、精神崩壊が起こってない人の心の中って、綺麗ね」
『そうか。状況を教えろ』
「整頓された心理壁の内面に続く通路の中にいるみたい。トラウマに構築された世界じゃないね」
『今回のメインは観光だ。ゆっくりとしてくるといい』
「分かった」
頷いて、汀は散歩にでも行くような調子で歩き始めた。
ベートーベンの曲が聴こえる。
落ち着いた空気と、清涼感が漂う綺麗な場所だった。
トンネルは、全てジグソーパズルで出来ていた。
綺麗に全てのピースがはまっていて、そこには、老婆が観光で行った所なのか、いろいろな景色が映し出されていた。
そこには、必ず、同年代の男性と一緒にポーズをとっている老婆の姿があった。
それは、写真だった。
写真のジグソーパズルで構築されたトンネル。
思い出のトンネルだ。
汀は面白そうに笑いながら、手を広げてその場をくるくると回った。
足元もジグソーパズルだ。
どこに光源があるのか分からないが、ぼんやりと光っていて明るい。
「見て、小白。ハワイだよ、ハワイ。行きたいなぁ」
汀は、にこやかにピースサインをしている老人と老婆を見て、自分もピースを返した。
「私が生きてるうちに、行けるかなぁ」
『ハワイになら、夢の中で何回も行ってるだろ』
そこで圭介が口を挟む。
汀は頬を膨らませてそれに返した。
「夢と現実は違うの」
『そうなのか。俺には良く分からんが』
「本物は、もっとこう……違うんじゃないかなぁ。だって、この写真のお爺ちゃんとお婆ちゃん、笑ってるもん。こんなに楽しそうに、笑ってるもん」
『…………』
「私、こんなに楽しそうに笑えないな。ねぇ圭介」
汀は、裸足の足を踏み出して彼に問いかけた。
「私、大きくなったら大河内せんせと結婚できるかな」
『…………』
「結婚したら、普通にお母さんになって、普通に子供産めるかな」
圭介は、それには答えなかった。
汀は写真を覗き込んで、構わずに続けた。
「男の子がいいな。そして、女の子二人。せんせはなんて言うだろ。せんせは、忙しいから子育てできないかな。そしたら、圭介が手伝ってくれる?」
『…………』
圭介はまだ、押し黙っていた。
「圭介?」
ヘッドセットの向こうに怪訝そうに問いかけた汀に、圭介は口を開いた。
『汀、よく聞け。お前は……』
「ん?」
『……お前は……』
彼が言い淀んだその時だった。
突然、静かに鳴っていたベートーベンの音楽が消え、代わりに救急車のサイレンの音が鳴り響いた。
周囲も赤い光源になり、汀はハッとして周りを見回した。
「トラウマだ。でもどうして……?」
『……トラウマだって? どのくらいのレベルの奴だ?』
「この人の心が警鐘を鳴らしてるくらいだから、外部からの外的衝撃が加わったってことだと思うけ……きゃあ!」
ズシンッ、とトンネル内に地震が起こった。
バラバラと写真のジグソーパズルが降って来る。
汀は、震度七ほどにも匹敵する地震に抗うことも出来ず、ゴロゴロと地面を転がって、したたかに頭を壁にぶつけた。
ザァァァッ! と雨のようにジグソーパズルが降って来る。
息も出来なくなり、目の前が確認できなくなった汀の手の中の小白が、ボンッ、と音を立てて膨らんだ。
そして傘のようになり汀の体を覆う。
ジグソーパズルの落下はとどまるところを知らず、天井、壁、床全ての写真が崩れ落ち、無残に雪のように積もった。
地震が収まり、時折パラパラとパズルが落ちてくる中、汀はもぞもぞとその中から這い出した。
体の所々が、パズルの角で切れてしまっている。
小白が空気の抜ける音を立てて元にもどる。
そこで、ドルンッ、とエンジンの音が聞こえた。
汀がジグソーパズルの海の中、サッと顔を青くして振り返る。
そして、彼女は目玉を飛び出さんばかりに見開いて、硬直した。
そこには、ドクロのマスクを被り、右手に錆びた巨大なチェーンソーを持った男がゆらりと立っていた。
ピーポーパーポーピーポーパーポーと救急車のサイレンが鳴り響いている。
「いやああああああああああああ!」
汀は、耳を塞いで目を閉じ、絶叫した。
エンジンの音は、チェーンソーが起動した音だったのだ。
『どうした、汀!』
「やだ、やだ、やだ、やだ!」
『落ち着け、何が……』
「やだやだやだやだやだやだ! いやあ! いやあああああ!」
完全にパニックになった汀は、パズルの海を抜け出そうともがいて、その場に盛大に転んだ。
しかしそれでも、全身をブルブルと震わせながら、這って逃げようとする。
男が、パズルを踏みしめて足を踏み出した。
ズシャリ。
ギリギリギリギリギリ。
チェーンソーの端が、壁に当たりそこを削り取る。
汀は両目から涙を流し、腰を抜かしてその場にしゃがみこんだ。
「あ……あああ……あ……あ…………」
言葉になっていなかった。
男がゆっくりと近づく。
小白が、男と汀の間に立ち、シャーッ! と牙を剥き出して威嚇した。
その体が風船のように膨らみ、全長五メートルほどの化け猫の姿に変わる。
『汀、トラウマか? まさかドクロの男か!』
「圭介! 圭介、か、か……回線! 回線切って! 助けて! 助けて! 助けてえええ!」
いつもの飄々とした威勢はどこに行ったのか、汀が泣き叫ぶ。
彼女は後ずさって逃げようとしたが、壁に追い詰められてしまっていた。
『分かった、今すぐに回線を……ブブ……』
そこで圭介の声がノイズ混じりになり、ヘッドセットから、砂画面の音が流れ出した。
『何…………ザザ…………これ…………ブブブ…………』
「圭介!」
汀の悲鳴が、虚しく響く。
「一分…………逃げろ……し……待って…………ブブ…………」
プツン、と音が消えた。
次いで、突然ヘッドセットからの音がクリアになった。
そして面白そうに笑う、少年の声が聞こえる。
『なーぎさちゃん…………』
踊るようにその声は言った。
マスクの男が顔を覆うドクロの口元をめくり、裂けそうなほど広げた。
ヘッドセットと、マスクの男両方から、声が聞こえた。
『みーつけた』
そこで、小白がマスクの男に飛び掛った。
男がチェーンソーを振り回し、小白のわき腹をなぎ払う。
ドパッと鮮血が散り、小白が地面を、パズルを飛び散らかせながら転がった。
次いで男は飛び上がると、小白の脳天に向けてチェーンソーを振り下ろした。
「小白!」
汀が震えながら悲鳴を上げる。
そこで、しゃがみこんでいた汀の両腕に、壁から飛び出た鉄の枷が嵌められた。
あっ、と思う間もなく、彼女は壁に引き寄せられ、磔られた。
首と両足にも枷がはまり、汀は涙をボロボロと流しながら、横に目をやった。
彼女は、縦にした棺のような場所に磔られていた。
そして、ドアを連想とさせる脇の部分には――。
沢山の長い針が、内側に伸びた棺の裏部分が見えた。
頼りなげに揺れている。
棺の扉が閉じたら、中にいる汀は、その沢山の針で串刺しになってしまう。
そういう寸法だった。
暴れることも出来ずに、汀はただ、呆然と体を震わせていた。
彼女の股の間が熱くなる。
あまりの恐怖に、小さな少女は、年齢相応に恐怖し、そして失禁してしまっていた。
マスクの男が飛び上がる。
そして小白の脳天にチェーンソーを突き立てる。
しかし小白は、頭を強く振ると、男を跳ね飛ばした。
飛ばされた男は、まるで無重力空間の中にいるかのように、天井に「着地」すると、そこを蹴って、小白に肉薄した。
そしてパズルの一つを手にとる。
それがぐんにゃりと形を変え、ジグザグの鋲のようになった。
男は、それを小白の腕にたたきつけた。
小白の右腕がを鋲が貫通して、地面に縫いとめる。
もがく化け猫に次々と鋲を打ち込み、四肢を地面に磔にしてから、男はチェーンソーを肩に担いだ。
そして紐を引っ張って、ドルンドルンとエンジンを空ぶかししながら、ゆったりと汀に近づく。
「や……やあ…………」
口を半開きにさせて、ただひたすらに恐怖している汀に近づいて、男はマスクを脱いだ。
「ひっ!」
思わず顔をそらした汀の前で、男は
「あは……ははははは!」
と面白そうに笑うと、チェーンソーを脇に投げ捨てた。
汀が恐る恐る目を開くと、そこには、白い髪をした、十五、六程の少年が立っていた。
「はは……あっはっはははははは!」
爆笑だった。
少年は腹を抱えて、汀が恐れおののいている様子を指差して笑うと、しばらくして、呆然として色を失っている彼女に、息をつきながら言った。
「はは……はははは……面白かった! なぎさちゃんがこんなに驚くなんてさ! どう? 似てた? 僕演技すげぇ上手いでしょ?」
少年――ナンバーXは汀の前をうろうろしながら、彼女の顔色を伺うように、チラチラと視線を投げてよこした。
「どのくらい似てた? 百点? 二百点? 僕は三百点は固いと思うんだけどな」
「だ……」
汀は小さく、か細い声で呟いた。
「誰……?」
まだ彼女の両目からは涙が溢れている。
ナンバーXは少しきょとんとした後、ポン、と手を叩いた。
「もしかして、僕悪いことしちゃったかな? そっか。GMDの副作用を忘れてたよ。うっかりしてた」
彼は顎に手を当てて考え込むと、せかせかと歩き回りながら言った。
「でもグルトミタデンデオロムンキールのA型だと仮に仮定したとしても、そこまで急激な記憶の喪失ってあるのかな? まぁ、なぎさちゃんなら、そんなこと関係ないよね!」
ナンバーXはそう言って笑うと。磔られて失禁している少女の周りを伺うようにうろついた。
怖気が汀の背を走る。
何故、彼がこんなに怖いのか、それは汀には分からなかった。
しかし彼女は、あまりの恐怖と、嫌悪感に、彼の視線から何とか逃れようと、体を無理にねじらせて抵抗していた。
その様子をクスクスと笑いながら見て、彼は言った。
「無駄だよ。僕の空間把握能力と構築能力は、なぎさちゃんなら良く知ってるでしょ?僕の『白金の処女』は絶対に破れない」
そう言って、ナンバーXは、キィキィと、わざと音を立てて針がついた扉を動かし、汀の泣き顔を楽しむと、怪訝そうに眉をひそめた。
「どうしたの? まさかおしっこもらすほど驚くとは思わなかったけど、僕はそんなこと気にしないよ? あ……! そうだ、この前、会ったことも忘れちゃってるか。てゆうことは、僕のことも分かんない? そんなわけないよね? ね? どう? 僕のこと思い出せない?」
ナンバーXが顔を近づける。
汀は、必死にそれから目をそむけようとした。
そこで、汀の脳裏に、今よりも少し幼いナンバーXの顔がフラッシュバックした。
笑顔で、右手に何かを包んでいる。
その何かを、差し出している。
笑顔で。
「い……」
汀は、引きつった声で、しゃっくりのように呟いた。
「いっくん……?」
「ほら来た! やっぱりなぎさちゃんだ! GMDなんてクソ喰らえだね! 僕達の絆に比べたら、そんなもん屁でもないさ! そりゃそうさ! 僕達は『前世から結ばれる運命にあった』二人なんだからさ! ね? なぎさちゃん!」
一人でヒートアップして騒ぐ、ナンバーX。
みぎわはそれを呆然と見つめ、しかし自分が、彼の名前以外思い出せないことに気づいて青くなった。
それ以前に、本当にいっくんというのか。
それは名前から取ったあだ名なのか、苗字から取ったものなのか。
いや、それよりも。
私達に、苗字なんてあったのか?
◇
後編に続く。
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