朴奉植と呉明春 138

夫婦で文鮮明に献身 138

 私が文鮮明と一緒に、釜山の影島に辛聖黙、劉信姫夫婦の家を訪ねて行ったのは、一九五三年の十二月二十四日だった。新しく入信した人は、劉孝元、劉孝敏、劉孝永、辛聖黙夫婦、金寛成、崔執事など。繊維工場を経営していた崔執事は、三か月後には教会に出て来なくなった。宋道旭、朴奉植夫婦が入ったのもこの頃だった。もともと信仰のあつかった人たちで、翌年の春、宋夫妻はソウルに上がって教会の専従者になった。

 宋執事はあまり教育は受けていなかったが、しっかりした身体をしている大きな男で、竹を割ったような性格の持ち主だった。満州で朝鮮独立運動に参加するなど、いろんなことをしてきた人だった。「解放」後、帰国して釜山で朴奉植と結婚した。円満な夫婦生活で、娘が一人生まれた。三人が生活していくために、宋道旭は、家庭訪問で虫よけの薬を販売したり、薬をまいたりしていた。妻の朴奉植は、釜山の市場で商売していた。原理の話を聞いてからは、今までの商売を止めてしまい、夫婦で文鮮明に服従することになった。

 夫婦の家は小さなアバラ屋で、二階に部屋が一つ空いており、金元弼がそこで隠遁生活していた。私はそこに、ときどき金元弼を訪ねていった。

 ソウルから釜山へは汽車に乗るので、窓ガラスのないボロボロの汽車がトンネルを通るときは、石炭の煙が入ってきて、洋服がその煙でまっ黒になる。あるときなど、私の着ていたスプリング・コートはベージュ色だったが、黒い色に変わってしまった。朴奉植は夜半に、その黒くなったコートを洗濯して乾かし、朝ソウルに帰るときには新品同様にバリッと着られるようにしてくれた。四十年を過ぎた今でも、忘れられない。

 宋長老夫婦の娘さんは、とても性格が活発だった。文鮮明が、その彼女を気に入り、彼女にガヤグム(伽耶琴――韓国の伝統楽器)を与えて、習わした。そして、教会での会合とか、親睦のための食口たちの集まりで、彼女は琴をひき、歌を歌ったりした。その後、一人の青年と熱烈な恋愛中ということだった。私たちも皆、祝福しなければならないだろうと思っていたが、二人は結局、結婚までは行かなかったようだ。

 その当時、最初は私が秘書役で文鮮明と一緒に回っていたが、劉孝敏が入信してからは、彼が秘書役になっていた。その後文鮮明は、その秘書役を劉孝敏から宋道旭に代え、また宋執事は長老に昇進した。

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宋 道旭

夫、宋道旭の不倫 140

 ソウルへ上がった朴奉植は、慶南居昌をはじめ各地で、統一協会の原理を伝道する巡回伝道師として活動していた。ちょうどその頃、夫の宋長老に大問題が起きることになった。

 その頃、捿鎭鉱山にいた私は、仕事で群山に行った。金某に事情を説明して、月明洞にあった金某の家に、約一週間、泊めてもらうことにした。この家は、群山の教会としても使われていて、金某の奥さんとは、前から知っている間柄だった。

 五日目になる日、外で用事をすませて金某の家に帰ると、今まで何ともなかった奥さんが精神的にちょっと異常な状態になっていて、「自分を復帰させてほしい」と私に抱きついてきた。私だけじゃなくて、男を見ると誰にでも「復帰させてほしい」と言い続けていた。原理の話に夢中になると、こういう状況になることはよくあった。ソウルでも釜山でも、私は、何回もこういう経験をしていたので、そんなに心配はしなかった。

 だからといって、そのまま放っておくわけにはいかなかったので、鉱山に帰着するとすぐに、ソウルの劉孝元協会長に連絡した。そして、宋長老が群山へ出向き、奥さんを連れてソウルへ帰つた。鷺梁津に教会で買っておいた家があったので、そこで奥さんの病気を治すことにした。宋長老一人では彼女の世話ができないので、呉明春*が一緒に泊まりながら、世話をすることになった。

 そのうちに、宋長老と呉明春はお互いに好きになってしまった。奥さんは回復したが、宋長老と呉執事は、お互いに別れることができない関係になっていて、結局は、文鮮明から祝福を受け、一緒になった。

 

卓越した人格者、朴奉植 141

 私は、朴奉植について書こうとしている。原理からこの問題を考えてみよう。宋道旭と朴奉植は、夫婦で文鮮明のところへ来て、食口になった。宋長老は文鮮明の秘書になり、朴執事はそれまでの商売を全部捨て、伝道に専念した。

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朴 奉植

文鮮明が祝福するのなら、朴執事と宋長老が祝福を受けるのが、常識的にも原理的にもあたりまえの話だ。それなのに、呉執事と宋長老が祝福を受けたということは、二人の同棲を認めたことになるではないか。これは、いろんな面で矛盾している。

 文鮮明が祝福したということで、何も文句は言えなかったが、どうしても、朴執事には納得いかない問題だった。呆然として肩を落した彼女の心情が察せられる。

 祝福を受けたあとしばらくしてから、宋長老は肝臓ガンになってとても苦しい生活を送り、手術を受けたが、開腹したときにはもうすでにかなり進んでおり、お腹を閉じることもできないまま、死んでしまった。

 そのとき、朴執事が臨終の横にいたと聞いて、私は彼女の人格を認めるしかなかった。宋長老が若い女と祝福を受け、勝手な生活をしていたのに、死の床の横にいたというのだから、賢女と言えばいいのか、烈女と言えばいいのかわからない。

 宋長老が亡くなったあとで、一緒に祝福を受けた呉執事も病気

になり、「夢の中に宋長老が現われ、自分を苦しめている」とうなされていたそうだ。この病気になった呉執事を、朴執事がまた、何か月間も一緒に暮らしながら看病したという話を聞いて、ただただ頭が下がった。

 

大金を献じた呉明春 142

 文鮮明は玉相賢らと一緒に、釜山で四回も家を引っ越したが、このときの費用は全部、呉明春執事が出してくれたのである。呉執事は、張利郁博士の奥さんや金安実*などに伝道し入信させた。李順哲*も辛貞順*も、辛貞順の娘の李聖花*、聖礼*や梁允信も伝道した。教会の初期にとても重要だった婦人幹部のほとんどは、呉執事が伝道した人である。

 その後、文鮮明が李順哲の復帰と称して、二人で一緒になっているときに、家を借りるお金もなかったのだが、呉執事が、新堂洞にいる自分の義理の姉にお金を渡して、文鮮明のための部屋を確保してくれた。

 七・四事件が発生して、文鮮明をはじめ幹部が拘束されたが、このときの世話役も呉執事が務めた。そのために自分の家を売り、その代金五百万ウォンを、そのまま文鮮明に注ぎ込むことになってしまった。文鮮明が拘束されたあと、渉外費を捻出するために、小さな食堂を元暁路に開き、辛貞順などと一緒に経営していた。そこから出た利益で、文鮮明や幹部たちの世話をしていた。

 文鮮明と私がお金が必要になると、必ず呉執事が用意してくれた。釜山の影島へ初めて行ったときもそうだった。その当時、文鮮

明は一銭もなくて困っていたところ、呉執事が旅費を用意して持ってきてくれた。そのお金で釜山に行くことができて、劉三人兄弟が入信することになり、教会の基礎が固まるきっかけになった。

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当時の呉明春*

 呉明春はその後、アメリカへ行き、医者になっていた息子のところで暮らしていた。八三年に韓国へ帰ってきたとき、呉明春は娘の張恵淑にあげようと熊の胆を一つ持ってきた。その当時で百五十万ウォン相当のものだった。

 私が高血圧で倒れたという話を聞き、劉孝敏を通して、娘の張恵淑の家に来るように言ってきた。訪ねていったら、その熊の胆を私に渡し、

 「娘にはまた機会があれば買ってあげられるから、とりあえず今は、これを飲んで元気になってください。朴先生は病気になっても必要な人なので、これを差しあげます」

と言った。さらに、文鮮明や教会と私の関係をよく知っている彼女は、

 「文先生は、朴先生をもっと大切にしなければいけないと思います。文先生は今ソウルにいるはずだから、二人が会えるように努力しましょう」

と約束してくれた。そのとき、昔、自宅を売って調達した五百万ウォンは、いまだに一銭も返してもらっていない、と言っていた。当時の五百万ウォンは、今の五千万ウォン以上になるはずだ。

 私は熊の胆をありがたくいただいた。それを飲んでから、一か月で健康な身体に戻った。呉明春はいろいろ努力してくれたが、もちろん文鮮明からは電話もなかった。

 このように最初の教会の食口たちは、一緒に苦労してきたこともあって、お互いに困っているときには助け合うことができた。しかし、一人だけいい格好をしている文鮮明は、原理の空論だけを前面にたて、人間の愛というものは一カケラもない状態になってしまった。

 

女中でもやって生きていく 145

 ところで、玉相賢のところでも触れたが、本部教会は身も心も文鮮明や教会に捧げつくして、金も家もない朴奉植を「出ていけ」と追い出した。その朴奉植は行く所もない状況におかれ、たいへんかわいそうだった。朴奉植は青平という所へ行き、山でテントを張って祈りながら生活していた。ところが、何日かたったあと、そのことを知った山の管理人が来て、また追い出されてしまったという。

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最近の呉明春*(1992年)

 朴奉植は仕方なくまた市内に下りて、食べていくためにゴマ油を売る商売を始めることにした。そしてまず、教会の幹部の家を訪ねた。元食口の朴奉植が頼めば、一軒に一本ずつくらいはゴマ油を買ってくれるだろうと思って、訪ねてみたのである。

 一番最初に協会長の夫人のところへ行って、ゴマ油を一本出し、上等なゴマ油だから市場で売っている値段で一本買ってほしいと

頼んだ。するとその夫人は、統一協会の食口がゴマ油なんか売って、とてもはずかしいから止めてくれ、と言って、朴奉植を追い返してしまった。それからまた、元協会長の家を訪ねたが、前の家でやられたように、門前で断わられてしまったそうだ。朴奉植は、

 「統一協会の幹部たちには、愛というものが一カケラもない。本当に冷たい人たちだ」

とため息をついた。そして、協会長の夫人が二人とも断わったことから、他のところへ行ってもどうせムダだろうと、ゴマ油の商売をあきらめてしまった。

 「生きていくためには、統一協会などあてにしないで、女中でも何でもやっていくつもりだ」と、その朴奉植は淋しそうに語っていた。

 

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*この当時の統一教会内の復帰=セッ*スのことです。

教祖と関係を持つか。教祖と関係を持った女性と関係をもって、また男性が関係を持つ、そしてまた・・・まさに、セッ*スリレーのことを「復帰」と名付けていた・・・。

*「母子協助」のことは、統一教会内初期からの流れの真実は、母親と息子が関係を持つことのようです。

いゃ~、これを知ったときは、ビックリしましたわ~有り得んことですが、この組織の初期段階ではあった・・・。韓国人幹部が日本でそのような講和もしたようです。(過去記事に暴露した人の内容有り)

 

 

 

 

(上記図には、興南送りになった現行犯逮捕時の女性の名は出て来ていません)

http://ameblo.jp/chanu1/entry-11710042475.html

統一教会文鮮明教祖の元愛人と隠し子が20億円訴訟提起?(4)