あの戦国の現場へ行こう!-霊巖寺01



田原市は渡辺崋山で有名なところですが、崋山が仕えていた主君が三宅氏です。



市内には三宅氏の菩提寺も残されています。



それが霊巖寺です。






あの戦国の現場へ行こう!-霊巖寺02

あの戦国の現場へ行こう!-霊巖寺03


この三宅さんは、出自をたどるといろんな説がありますが、戦国時代には現在の豊田市に

勢力を持っていた豪族でした。



家康の祖父・清康の時代までは、バリバリ松平家と敵対していた【アンチ松平】。



しかし家康の時代に臣従し、江戸時代には譜代に数えられるまでになりました。



そして田原城主として幕末をむかえます。






あの戦国の現場へ行こう!-霊巖寺・首なし地蔵


↑ ところで霊巖寺の墓所の片隅に、首がない二体のお地蔵様があります。



これは地元で有名な【霊巖寺の首なし地蔵】です。



いわれは次のとおり。



渡辺崋山の時代、幕末の時の話。



田原藩主・三宅氏の一族に、三宅偵三郎という人がいました。



この人は勇猛な武士でしたが、勇猛すぎて、気分次第で藩内の村人たちに暴力を

振るったりする困り者。



父である三宅友信や、藩主・三宅康保から、度々けん責や謹慎を命じられても、いっこうに

直る様子はありません。



そして謹慎していた時のこと。



身の回りの世話をする侍女・於阿佐(おあさ)は偵三郎を慰めるようになり、偵三郎も

於阿佐に心惹かれていきます。



しかし殿中にこのウワサが広まると、不謹慎という事で、於阿佐は侍女を解雇。



二人は会えなくなりましたが、それでも密会を続けます。



時は幕末。



ただでさえ世間がピリピリしていました。



そしてとうとう、藩内の風紀が乱れるということで、偵三郎は切腹。



於阿佐も自害を迫られましたが、この時、偵三郎の子供がお腹にいました。



助命を嘆願した於阿佐でしたが、それも受け入れられず、叔父にあたる赤井覚右衛門が

介錯役となり、於阿佐は首をはねられます。



二人は三宅氏の菩提寺・霊巖寺に葬られ、お地蔵様を二体、並べて建てられましたが、

なぜか首が落ちるのです。



何度修復しても首は落ちます。



なので地元では、【霊巖寺の首なし地蔵】と呼ぶようになったということです。




【霊巖寺】の地図




※ 続きを読む → 長興寺 (なぜか九鬼氏の墓が…)