【徳川家康ガイドブックを攻略せよ!】 (三河武士のふるさとコース)
榊原康政はよく本多忠勝とコンビを組んでいた様なイメージですが、忠勝よりも関わりが深い武将がいます。
それが大須賀康高です。
康高は榊原康政と共に酒井忠尚に仕えていましたが、忠尚が三河一向一揆で家康に敵対しました。
そこで康高は榊原康政と共に家康方に付いたのです。
そして各地を転戦。
特に遠州高天神城攻めで手柄を認められ、天正十年(1582)、遠州横須賀城主となりました。
康高の名が歴史に刻み付けられるのは、その後の天正十二年(1584)、小牧・長久手合戦です。
岡崎城奇襲を狙う秀吉方別働隊を追い詰め、大将・三好秀次(豊臣秀次)を追い詰めましたが、この時、堀秀政の反撃に遭い、敗れています。
全国的な戦国史で名前が出てくるのは、この時くらいではないでしょうか?
そんな大須賀康高の三河時代の城が野場西城 (のばにしじょう)。
↑現在は住宅地となり、土塁が一部残るのみ。
その土塁に埋もれる様に石碑が建っています。
あと、看板もありますが、それを見ると…
↑大須賀氏だけではなく、三河一向一揆の時、夏目吉信がこの城に入った事が分かりますね。
いろんな歴史を持つ野場西城です。
ちなみに平城。
周辺は湿地帯だったのか?
周りを見回すと、
↑ こんなカンジで田園風景が広がっています。
でもこの大須賀さん、知っている人はなかなかいないだろうな~と思いつつ、マイナーな武将ほど歴史を調べるほど味が出てくることを実感できるのです。
ちなみに康高が死去した時、男子がおらず、榊原康政に嫁いだ康高の娘との間に生まれた忠政を養子にもらい、大須賀家の後取りとしました。
しかしそんな大須加家も、江戸時代には榊原家に吸収されてしまいます。
なので大須賀家の記録はあまり残っていませんが、康高がもう少し長生きしたら?
もっと後世に語り継がれるくらいの存在にはなったと思います。
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