統一教会(改称世界平和統一家庭連合)について

統一教会が、スピリチュアリズム的霊的真理と強大なカリスマ教祖を持っていることは幸福の科学との共通点です。統一教会では、教祖文鮮明氏をキリストの再臨と考えています。経典である『原理講論』は、つまるところ文鮮明氏が再臨のメシヤであることを証明するためのものです。では、どのようにそれを証明しようとしているのでしょうか。


統一原理はキリスト教とは異なる独自の聖書の解釈をします。人類の罪の起源を旧約聖書の創世記の失楽園の物語に求めるところは一般のキリスト教と同じですが、その内容の解釈においては大きく隔たっています。統一原理では人類の始祖がサタンと性的関係を結ぶことによって原罪が生じ、やがてこの罪が全人類に及んだと言っています。そしてこの罪は、原罪のない神の一人子メシヤによってのみ償われることができるのだと言うのです。そして神は人類を救うために、このメシヤを地上に送り出すための準備をすることになります。それが、これまでの人類歴史の歩みであったと言うのです。そうした神の導きの結果この世に送り出されたのが、二千年前のイエスであったのです.ところがイエスは十字架に掛かり、その救いは未完成のまま(霊的救いはなされたが肉的救いはなされなかったと言う)残されることになります。そのため神はさらに二千年の歴史をかけて導き、今、再臨のメシヤとして文鮮明氏を再び地上に送り出すようになったと言うのです。この再臨のメシヤはサタンと戦い勝利して、人類に残されたままになっていた救いを成就して、人類に最終的な救いをもたらすようになると言います。人類は文鮮明メシヤによって原罪を拭い去り、完全に救われ、またそうした人間が増えることによって地上には地上天国が到来すると言うのです。


経典である『原理講論』は膨大な思想体系となっています。そしてその内容は精緻をきわめ、一見、完成度の高い教理となっています。その体系の大きさ、論理展開の整合性、さらに現代の科学的知識までを取り入れた内容を前にして、初めてこれと出会った人々は反駁すべき手段を持ち得ません。これまで統一教会の活動(募金や霊感商法など)が社会的に非難されてきましたが、それが教団にとっての致命的な打撃とならなかったのは、こうした強烈な教理という土台の上に立っているためなのです。またキリスト教サイドからその聖書の比喩の解釈の間違いが指摘されても何らダメージを受けなかったのも、これまでのキリスト教にはない思想体系をそなえていたからなのです。


外部からの非難が浴びせられても、それはさしたることではありません。なぜなら統一教会にはキリスト教にはない霊界の知識があり、イエスを含めた全ての霊界の人々の応援・バックアップを受けていると信じているからです。外部からの反対は単に地上での出来事であり、霊的に無知な人々がなす偏狭な行動に過ぎないと思っています。自分達こそが霊界の意向にそい人類を救う最高の使命を与えられている以上、そうした反対は取るに足りないことと考えているのです。

これまで、この統一原理の本質・根幹部分に対して踏み込んだ批判はありませんでした。なかったというより出来なかったと言うべきでしょう。しかし今、統一原理の核心部分に対しての批判がスピリチュアリズムにおいて初めてなせるようになりました。一見、完璧で矛盾のない壮大な統一原理は、人間が原罪を持つというところから出発します。この出発点が正当なものであるなら、その後の精妙な論理によって、文氏がメシヤであるという証明も可能となるかも知れません。

統一原理の権威の根拠は霊界であり、イエスを含めた霊界の人々に置かれています。また文氏こそ霊界において最も権威ある人間であることに置かれています。また彼ほど霊界の全てに通じている人間はないことを認めることにおいて、統一原理の権威は保たれています。文氏は霊界の人々全てを含めて、誰よりも霊的事実に通じていると信じられています。これが統一教会の打たれ強さの理由だったのです。また世間の人々が適切な批判・反論を加えることができなかった理由でもあったのです。

しかしスピリチュアリズムは、統一原理の領域内に入って同じレベルからストレートに臨み対することができます。統一原理の評価・批判は、「霊的な事実」という点においてなされるべきものです。統一原理に対する真偽は、それが(霊的)事実であるのか事実でないのかという点において、はっきりさせられるべきものなのです。それが出来るのは、言うまでもなくスピリチュアリズムをおいて他にありません。なぜなら、スピリチュアリズムほど霊界の事実を細部にわたって明らかにしているものはないからです。


スピリチュアリズムによって明らかにされる結論を言えば、統一原理の出発点であり同時にメシヤ観の土台になっている原罪は存在しないということです。そういう事実はこの世にもあの世にもないのです。また原罪を作る原因となったサタン(堕天使)も霊界に存在しません。この二つのことが意味するものは実に重大です。なぜなら、このことによって膨大な統一原理の全てが根底から崩されてしまうからです。当然メシヤの必要性の根拠も失われるし、文氏がメシヤであるということも全て虚構となるのです。霊界にいる高級霊で、原罪の存在、そしてサタンの存在を認める者は誰一人としていません。


スピリチュアリズムは、それこそ霊界の全ての高級霊における知識の総結集が背景となっています。統一教会の立場では、メシヤ文氏は、こうした霊界の高級霊よりも霊的事実に通じて霊界の事実を知っている。その彼が言う以上、やはり統一原理のほうが正しいのだと言うでしょう。原罪はある、サタンはいると必死に言い張ることでしょう。しかし肉体を持ち脳の意識で思考する地上人は、その認識レベル、知り得る霊的知識は宿命的に限られています。それに比べて、肉体を持たずに自由に存在する霊界人は、地上のいかに卓越した霊能者よりも比較にならない認識能力を持っているのです。


近い将来、間違いなく、スピリチュアリズムは統一教会にとっての最大の脅威となるでしょう。スピリチュアリズムは、霊的事実を統一原理に指し示すことによって、統一原理を根底から覆す力を持っているのです。キリスト教からの反発も、マスコミからの非難も、政治的な圧力も、統一教会にとっては真の脅威ではありません。それらはむしろ内部の結束を固めてくれるありがたいものなのです。統一教会にとっての真の脅威はスピリチュアリズムという霊界の事実なのです。


スピリチュアリズムが最大の脅威であるという点では、統一教会は幸福の科学と同じです。すでに統一教会では、スピリチュアリズムに脅威を感じ始めているのでしょう。統一教会系列の出版物(『霊界を科学する』野村健二)の中で、わずかですがシルバーバーチについて触れています。しかしそこでは、シルバーバーチは再生を否定している者として紹介されています。何という自分に都合のいい理解なのでしょうか。自己の教理の正当性を主張しようとするのは構わないことですが、白を黒と言うようなことはすべきではありません。度を超した自己正当化はマイナスを作り出すだけなのです。


幸福の科学と統一教会について述べてきましたが、両者の共通点をもう一度、整理してみましょう。

大川氏や文氏がどれほど霊界の事実を全て知り得ると自己主張しても、それはほんの部分的なものに過ぎません。スウェーデンボルグは霊界に何年間にもわたって訪れ、霊界の事実を明らかにした人物として歴史的に名を知られていますが、実は彼が示した内容は、霊界にいるごく普通の者において知られ得る常識レベルの知識に過ぎません。それはスウェーデンボルグはどこまでも地上の人間としての霊界訪問であり、臨死体験の領域に在ったからなのです。そのため限られた霊界の様子しか明らかにできませんでした。しかもその記述は潜在意識の強烈な脚色によって、かなり真実性が薄められたものとなっています。


高級霊によってあの世からストレートに地上に送られてきた情報と、地上サイドの人間を通じての情報では、その内容には天と地ほどの違いがあるのです。シルバーバーチやインペレーターなどの高級霊の通信と、大川氏や文氏の語るあの世についての内容を比較するだけで、どちらがより広く・深く・正確に霊界の様子を認識しているかは一目瞭然なのです。結局は、大川氏や文氏も人為的・人工的教理を説いたに過ぎないことが分かります。どれほど自分達は霊界でトップであると主張しても、それを実際に認める霊界人は誰ひとりいないのです。


この両教団を信じている方達に対しては、スピリチュアリズムの説く霊的真理と自分達の教理を比較されることを願います。どちらがより深く霊的世界について明らかにしているかを十分検討してください、ということです。人間に理性が与えられているのは、これを用い比較して、より正しいものを見つけ出すためです。疑うことを禁止するのは、神が人間に理性を与えた趣旨に反することなのです。自分達の教理が絶対に正しいという自信があるなら、他との比較に脅えることはないはずです。


幸福の科学と統一教会について結論を言えば、霊界の高級霊で大川氏や文氏の権威を認める者はいないということです。また両氏が主張する、自分達だけが特別であるという立場を認める者もいないということです。結局、それらの教団の教理の中から、教祖の権威とその存在の必要性を取り除いて、後に残ったスピリチュアリズムと共通する霊的真理のみが、霊界に通用するものなのです。

これら二つの教団では、霊的真理を教祖のカリスマ確立に利用してきました。また死後の救いを手段にしたり霊界の罰をほのめかせ、信者の心を煽り、多くの純粋な人達を狂信的な信仰の道へと駆り立ててきました。


統一教会が世界布教のためにアメリカに進出し、結果的に敗退の憂き目に遭ったのは、統一原理という人為的教理が、ニューエイジという、より本物に近い教理に敗れ去ったことを意味します。再臨のメシヤという錦の御旗を掲げた神権政治確立の野望が、ニューエイジ的世界の前で挫折を余儀なくされたのです。長い目で見れば、地上的な洗脳や間違った使命感だけでは人の心はつかめないものなのです。


幸福の科学も統一教会も部分的にはそれなりに正しい霊的真理を説きながら、その一方で強力な教祖のカリスマを打ち出しました。教祖は天によって公認された特別な立場であると考えます。しかしそのために教理の全体的な方向性は、各自の魂の成長を最優先することでなくなります。すなわち教団のために働くことが神のために働くことになり、それが最も価値ある信仰と人生であることにスリ替わっています。そこでは結果的に、霊的真理や魂の成長より教団と教祖が重要視されるようになっています。

たとえ自分達の教団は魂の成長を重要視していると力説しても、それを最優先としなければ、おのずと魂の成長は後回しになり、やがてそれも押し潰されてしまうようになります。魂の成長についての方針は、それを重要視するということではなく「最優先する」というのでなければなりません。魂の成長が教祖のカリスマに押し潰されているのが、それら二つの教団の実情なのです。


カリスマ確立に関して見る限りでは、統一教会が数段上を行っているようです。幸福の科学では有名人や神々を自分の指導霊にしたり、数多くの著名な人物の霊言集を作るなど、自分で自分の偉大さを並べ立てることによって自らの偉大さが証明されるとするような、見え透いた手段を取っています。

それに対して統一教会は、サタン―原罪―メシヤによる救済といった精妙な論理体系を作っています。方法において両者の間には、子供と大人ほどの違いがあります。統一教会ではその精巧な論理性ゆえに強烈な洗脳が可能となり、死後も霊界において地上同様な狂信世界を作り上げることが考えられます。この点では、ものみの塔(エホバの証人)やクリスタデルフィアンの信者と同じような死後の経過をたどることになるでしょう。


幸福の科学も統一教会も、教祖の死後、急激に勢いを失うことになるのは間違いありません。なぜなら、一人の人間によってのみ救いが与えられるという狂信的信仰は神の造られた摂理に反し、霊的な目覚めの到来した人間を、もはやつなぎ止めることはできなくなるからです。

幸福の科学も統一教会もともに、地上ユートピア建設、地上天国建設の最終目標を掲げています。しかし本当に神と人類に貢献したいということならば、それらの教団の中から真っ先に教祖の存在とカリスマを否定すべきなのです。そして後に残った霊的真理だけを教団の教理とすべきなのです。そうした時、各自の魂向上のための努力が教団の中心的方針となって行くでしょう。それでこそ初めて、霊界の道具となって働くことができるようになるのです。利他愛・自己犠牲の愛のすばらしさ、そして霊界という永遠の世界の存在が、単なる自己アピールの材料から真に生きたものとなるのです。


http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-03/spnl-03-1.htm  より転載


(段落変更、赤字はナツミカンが入れさせていただきました。)



http://ameblo.jp/chanu1/entry-11607236131.html  霊能者の見解参照の事!




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