金安実* 156

 金安実は、私が釜山の水晶洞教会にいたときに、呉明春執事に伝道され入信してきた。文鮮明から原理を聞いて、復帰を受けたあとは、辛貞順と一緒に、劉孝元などを熱心に伝道した張本人である。

 金安実は張利郁の嫁で、彼女の夫は医者だったが、アメリカに行って博士過程を学んでいた。

金安実は夫の留学中、姑と息子たちと一緒に暮らしていたが、そのうち、熱心に教会へ通うようになった。金安実は、文鮮明を一番愛していた。

 そのあと、金安実の夫はアメリカから帰国して、ソウルの青涼里に病院を開業した。しばらくは夫と暮らしていたが、やっぱり、文鮮明を忘れられないらしくて、また、教会に戻ってきた。

 文鮮明から復帰を受けた当時の金安実は、三十歳くらいの美しい女性だった。文鮮明は、その若い安実がお気に入りで、私がソウルから釜山へ行くたびに必ず手紙を書き、私がそれを届ける役だった。今はもう、歳を重ねたこの人に、文鮮明は振り向きもしない。今さら夫のところへ戻ることもできないので、一人で部屋を借り、ピアノを教えながらやっと暮らしている状況だった。

 劉孝敏と私は、このように文鮮明と統一協会に裏切られた人たちのために、責任をもって、残りの人生が送れるように努力することを決心した。

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林 英信*

劉信姫* 157

 劉信姫のことは前に書いたので、今の状況だけを書いておく。

 劉信姫は当時、子どもたちを孤児院に出してしまったが、今はその子どもたちも大きくなって、それぞれが自分の家庭をつくり生活している。だから劉信姫は、その子どもたちの家に行って一緒に暮らすことはできない。九老洞に部屋を二つ借りて、針仕事をしながらやっと生活していける状況だ。

 この人に関しても、劉孝敏と私は、助けてあげることを約束した。(第七章参照)

林英信* 158

ソウルの北鶴洞教会で「世界基督教統一神霊協会」が創立された頃、劉孝敏が市内に用事があって行ったところ、ふとしたことから林英信と出会った。そして、劉孝敏が伝道して、林英信は入信することになった。教会に来て原理を聞いて、文鮮明から復帰を受けたあとは、前にも書いたように、日中は食口たちの食事を用意し、夜にはブロマイドの写真を洗う作業をやり、たいへんな苦労をした人である。

 これまた誰よりも文鮮明が非常に愛し、一瞬でも離れてはいられないような二人だったが、やがて文鮮明の財産狙いの作戦でか辛貞順の夫だった金持ちの李淳模と結婚して、男の子を一人出産したが、李淳模が亡くなり、また独りになった。

 それからしばらくして、ある芸能人と結婚したが、その人とも離婚してまた独りになり、自分の父親と同居していた。その後、すべての財産を李淳模の長男に譲ったが、その長男は継母であった林英信のめんどうを全然みてくれなかった。また自分が産んだ息子も、母親のめんどうをみようとしない。

 あんなに仲のよかった李淳模との結婚生活の頃、時間さえあれば密かに呼び出して会っていた文鮮明も、林英信にはまったく振り向かなくなった。今は部屋一つだけ借りて、孤独な生活をしている。

 私は劉孝敏と一緒に彼女に会ったが、その生活状況は、お米さえ買うお金がないというありさまだった。文鮮明は、復帰をする名目で、身体を奪い取ることはもちろん、財産まで全部まきあげてしまい、あげくの果てに捨ててしまうのである。

 

六マリアどころか六十マリア 159

文鮮明は韓鶴子と「小羊の儀式」を行ない、鶴子が真の母親だと言いふらしているが、この代表的な六マリア以外にも、文鮮明にもて遊ばれ、財産まで盗られた女性は何十人もいる。文鮮明に裏切られて捨てられ、今は六十~八十歳くらいになったおばあちゃんたちは、人生を狂わされ、恨みをかかえながら、悲惨な生活をしている。

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マリア交代の姜玉実

 このような目にあまる行為は、人間の常識から見ても、宗教者の立場から見ても、絶対に許されざることであり、近い将来必ず、破綻をきたすことは必至だと私は思う。

 そして私は、文鮮明こそ本当の大サタンだと思う。なぜなら、彼が選んだ六マリアというのは皆、財産家の妻ばかりで、貧乏な人

は一人もいなかったからである。その事実を考えると、

 「二千年前、イエスは、彼が出会った『姦通した女』『香油の女』など六人の女とセックスをしなかったから死んだ。六人の人妻を復帰するのは原理の根本である」

などと語った文鮮明の話は、実は聖書を悪用した都合のいい罠ではないかとさえ思う。

 事実、彼女たちは文鮮明の好色なセッ*スのとりこになって狂い、夫や子どもを捨てて文鮮明のもとへ走り、金や財産が確実に文鮮明の手もとに集まった。そして、吸い上げるだけ吸い上げたあとは、新たに金のある女を探し出し、六マリアの名前で誘ったのである。まさにそのとおり、

豊かだった彼女たちは一様にスッテンテンの裸同然となり、放り出された。そこには神の摂理も愛もない。文鮮明の色と金の欲の哀れな犠牲者の屍だけが残った。

 しかも年代ごとに新しいマリアを入れ換え、用済みのマリアはどんどん捨て去って、二度とかえりみないのだ。

 六マリアとは、恐るべき罠に落ちた女性たちの代名詞で、その裏に実は、何十人何百人という犠牲者の予備軍がいたのである。彼女たちの財産や資金がなければ、統一協会が発足し発展できなかったことは、当時を知る私が、一番の証人である。

 

恋人を奪われ、殺されて 161

金源徳という男 161

 釜山の教会で、怒り狂った崔夫人から文鮮明を助け出した金源徳は、日本帝国主義の植民地時代に陸軍士官学校砲兵科を出ており、日本軍に服務中、砲兵少尉として「解放」を迎えた。その後、彼は北朝鮮人民軍に入隊し、砲兵司令官・武亭の片腕として務めていながら、北朝鮮の秘密を何回も南に流したりした。この事実が、司令官である武亭が軍事会議で中国に行っている間に暴露された。当初、死刑を宣告され、執行される日を待つだけだった。

 金源徳は明るい性格で、素直な人だったから、ただ死刑の執行を待っているくらいなら死んだ方がましだと決心し、獄中で自殺を図った。幸い、それは未遂に終わり、手錠をされたまま独房に入れられることになった。

 しばらくして帰国した武亭は、自分の片腕だった部下が、死刑を宣告され監獄に入っていることを知った。武亭は高級軍事機関に働きかけ、彼が身元保証するという条件で、金源徳の死刑は四年八か月の刑に減刑されたのである。減刑通告を受けた金源徳は、平壌刑務所から興南収容所へ移送された。

 危うく銃殺を免れた金源徳とは、私が興南収容所で総班長になったあと、文鮮明から紹介されて知り合った。それから三人は実の兄弟のように、文鮮明を中心にすべてのことを相談しながら、苦しい状況を克服してきた。また金源徳と私は、金が北の平南大同郡龍淵面の出身で、私が平南大同郡古平面の出身であり、お互いに近くの村の出身ということで、いっそう親近感を感じるようになった。

 金源徳は監獄から出たあと、南の方に避難し、警察の治安局外務係の警察官として勤めていた。そして、統一協会が困った状況に置かれたとき、彼が何回も問題を解決してくれたりした。釜山の水晶洞教会で、文鮮明が崔夫人から自由になれない状況にあったとき、金源徳が現われて文鮮明を連れ出したが、その間の事情を知っている崔先吉は、さすがに反対できなかったのである。

神秘的なロマンス 162

 ある日、金源徳は私にこんな話をした。それは、少しうらやましいような彼のラブ・ロマンスである。

 その何日か前、金源徳は釜山に用事があって、ソウル市内の龍山駅から夜行列車に乗った。彼は上等席に座っていた。ある品のよさそうな婦人が、何人かの警察官に囲まれながら、同じ汽車に乗ろうとしていた。彼女の服装や見送りに来ていた人たちを見ると、どこかの高級役人の夫人が旅行にたつように見えた。その婦人がたまたま、彼の向い側の席に座ることになった。

 水原駅を通り、大田駅を過ぎた。二人はお互いに何もしゃべらず、お互いの顔をときどき見るくらいで、そのまま釜山に向かっていた。

 しばらくすると、その婦人が、韓国の有名な詩の一句で、

 「山は昔の姿そのままだが、水は昔の水ではない。川は流れているものの、昔の水なんか残っているはずがない。人もこのように一回流れ過ぎると、二度と戻れない」

という内容の歌を、金源徳の横顔を見ながら、小さい声でつぶやいていた。その声はとても美しくて、この世の人ではなく、まるで仙女が歌っているように聞こえた。改めて婦人をじっくり見つめると、その姿は厳粛に見えるが、また情があふれるようでもあり、しばらくは、へたに声をかけることもできない状況だったという。

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金 源徳

 しかし、金源徳もいろんなことを経験してきた男だ。そのまま萎縮していてはいけないと思い、顔にはわりと自信もあったので、思い切って声をかけたという。

「失礼ですが、あなたを龍山駅で見かけましたが、釜山には旅行で行くのですか」

と聞いた。その婦人は、

「龍山駅の近くでアルミニウムの入れ物を作る工場を経営しています。釜山には用事があっていく途中です」

 それから釜山駅に到着するまで、まだ三時間あったが、時間が経つのも気づかないほど夢中で話し込んだという。夜行列車の中で知り合ったこの婦人と金源徳は、すっかり気が合って、その日、ある所で会うことを約束し、釜山駅で別れた。

 約束した場所で会った二人は、夕食を一緒にしたが、その婦人は彼に、まるで恋人に接するように振る舞った。彼女の仕草には、日本女性のように社交的な女らしさがあふれており、とても色気があった。彼女の振る舞いに陶酔した金源徳は、我を忘れていた。

 二人はそのあと映画を見に行き、映画が終わってから、どちらからともなく以心伝心で、あるホテルへ直行した。

 この日、二人が交わした愛は、とても言葉では説明できないものだったそうだ。

 金源徳は釜山で用事をすませたら、次の日の夜行列車でソウルに戻る予定だったが、その婦人と一緒にいると一週間があっという間に過ぎ、昨日、ソウルに戻ってきたということだった。

美しい婦人と御馳走 165

 そして今日、彼女の自宅へ行く約束をしているのだが、自分一人で行くのは照れ臭いので、「朴先生に一緒に行ってもらいたい」という。

 話を聞いていて、私も好奇心がわいてきたので、金源徳と一緒に、十二時に龍山市場に行った。

鉄道を越えたところに空き地があった。西の方にかつての森永製菓の敷地があり、その東南に平屋建ての家があった。日本人が住んでいた古い家で、そんなにきれいな家ではなかった。玄関に行くと、表札には「尹清淨心」と書いてあった。

 二人で玄関に入ると、二十歳くらいの女の子が二人出てきて、私たちを案内してくれた。最初の部屋には大きな仏壇があり、その中央には、純金かメッキかわからないが、黄金の仏像が置いてあった。左右の真鍮の蝋燭台には、昼間にもかかわらず火が点けられていた。次の部屋は十畳以上の畳の部屋になっていて、客間のようだった。そこで座って待っていると、しばらくして、女の人がていねいにお茶をすすめてくれた。

 この家の作りを見ていると、横にあったドアが開いて、香水のような匂いが漂ってきた。とてもいい香りで、初めての香りだった。中年の婦人が入ってきた。座りながら彼女は、顔を少しかたむけてほほえみ、それからあいさつした。

「金さん一人でいらっしゃい、と言ったのに、こんな汚いところに先生までいらっしゃって、本当に光栄に思います」

その声は澄んでいて、とてもきれいだった。四十代後半くらいに見えたが、とても品のある美しい女性だった。

 金源徳に紹介されて、何が何だかわからない状態であいさつした。何か心まで貫かれているような雰囲気だった。気持ちを落ち着かせ、その婦人を改めて見ると、髪は韓国式に一つにまとめて、後ろをカンザシで止め、昔の宮殿で使っていたような金色の飾りに赤いリボンを巻いていた。

紺色のチョゴリ(上着)に薄い水色のチマ(スカート)という姿で、まさに韓国の正式な服装である。それは初夜を迎えた新婦が、新郎を待っているような姿だった。

 婦人の案内で隣の部屋へ行くと、高級料理屋と同じような韓式料理の御膳が置いてあり、すばらしい御馳走がいっぱい並んでいた。銀製の酒器には黄色いお酒が入っていて、「一杯どうぞ」と銀製の杯で勧められた。もう最高の気分だった。

 中国の詩人・李白は、長江滝の下で酒を飲みながら、

「三千尺の高さから、まっすぐ落ちてくる水は、まるで天の川から落ちてくる水のようだ」

 という詩をよんだ。

 私もそんな気分で酒を飲み、御馳走をいただいた。

不思議な予知能力 167

 その婦人は金剛山(韓国にあるきれいな山)で十年間修業し、この世の中のことは何でも透視することができ、人の運命を占うことができるようになったという。顔を見て、その人の余命を判断することもできるし、国会議員選挙のときには、その人の当落を予言できるようになり、大学の入学試験のときには、その人が合格できるかどうかもわかるようになったという。そのおかげで、彼女が経営しているアルミニウムの器の製造工場は、彼女にとって本業ではなく副業になっているそうだ。

 彼女の真の目的は、かわいそうな孤児たち、とくに女の子の孤児たちを育て、大学教育まで受けさせて社会に出すことだ、と言っていた。今まで育てた女の子は全員、梨花女子大を卒業させ、現在、世話している孤児は十七人だそうだ。この話を聞いていると、頭が上がらなかった。

 国会議員選挙のときになると、この婦人の家には、人が波のようにやってくる。大学の入学試験のときも、やはり同じだということだった。

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尹 清淨心

 私たちは御馳走をいただき、不思議なその婦人の話を聞いて、「また、いらっしゃいね」と送られてその家を出た。「金源徳さんを恋人にしたの」とほのめかしながら彼女は、「金さんに奥さんがいても、関係ない」とさりげなく言った。「自分が愛しているなら、それだけでいい。お互いに好きなら、何も問題はない」と彼女が話すのを聞いて、世の中の感覚からは、はるかに離れている人だと思った。

 それから、金源徳と私は、その家に勝手に出入りできるようになった。金源徳のおかげで、私はいつも御馳走になり、しばらくはいい生活を送れた。お互いに親しくなると、私は、仏壇に置いてある新鮮な果物を取って食べたりした。

 「再臨メシアのお父様と一緒なんだから、命のない仏壇の前に、こういう物を置いておく必要はないだろう」

などと言いながら、おいしく食べていた。あとでわかったことだが、婦人は私たちが言っていることに、いつも注意していたようだ。

 その後、その婦人、尹女史は、金女史という他の婦人を間に入れて土木建築の会社を設立し、金源徳を社長に座らせた。会社の名称は尹女史が命名した。「雲興公司」という名前で、雲のように発展するという意味だった。社長になった金源徳は、土木建築の経験がなかったので、経営はあまりうまくいかず、まもなく、この会社の看板を下ろすことになってしまった。その後もまた、いろんな事業で金源徳と尹女史は協力していたが、運がないせいか、あまりうまくいっていなかった。

 それからしばらくして、私は尹女史に、仏壇の果物を食べるときに言っていた言葉の意味を聞かれたので、説明したところ、「ぜひ一度、その先生に会ってみたい」と尹女史が言った。

 私は金源徳と相談して、文鮮明にその間の事情を説明すると、「会ってもかまわない」と言った。そして、一九五四年の十月二十五日、午後六時に梁文永*女史の自宅で会うことになった。

そのあくる日、尹女史にそのことを伝えると、彼女はたいへん喜んでいた。