母の髪の毛入りの靴下は、

母ではなく玉相賢(=玉世賢)が自分の髪の毛を毛糸と編んだものだった!?

そこまで、信者を騙すのか!!!

 

http://howwelldoyouknowyourmoon.tumblr.com/post/142430873458/

第四章-犠牲にされた女たち-大功労者玉世賢の末路

 

第四章 犠牲にされた女たち – 大功労者、玉世賢の末路

 

 

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文鮮明 を囲むマリア (人妻) たち 左二人目から:

Unknown 姜賢実 Kang Hyun-shil* 朴貞淑 Park Cheong-sook*
文鮮明 Moon Sun Myung 玉世賢 Ok Se-hyun* 李得三 Lee Duk-sam*
金順哲 Kim Soon-cheol*



最終更新日: 2016年6月11日 Text updated June 11, 2016


六マリアの悲劇―真のサタンは、文鮮明だ!!
The Tragedy of the Six Marys – the real Satan is Sun Myung Moon!!

by 朴正華 Pak Chong-hwa

第四章 犠牲にされた女たち
Chapter 4. The Women who were sacrificed

pages 125-172 ( ALL the chapter)

仮名 alias 姜玉実 = 姜賢実 Kang Hyun-shil p.105, 125, 159

仮名 alias 玉相賢 = 玉世賢 Ok Se-hyun p.105, 125, 128

仮名 alias 萬夏変 = 禹夏変 Woo Ha-pyeon

仮名 alias 萬貞愛 = 禹貞愛 Woo Jung-ae

仮名 alias 萬貞順 = 禹貞順 Woo Jung-soon

仮名 alias 辛貞順 = 李得三 Lee Duk-sam p.125

仮名 alias 李聖礼 = 崔淳実 Choi Soon-shil p.188

仮名 alias 李聖花 = 崔淳華 Choi Soon-wha p.75, 103

仮名 alias 李淳模 = 崔聖模 Choi Seong-mo p.152

仮名 alias 李順哲 = 金順哲 Kim Soon-cheol p.125

仮名 alias 梁文永 = 梁尹永 Yang Yoon-yeong p.170

仮名 alias 金永熙 = 金明熙 Kim Myung-hee p.109, 249

仮名 alias 呉明春 = 呉永春 Oh Yeong-choon p.143, 145

仮名 alias 林英信 = 朴貞淑 Park Cheong-sook p.125, 157


大功労者、玉相賢の末路 126

前項まで私は、当時の克明な日記やメモをもとに記述してきた。警察などの執拗な追及を避けて生き延びた何冊もの日記は、今となれば貴重な記録である。

獄中から再臨メシアだと信じ、「先生」と呼んで盲従してきた、私の愚かな足跡や心情を全部記述し、告白してきた。文中に登場する「文鮮明先生」の行動は、全部事実である。

愚直な軍人だった私は、「先生」との約束を守って、北に父母も妻も、五人の子どもも残して南下し、「先生」の忠実な分身として努力してきた。ところが「先生」のほうが、ある日突然、帰るべき家も家族もない分身を、裏切ったのである。

私はあまりにも知りすぎた男、だったのかもしれない。

人里はなれた山奥の鉱山に、社長の肩書を付けて追いやられた私は、何年間も無給のまま働いた。そして、私と入れ替わるかのように登場して、統一教会の中でしだいに勢力を伸ばして行く、軍事政権の何やらキナ臭い匂いを横目で見ていた。

文鮮明先生は、いつの間にか私の心の中で、もう命がけで守る価値もない、ただの文鮮明になり下がっていた。

前項までは、さすがにもう「先生」とは書けなかったので、「文さん」と記述してきたが、この項からはすべて「文龍明」「文鮮明」と記述する。

髪の毛を編み込んだ靴下
127

今から思えば、最初に文鮮明と関わりのある女性として印象に残ったのが、玉相賢*だった。興南特別労務者収容所 にいるときに、彼女についての話を、一緒に服役中だった文龍明(当時)からよく聞いた。

その当時は、平壌から興南までの切符を手に入れるだけでたいへんだった。旅行証明書を持っている人に限って発売するのだが、それでも玉相賢は切符を買うために夜半じゅう並んで、文龍明に面会するために苦労して手に入れていたようだ。

そして、文龍明に差し入れするために、ミスカルを心をこめて作り、冬になると下着を毛糸で編み綿を入れて、収容所までの遠い道を面会に通って来た。夏にはミスカルとアメを作って—―ときには、アメをものすごくやわらかく作ってミスカルとまぜてーー持ってきたり、麻で作った服を川意してきた。栄養のために肝油を召し上がって下さいと、お金まで置いていったそうだ。

私はその話を聞いたとき、とても不思議に思った。自分と血もつながっていない人に、そんなに一所懸命、世話をすることができるのか—―私には納得できなかった。私の事情と比較してみると、私には母親がいるし、妻もいるが、三か月か四か月に一回面会に来るのがせいぜいなのに、彼女はたびたび面会に来て、いつもいろいろ用意して持ってくるので、私は驚くしかなかった。

 

P. 128 photo

今は哀れな玉相賢*

私と文龍明は、監獄の中でお互いにどんなことでも相談し、隠すことは何もなかった。ある日、彼が言った。

「玉相賢が自分の髪の毛を切って、毛糸と一緒に編んだ靴下を持ってきてくれた」昔の言葉に、

「本当の恩恵を受けた人のために、自分の髪の毛を切り、それでワラジを作って恩にこたえた」とあるが、そんな人が実際にいるのかと、頭が下がる思いだった。その女性はなぜこんなに一所懸命なのだろう、とずっと思っていたが、それに関しては、文龍明に聞くことはなかった。彼女が持ってくるミスカルなどを分けてもらって、ただありがたく食べていた。

六・二五動乱(朝鮮戦争)が始まり、UN軍の北への進撃で、文龍明は十月十四日(一九五〇年=昭和二五年)、出獄して自由の身になった。同じ囚人だった文正彬と一緒に歩いて、十日間かけて

平壌に到着した。

その後、私は初めて玉相賢の家で彼女に会った。誠実で人のよさそうな、ハキハキした人だった。玉相賢の自宅は、そうとうな金持ちのようで、大きな庭があり、家が何軒も建っていた。娘の萬貞愛、萬貞順姉妹と一緒に住んでいて、文の信者だった金元弼が「サタンの家には帰れない」と言って居候していた。玉相賢が片づけてくれた部屋に、文龍明、私、文正彬、金元弼の四人が寝泊まりした。

ここで五日間ほど過ごした頃、ソウルへ避難していた家族が全員帰ってきた。翌日は日曜日で、朝食を終えると、玉相賢と夫の萬夏変が聖書を持ってあいさつに来た。そして、「今日は特別の日曜日なので、一緒に礼拝をあげましょう」

と言った。賛美歌を歌って祈り、萬夏変が聖書を朗読し説教した。彼は平壌の将台現教会の長老だった。

 

主人、禹長老の嘆き
129

その日の午後、萬長老が私に話があると言うので、彼の部屋へ行った。

「自分は平壌ゴム連盟の理事長なので、あなたの義理の兄にあたる正昌ゴムの崔来鳳さんをよく知っている。お互いに親しい間柄だよ」

話というのは、妻と文龍明の関係のことだった。

「自分は教会の長老で、妻の玉相賢も勧師として熱心に教会のことをしていた。ところが、南の方から来たという青年が変な説教をしてから、妻が何週間かこの集会に通い出した。それまでは円満な夫婦で、何の問題もなく仲よく暮らしてきたが、突然、妻が自分と一緒に寝ることを拒否してきた。子どもたちは大きくなっているし、キリスト教の長老の家で、こういう変なことを表に出してもめることもできないので、最初は、長い期間かけて説得しようと努力したが、どうしても聞いてくれない」

という話だった。そのうえ、

「生活のやりくりが上手だった妻が、チャンスさえあればお金をへそくり、文龍明のために持ち出すようになった。経済的余裕もあることだし、少しくらいはいいだろうと最初は思っていた。何よりも早く夫婦が前と同じように仲よく暮らしたかったので、それを期待して一所懸命祈ったが、ムダだった。するとある日、その青年をはじめ、自分の妻まで、全員が警察に拘束されることになった」

萬長老は平壌市内でよく顔も知られている。メンツもあるので、警察に行って拘束の理由を調べたら、亭主も子どももいる金鍾和 という人妻とその青年が、「小羊の儀式」だと言って結婚式の準備をしているので、近所の人が変に思って警察に通告し、拘束されることになった、ということがわかった。萬長老は自分の顔があるので表には出られず、甥に頼んで警察と連絡を取り、妻の玉相賢を釈放させるようにした。

その青年が文龍明で、自分は彼が監獄にいるから安心していた。妻があんなに遠い興南収容所まで面会に通っているので、最初は止めたこともあったが、結局は聞かないので、ほっとくしかなかった、ということだった。

「朴さんも、キリストを信じるクリスチャンなのだから、文龍明のような男と一緒にいると、いずれ罰が当たるのはもちろん、この世の中で生きていくのもたいへんなことになるだろう。文龍明のような人とは一緒にいないほうがいい」

 

文鮮明に身も心も財産も 131

玉相賢は、六・二五動乱で南へ避難して釜山へ入り、改名した文鮮明にカゲのようについて回りながら、食えなかった文鮮明の、生活基盤を築いた。

今も思い出すのは、ソウルの興仁洞に教会が引っ越したあとのことだ。ブロマイド製作が成功して経済的な状況もかなりよくなっていたが、食口たちは全員がヤモメ暮らしだったので、玉相賢が先頭になって洗濯をしていた。そして、食口たちそれぞれの名前を書いた紙の箱を揃えておいて、その中に洗濯した洋服や下着などを入れた。各自が、自分のものを自分の箱から出して着替えていたが、その箱が何と二十四個にもなっていた。そのときの玉相賢の苦労は、筆舌につくし難いものだったと思う。

 

ずっとあとの話だが、文鮮明と訣別してから私は、釜山へ行って住宅建設の事業をやっていた。ある日、権昌貞という博士が訪ねてきた。自分も家を一軒買いたいが、買えるだろうかという。私はその申請を受け入れ、彼は申し込み金を払って帰った。その後、玉相賢が訪ねてきて、自分の二番目の息子が今、仕事がないので建設現場で使ってもらえないかと言う。社員は必要でなかったが、玉相賢の頼みだったので、断わることができなかった。次の日からその息子を雇って、一年あまり、一緒に働いたことがある。

住宅をほとんど建て終わった頃、牧師になった萬長老が訪ねてきた。久しぶりに会って話しているうちに、萬牧師が言うには、

「家内の玉相賢とは、いくら話してもムダだったので、離婚した。自分は神学を勉強し、牧師になって、今は小さい教会で勤めている」

玉相賢と別れたあと、教会の執事と再婚したそうだ。また、権昌貞博士は自分の婿さんで、権博士が申し込んだ住宅は自分の家になるから、ちょっと見せてほしいということだった。私はその家に案内して、現場でそうとう長時間話した。

文鮮明には奥さんの崔先吉がいたが、文鮮明の女関係で怒って、あまり身の回りの面倒をみなくなった。だから最初の頃、文鮮明についてのすべての世話は、玉相賢がやっていた。釜山の水晶洞の家に引っ越すまでに、四回も引っ越しをしなければならなかった。その理由は、本妻の崔先吉が、文鮮明の所へ集まってくる婦人の食口たちに嫉妬し、家にあるすべての家財道具を処分し、やってくる人を全部追い払ってしまうので、仕方なく他の所に引っ越したのである。

新しい家に移ると、文鮮明夫人はまた何とかして捜そうと努力する。考えた末に彼女は、いい方法をみつけた。玉相賢の親戚の家の女中にお金を出し、もし玉相賢が訪ねてきたら、尾行してその家を教えてほしい、と買収したのだ。それが成功して、新しい家を捜し出しては、繰り返し大騒ぎをした。ついには、食口全員と一緒に警察に連行されたことがある。

そのとき夫人は、二度と大騒ぎはしないということで釈放された。今後は、教会にいっさい干渉しないという約束だったが、そのあと水晶洞の家でも、崔夫人はまた同じことをやった。家財道具はもちろん、家まで売っ払ってしまい、文鮮明はソウルに逃げ出した。今度は、ソウルの清進洞の小さな家に拠点を移したが、どうしてわかったのか、この家にも崔夫人が訪ねてきて、また同じく、家財道具はもちろん、文鮮明のすべてをメチャクチャにした。文鮮明が原理原本も放り投げて逃げ出したのは、このときのことだ。

そのとき、文鮮明のカゲのようについて回っていた玉相賢は、文鮮明がいなくなってとても心配していた。私が一人で文鮮明の所へ行こうとするので、夜の土砂降りのなかで私の袖にすがり、「一緒に行きたい」と泣いたが、私は断わってしまった。今考えると、本当に申しわけなかったと思う。そのときは、ソウルで文鮮明に逮捕状が出ており、玉相賢を連れて行って、途中で警察に尋問でも受けたらたいへんなので、できなかったのである。

玉相賢はしばらくの間、大邱の教会で暮らしながら、文鮮明を待っていた。私が劉孝元を釜山からソウルへ連れて来て、北鶴洞に部屋を借りたとき、大邱にいた玉相賢をソウルへ呼んだ。そのときからまた彼女は、文鮮明と食口たちの生活をいっさい、世話することになった。

七・四事件で、文鮮明が警察に拘束されたときの玉相賢の悲しみようは、本当に見ていられないくらいだった。毎日、断食して祈ったり、心から悲しんで泣いている姿は、横で見ている私たちも、頭が下がるようだった。

そのあと、青坡洞に引っ越ししてからも、ずっと教会のヤリクリを担当していたが、私がしばらく教会を離れて、また戻ったときには、もう玉相賢は教会から追い出されて、いなかった。

ある日、劉孝敏から玉相賢の話を聞いた。それは、玉相賢が劉孝敏のところへ来て、「お金を貸してほしい」と頼まれたということだった。その次は玉相賢の娘である萬貞愛さんが来て、さらに「お金を百七十万ウォン貸してほしい」と頼まれたそうだ。お金を貸したが返してもらえなかったということと、玉相賢はその後、何回もお金を

貸してほしい、と言ってきたが、それ以上は貸すことができなくて、断わったという。

 

退院しても行く所がない 135

玉相賢は一九四六年十一月六日、四十八歳のときに平壌で文鮮明に出会った。文鮮明はそのとき二十七歳で、二十一歳年上だった。

北へ行った文鮮明の復帰原理を信じて肉体関係をもった。一番最初のマリアである。その当時から文鮮明に従い、約四十年間、身も心も財産も捧げて世話をしてきた。十年で自然も変わるというのに、自然が四回も変わる年月だった。そんな長い期間、文鮮明の横について面倒を見た人だった。一瞬も文鮮明と離れては生きていけないような玉相賢だった。

しかし、今の玉相賢の事情を聞いてみると、教会が老人の食口を全部追い出すことにしたため、彼女も三十数年間通っていた教会から追い出されてしまった。教会から追い出されるとき、たった一千万ウォンの金をもらっただけという話だった。そんな金で何ができるんだろう。商売の資金にもならない額だ。娘夫婦に住宅資金の一部として貸したらしいが、遠い所からは教会にも通えないので、死ぬまで教会に通うために教会の近所に小さな部屋を一つ借りて、そちらに住んでいるということで、本当になさけなく、心苦しい話だった。

もし私が社会で活躍しており、ビジネスでもやっているんだったら、何よりも住める家の一軒くらいは用意してあげたいし、毎月、少なくとも生活費ぐらいのお金は仕送りしてあげたかった。九十何歳にもなる大功労者が、人から借金をして歩く。涙が出るほどかわいそうな話ではないだろうか。

一九八五年八月十六日、文鮮明は「一勝日」を宣言した。過去のすべての罪を全部許し、サタンを服従させ、その後はサタンの世の中から、神の世の中に復帰させ、すべての祝福が統一協会の食口たちにもたらされる、と本部教会の宋永錫牧師が説教をしていた。私はそういう話よりは、まず玉相賢のような人に、家の一軒でも与えて生活に困らないようにするのが、何よりも先に解決しなければならないことだと思った。

かつて興南の獄中で、文鮮明から原理や「円和園理想」の話を聞かされたとき、私は胸躍らせて、

 「それはいつごろできるのですか?」

と聞いた。そのとき文鮮明が、

「七年後には、その時期が来る」

と答えたのを、昨日のことのように覚えている。

あれからもう四十数年が過ぎた。確かに文鮮明自身は巨利を儲けたかもしれないが、夢の話は実現していない。

一九九三年五月頃だった。劉孝敏から私に連絡があり、玉相賢が今、仁川のセブランス病院に入院中なので、見舞いに行こうという。私と劉孝敏は、仁川加佐洞にあるセブランス病院に行って、玉相賢を見舞ってきた。今年で九十六歳になるという。

もう病気は治って大丈夫なので、病院からも退院しなさいと言われているが、退院しても行くところがなくて病院に残っているのだった。それで、劉孝敏がお金を出して、アパートを借りて退院させようとしたが、この話を聞いた統一協会側が、あわてて部屋を借りて退院させてしまった。

文鮮明を一生支えてきた玉相賢の老後が、こんなに悲惨になっているのを見ると、本当に悲しかった。しかし、この玉相賢だけではなく、こうして犠牲になった人は、まだ何百人もいる。

P. 137 photo
病院に入院中の玉相賢を見舞う著者(1993年5月)

 



 

>・・・「玉相賢が自分の髪の毛を切って、毛糸と一緒に編んだ靴下を持ってきてくれた」・・・<

 

私たちは、またまた教祖の話に騙されていたのかもしれない。

この靴下の話は、母親が編んでくれたということで長年聞かされていた。でも、側近の朴正華氏には、玉相賢が・・・といっていた。

母親の愛情話としては、素晴らしいと思っていたが、客観的に見ると、母親がすべき当時の様相からして、教祖への内容は難しいのではないかと考えてもいたのだが・・・まさかまさか・・・

この話までねつ造話だったなんて、博物館に展示してあると言われる靴下は、母親の毛髪入りではなく、玉相賢の毛髪入り靴下を展示。その後の彼女への対応は、日本の統一教会のそれと同じ、老いれば捨て去る・・・。養えないと解るや変な理屈で氏族を捨てさせながら氏族復帰!?環故郷させ親族もろとも餌食にしようと考えるアクドサ!

特権階級の一部の幹部たちを除き、これからは益々人切りが進むのかもしれないということは、この初期の朴正華氏の内容を聞いても理解できるだろう。

 

日本語版の「六マリアの悲劇」より詳しいように思うが、私の見落としだろうか?今回は、本を再度確認しない段階で記事にしました。   by.ナツミカン

 

 

 

靴下は表向きは母親手作り、事実は玉さん手作りだった・・・。

私は、母親が作ったものと思い込まされていたが、捨てた信者に作ってもらったことがバレるのはマズイということだったのか?

http://uc-itsumokamisama.seesaa.net/article/418224651.html

「あの靴下を持ってきたか?」 《髪の毛で編んだ靴下の証し・玉世賢ハルモニ》

http://happism.cyzowoman.com/2013/09/post_3080.html 一部のみ転載。

■最終兵器、黒髪の靴下!?

 このように、信徒以外の者にとっては、衝撃度があるような、ないような、とりあえず「すっごーい」と純粋に叫べるものが少ない遺品展だったのだが、これだけは違った。
 
 それが、文鮮明氏が、日本に留学していたころ母親が息子を思って編んだという“黒髪の靴下”である。

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みだれ髪……(編集部撮影)