9.「シ」 | 携帯小説サイト-メメント・モリ-

9.「シ」


消えてしまいたい、と思った。
死んでしまいたいと、思った。

ねえ、誰にも迷惑をかけずに逝くから。

どうか、悲しまないで。

 そんな事を思いながら、ただの一度も実行できない私は
 まぎれもなく、卑怯者の、ろくでなしだった。


ヒナちゃんが、外にでない。笑わなくなった。
サクラお姉ちゃんがそんな風に、ヨシノお姉ちゃんに相談して。

それを私は、知っていながら。
毎日を怠惰に過ごし続けた。




 RRRRRRRRRRRRR.



「あら、電話だ」

お夕飯を食べてる最中。
サクラお姉ちゃんの電話が鳴った。

ちょっとごめんね、とサクラおねえちゃんは電話に出る。

「はい、もしもし?タカオ先輩?」

タカオ先輩。お姉ちゃん達の大学時代の先輩で。
ヨシノお姉ちゃんと同棲している彼氏だ。

「え?え、何?」

サクラお姉ちゃんの顔が、すこし強張った。
イヤな予感が、した。

「うそ―――でしょ」

サクラおねえちゃんの、乾いた声。
すこし、目線が中にさまよったまま。
ええ、はい。今すぐいきます。そう言ってお姉ちゃんは電話を切る。

眼を見開いたまま、微動だにしないサクラお姉ちゃん。
私が、どうしたの、と声をかけると。

震える瞳が、私を見つめて。
その乾いた唇が、ひらいた。





「ヨシノちゃんが…交通事故っ…」





サクラお姉ちゃんの手から、携帯電話が落ちて。
テーブルの上に、ごとり、と落ちた。






私達が病院に駆けつけたとき

ヨシノお姉ちゃんは既に、亡くなっていた。








読経の声が、まだ耳に響いている気がする。

葬儀は、粛々と執り行なわれ。

叔母さんの助けを借りて

サクラお姉ちゃんは、つつがなく喪主をつとめた。
一度も、泣かなかった。

私は一度だけ。
ずっと、現実感のない、気持ちだったけれど。

火葬場で、葬炉の口がひらこうとするのを見て。
もう、会えないのだ。と思った。

ヨシノお姉ちゃんの形は崩れて、溶けて、消えて。
もう、二度と会えなくなるのだと。

そんなことに、そのときになって、漸く気づいて。
吸い込まれてゆく棺に、すがり付いて泣いた。

今更そんな事をしようとも、全てはもう遅いのに。



今、ヨシノお姉ちゃんは、骨の欠片だけになって
小さな骨箱の中にひっそりと収まっている。
事務引継ぎは、叔母さんが引き受けてくれたから
私は、お姉ちゃんと二人で、先に家に帰ってきていた。

「ヒナちゃん」

サクラお姉ちゃんが、ベランダで月を眺めて。
私を、呼んだから。なあに?って聞き返す。

「おかあちゃんが、死んだときさ」

「うん」

「ヨシノちゃんが、喪主やったでしょう?」

「うん」

私達のお母ちゃんは、4年前に他界した。
その時私はまだ、高校三年生。

そのときのことは、あまりよく覚えてない。
ずっと泣き通しだったのを、覚えている。

「あの時の、ヨシノちゃんの気持ちが、分かった」

月から眼をそらさないまま。
サクラお姉ちゃんはそう言って。

「タカオ先輩から、ヨシノちゃんの最期の言葉。聞いた?」

私が、首を振ると。
サクラお姉ちゃんは、少しだけ、口を歪めて。


「『ヒナ、ごめんね』 だって。」


体の、芯が。冷え込むような。気がした。
胸が、詰まって苦しい。


「ごめんね、ヒナちゃん。しばらく、独りにして」


月から、眼をそらさないで。
私を、見ないで。サクラお姉ちゃんがそう言うから。

うん、わかった。
そう言って。蚊遣り豚だけ、ベランダの外に出しておいて。

網戸を閉めて。レースのカーテンを閉めて。

財布と、携帯だけ持って。

そっと、私は外へ出た。




そのまま、走って。走って。

全速力で、止まらずに駆け抜けた。

何も考えたくなくて、追いかけてくる黒い靄を

振り払うように、私は走り続けて。



私はやがて、大きな川を渡る橋の上で止まった。

呼吸が、苦しい。

でも、苦しいのも、胸が痛いのも。
走ってきたからだけじゃ、なかった。



心残りを作らせた。

私なんかが、最期の言葉であっていい筈もなくて。



今、思い出しても。
私は確かに愛されていて。

思い出せる、ヨシノお姉ちゃんの顔は。
いつだって、心配の色に彩られていて。

私はその顔に

大丈夫だよ、と笑顔で言ってあげたことが
過去に一度だってあっただろうか?

―――ない。なかった。



なんて最低なんだろう。私。

消えちゃいたい。
しんじゃいたい。

生まれてなんて、こなければよかった。


このままここを、飛び降りて。
この暗い河の底へ沈んでしまえば。

全てが、救われるような、気がした。



でも。どこかで。




それでいいの?って声が、聞こえた。

それでいいの?私は、本当に、それで?


棺の中の、四角に切り取られた窓から見た
青白くて、まるでヨシノお姉ちゃんじゃないみたいな。

あの、死に顔を、思い出す。
私は、あんな風になりたいの?



死にたいとか、消えたいって思いながら。

一度だってこんな風に、死を思ったことがあっただろうか。



死はただの逃げ道だと、思っていなかった?
ただ、救われるような、そんな気がしなかった?

私は、本当に消えてしまいたいの?

こんな、ろくでなしのまま。


『そんな、人間になりたいの?』


ヨシノお姉ちゃんの、声が。頭の中で響く。


―――嫌だ。

あの時は確かに、そう思っていた筈で。
なのに、今の私は。

――嫌だ。嫌だ。嫌だ。

―――こんなのは、嫌だ!!



このままでなんて、いたくないよ!!
このまま、こんな私のまま。

死にたくなんてない!消えたくなんてない!


だけど―――どうすればいいの?
どうしたら、いいの?


わかんない、わかんないよ…。
教えてよ…ヨシノお姉ちゃん。



「ヒナ!見つけた!」



突然、後ろから、名前を呼ばれ、振り返る。


そこにいたのは…


シヅオ、だった。



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