ま、パソコンの音楽作りソフトなんかの場合、

ま、普通は何かの目的があって、それを買い、使えるようになり、

それを使って、作りたかった音楽を作る、

あるいはバンドのデモを作る。


ところが、それを入手すると、あまりの多機能ゆえに

それを使いこなす事自体が目的になってしまう人も

こういったソフト自体の成長期には、かなり多かったと思う。

ま、こういうのを「自己目的化」と言ったと、思うのだが・・・。


バンドやドラムに関する事でも、この自己目的化が

起きているのではないか?と、思うようになった。

バンドをやる。ドラマーになる。という事自体が目的になっている。

僕らの世代が考えるスタートラインとは、かなり違う。


まあ、こういう人は昔から居たし、別に好きにすれば良い事だが、

子供の頃がバンドブームだった事を考えると、

こういう人の割合が増えているのかもしれない。

ま、非常に増えている。


しかしちょっと困った事になるのは、

しばしば問題意識を共有出来ない場合が出てくる。


グルーヴやノリや一体感などに興味が無くても、

ま、学校行くなりして技術を付ければ「ドラマー」にはなれる。

叩けるっちゃ叩ける訳でね。

ドンパンドドパン。はいドラマーっちゃあ、ドラマー。


しかし、こういう人がグルーブやノリを重視するバンドに入ってしまうと、

やたらとトンチンカンな事になる。

レコーディングした自分の演奏のノリの良し悪しを

ドラマー自体が判断出来ない。

周りが、やりにくくても気付かない。

「ああしよう、こうしよう。」という会話に入ってこない。

「もうちょっとこうしてよ。」と言われても意図が理解出来ない。


ドラマーがこうだと、バンドの一体感も不可能なので、

PAもレコーディングエンジニアも音が前に出て来ずに頭を抱える。


こういう人の叩くタイコは、ヘタじゃないはずなのに、

打点が勘所に決して来ず、体がピクリとも動かない。

ノリにくい。

イライライライライライライライラ・・・・。


実際こういう事が、近年やたらと増えたのである。


道具であるべきものが目的にすり替わってしまった場合、

「そもそも何だったか?」という事が分からなくなってしまう。

お金だってそうだが、それ自体を溜め込む事が目的になってしまうと、

「金は天下の周り物」といった「そもそも」は忘れられてしまう。

アメリカのほとんどのお金は、上位4%の金持ちが寡占している。

といった事にもなる。デモも起きる訳である。


我々が関わっている音楽は、そもそもは「グルーヴミュージック」である。

R&Bやファンク同様「ノリノリー!!」というエンジンを使う。

聴いていて体が「フンフン」と動いて来て、だんだん乗ってくる。

「そもそも」は、そういう音楽である。

ロックの場合は、メリハリを大強調したりはするが、

やはりグルーヴミュージックの一種である。

あろうと思う。


上記の「そもそもが分からなくなる。」を当てはめてみると

「ドラマーになる」とか「バンドをやる」という事自体が目的化すると、

「グルーヴミュージック」という「そもそも」が、

もう分からなくなって来ているのである。

「ドラマー」にはなったが、それで何をするのかが、

分からないのである。


リズムというのは誰でも楽しめる物なのだから、

何も考えなければ、自然と楽しめる物なのだが、

ヘンなプライドを持ってしまった「ドラマー」は、

それさえ見失ってしまう。

「論語読みの論語知らず。」


しかし、多少なりとも脈のあるバンドなら、

ドラマーには、ノリのある演奏を要求する。

そういう音楽をやっている以上、それで、当然であろう。

しかし、ドラマーがそもそも、そういうものだと思っていない、

あるいは知らないので、その要求の根拠をさっぱり理解出来ない。

こういう状況が何年も続くのはお互いにとって

不幸以外の何物でもない。見ているだけで胃が痛い。


ま、時代背景もあるし、悪気が有る訳でもないし、

別にこうなってしまった「ドラマー」を批判はしない。

批判もしないが、残念ながら将来も保障出来ない。


しかし見たところ、こういうドラマーで頭を抱えているバンドは、

実際、多そうなのである。ハッキリ言って将来は明るくない。


しかし、おいそれと良いドラマーも居ない。ホントにいない。

どうすれば良いか?


これまでも、

「ドラマーならクラブで酒でも飲んで踊って来い。」

「音楽が鳴ってたら、とりあえずノってみなさい。」

というのは、何度か書いたと思う。


以前書いた時は、

「まあ、さすがにドラマーがノリに興味が無いなんて有り得ないだろう。」

と、思って、「そもそも何だったか思い出してみ。」

ぐらいの気持ちで書いていたのだが、

実際に、「ドラマーになる」「バンドを組む」自体が目的化してしまい、

ノリや一体感に興味が全く無いドラマーが出て来ているのである。


ゆえに、上の二つは、最近は「至上命令」である。

何を置いても、ノってみろ。踊ってみろ。

それで「あれ?なんか楽しい・・・。」というのを発見出来なかったら、

ドラマーで何とかなろうというのは諦めた方が良い。


あなたがバンドの音楽的なリーダーなら、

ドラマーがいつまで経っても、みんなと一緒に体を動かさないようなら、

ここまで書いて来た事を疑ってみると良いし、

「乗れ」「踊れ」は強制しても良い。

やらないようなら、ドラマーを換えるべきである。

ドラマーは、一体感のカナメであり、そこがダメなら全てダメである。

本人を含め、誰も幸せにならない。


まず、その「そもそも」を体感させて理解させない限り、

習いに行かせたって、怒ったってすかしたってダメである。

努力する気が無い訳ではない。

何に向かって努力すれば良いかを分かっていないのである。

何時間練習したって、無駄。


「とりあえずそれしか手段が無い。」

と、思うのは、僕自身が、そうしてみる事で、

上記のような事を実感として明文化出来、

「あ、ノリさえあればダイジョブなんだ。」

という大きな安心を得た経験があるからである。

そう思うようになってから、実際、全てが上手く行くようになった。

周囲とも理解し合って物事を進められるようになった。


人の演奏の良し悪しも分かるようになったし、

優れたドラマーを尊敬できるようにもなった。


練習のさいの目的意識も変わった。

高速スティッキングだって挑戦するのは、

それによりスティッキングに全体として余裕が生まれ、

よりリズムの安定性が上がるから。である。

それ自体は出来るようになれば、そりゃラッキーだが、

ぶっといところを押さえておけば、何とかなる。


自分が器用でないなら、やりやすいリズムを提供して、

周囲を乗せて代わりにやらせりゃ良い。

実際に長く愛されるドラマーは、こういう人の方が多いし、

リズムと共演者との一体感を心から愛していれば、

それはそれは素敵な人生である。


多分、リズムというのは人間の脳に生得的に作り付けられた機能なので、

ノッてみたり、踊ってみたりしているとイヤでも高揚してくる。

いわば体が勝手に学ぶ。

意外と僕は、これは効果が有るはずだと思っている。

細かい知識なんかは、あとからついてくる。


やり手がまずタップリ楽しんで、

お客さんにも分けて上げれば良いのである。

リズムの楽しさを知らない人に良いリズムって演奏出来るものだろうか?

ノれないドラマーにノリの良いタイコが叩けるものだろうか?

ノッてみれば?踊ってみれば?

それをやってみない人に、もう何を教える気も失せた。

「そもそも」無駄である。


今年は、ずっと若いドラマーの変化に悩んだ年で、

心理学までかじったが、どうもこういう事のような気がして来た。