【織田信長ガイドブックを攻略せよ!】 (桶狭間の戦いコース)
信長は桶狭間で今川義元の首の首を討ち取ると、今川方の同朋衆(どうほうしゅう)の【下方九朗左衛門】という者を生け捕りにしました。
同朋衆(どうほうしゅう)とは、室町時代以降、将軍や大名の近くで雑務や芸能にあたった人々のことです。
つまり義元の側におり、その最後の様子を知っているという事です。
信長公記では、信長はこの【下方九朗左衛門】に、義元の最後の様子や討ち取った首の名前などを尋ね、金銀飾りの太刀・脇差を与え、義元の首を持たせて駿河へ送り返しました。
この時に10人の僧侶を選んで従わせたとか。
さて、信長は清洲から二十町(約2.2㎞)南の須加口という熱田へ通じる街道に、【今川塚】というものを築かせました。
ここで義元の供養のため、千部経を読経させ、大きな卒塔婆を立てたという事です。
現在でもこの須加口は残っており、かつて今川塚があったところには民家が立ってしまいました。
↑しかし、あらビックリ!
最近までこの民家のガレ-ジの中に建っていた今川塚は、平成19年に近くの正覚寺に移され、今は民家にはなにもありません。
ならば正覚寺をチェックせねば!ですね。
↑ということで、かつて今川塚があった場所から北に進むと正覚寺があります。
ここに今川塚も移されています。
江戸時代の寛文元年(1661)に、この正覚寺の六代・三誉上人が生前供養の為に、今川塚の碑を建立したという縁で、この塚も正覚寺に移されたのです。
碑だけなので、モチロン中身はありません。
しかし桶狭間合戦を想わせる貴重な史跡ですよね。
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