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もう師走ですね、一年はほんとに早いです。

今年もいろいろありましたが、それも間もなく暮れようとしています。

新聞では70歳以上の医療費が、新たに負担を求めるそうです。

 

高齢化による医療費増しで、政府は費用を削減したいんですね。

高齢になれば、病院にかかることも多くなるのに、、、、

日本は老人になったからといって、安心してとても暮らせない国になりました。

 

いろんなところから取ることばかり知恵を廻らしていますが

無駄遣いのことに関しては、ほったらかしです。

外国にばらまき、公務員の無駄遣い、おもいやり予算、、、、

そんなものを減らしたら、高齢者からちまちまぼったくることもないのに、、、、

 

そういうちまちまやることは、骨身を惜しまず努力するくせに

そのほかのことは、ほったらかしだから、、、、やってることがわからない、、、

日本の政府のやってることは、はたからみているとバカ丸出しで、、、、

税金の意味が解ってないんじゃない、、、、

 

 ★★★すべてが無にかえされて

 

  破竹の勢いだった日本軍が、ミッドウェーで惨敗し、その後南の島々で日本軍は

  玉砕し戦禍は沖縄にも迫り、広島と長崎に原爆を落とされてようやく

  太平洋戦争が終わりました。

 

 その後、和平工作やGHQの日本占領政策によって

 今の日本は続いています。

1945年8月に戦争が終わり、終戦ということになっています。

でも、事実は終戦ではなく、敗戦というのが正しい、、、

 

 〇司馬遼太郎の思い

  作家、司馬遼太郎は、死の直前次のように語りました。

  「太平洋戦争を起こした日本、それに負けて降伏した日本の

   あの事態よりも、今はもっと深刻な事態なのではないか。

   日本は滅びるかもしれない、、、、

   ここまで闇を作ってしまったら、、、、

   次の時代はもう来ないだろう」

 

  司馬遼太郎は、明治から大正までたくさんの小説を書いたが

  ノモンハン事件だけは、資料を集めながら、書くことなく死にました。

  どうして書かなかったのか、、、

 

  ノモンハンを書いたら俺は死ぬ、、、、

  と晩年、司馬は友人の青木彰(東京情報大学)

  教授に語っています。

 

  司馬は「ここまで闇を作ってしまったら」と

  死の直前に語りました。

  その闇とはなんなのでしょう、、、、

 

 日本は太平洋戦争を起こして、その発端は中国侵略です。

 そして中国侵略から、敗戦までが15年という長きでした。

 中国侵略は、国際連盟やその他諸外国から

 不戦条約、九カ国条約違反の避難の声が高く

 ついにその結果、米英との太平洋戦争に追い込まれました。

 

 そして、敗戦に至るまでのことは、いろいろ報道されていますが

 その後の和平工作や日本占領政策のことは、あまり報道されません。

 東京裁判とか、GHQのやったある程度のことは、知っていると思いますが

 それも報道の通りなら、司馬の日本の闇とはなんなのでしょう。

 ここまで闇を、、、と司馬は語っています。

 

 日本が今でもアメリカの言いなりになるのは、司馬のいう闇のせい

 だと思います。

 敗戦から70年以上たっても、占領下同然の日本

 金出せ、土地出せと言われるままに提供して、、、

 首相でさえアメリカに決められるって、、、、

 表向きは日本人が、選挙で政治家を決めているように見えるけど

 日本の首相はアメリカが決めているのです。

 

 それもこれも司馬のいう、日本の闇のせいでこうなりました。

 世界中、どこの国が外国に人の国の首相や大統領を決める権利があるでしょう、、、

 考えればおかしな国です、日本という国は、、、

 外国人に首相を決めてもらって、外国の言うがままに金も土地も差し出して、、、

 

 こうなったのは戦後の闇のせいだと思います、、、、

その闇を解き明かしていこうと思います。

 

☆天皇行幸  大変身

 

 天皇は1946年2月から東京近郊の市や町を行幸しました。

 そしてやがてその範囲を拡大していきました。

 当時の総務課長、筧素彦氏はこう証言しています。

「元帥とのご会談で巡幸の承認がなされたことは、間違いありません」

 

5月21日天皇はマッカーサーとの2度目の会談をし、そしてその翌月の6月から

民衆の天皇への大変身を図るのです。

当時の宮内省総務局長、加藤進氏は天皇の巡幸について、次のように語っています。

「天皇は民衆の天皇となり、現人神の姿を隠し、新しい天皇像の創出に努めた。」

 

戦前、戦中の神と民草の関係が崩壊したので、今度は新しい主従の関係を構築し

生き残ろうとしたのです。

戦前、戦中は天皇は神であり民衆は人ではなく草だった、、、

つまり民草だった、、、

でも、戦争が終わりそれが崩壊したから、今度は神と民草ではなく

新しい主従の関係を構築しなければならなくなった、、、

 

天皇の巡幸は全国的規模で、人間天皇の誕生を演出していくものでした。

そして天皇は自ら人間宣言をしました。

SNWCC国務省、陸軍省、海軍省調整委員会というのがワシントンにありました。

これはマッカーサーを支配する組織です。

その組織から1946年7月にマッカーサーあての指令が出ました。

 

その指令には次のようなことが書かれています。

 

「天皇制を直接攻撃することは、日本の民主的要素を弱体化させるばかりか

 共産主義者や軍国主義者ら過激派の勢力を強めることになるであろう。

従って最高司令官は天皇を大衆化し、人間性を持たせるための方策を内密に

とるよう命じる。

このことは日本国民に知らせてはならない」

 

そして天皇は民衆の中に入っていきます。

その様子をAP通信のラッセルブラインズが語っています。

「天皇はいきなり、使い古した中折れ帽子に手をのばされたかと思うと

 また思い直しておろし、微笑もうとした。

 それから笑みを浮かべて、帽子をとられ民衆に向けて盛んに手を振られた。

 人々は歓呼の声をあげ、緊張を解いた。

堂々たる軍服姿の天皇を心に描いた民衆は、実際に天皇を前にして

その相違に混乱させられた。

そこにいたのは、側近の指示でしか行動できない一人の小男だった。

「あっそう」  いつもこういう話し方をした。

高い調子で無意味な言葉を続ける。

顔にしみが浮き出て、無精ひげがはえていた。

そして靴は擦り切れていた。」

 

ブラインズという人は、天皇のみすぼらしい服装に隠された秘密があることを

知っていました。

それを書きたかったが、マッカーサーはアメリカ人記者の記事でさえ

天皇に関するものは厳密にチェックさせていたのです。

このような姿で、警備の人も目立たぬ中で、戦後の廃墟の中を歩いて

人間天皇を演出したのです。

そしてやがて巡幸はお祭り騒ぎとなっていきます。

 

☆敗戦責任の終わり  

 

 九州巡幸にあたって宮内府は、「行幸事務必携」というものを作成して各県に送りました。

 それは一つの演出です。

 すべて「天皇ばんざい」を叫ばすための演出です。

 奉迎場には高台をもうけ、戦災者、引揚者、遺族等にそれぞれ区別する標識をもうけさせ

 そして式次第は、天皇陛下御着、市長敬礼、君が代斉唱、万歳三唱、一同敬礼

 その後ご退場、、、

 式はこのように進めろと宮内府が各県に送りました。

 

 天皇が高台に立ち、市長が敬礼し民衆も敬礼、君が代を斉唱し、市長が万歳するのに

 あわせて民衆も万歳、万歳と繰り返してショーは終わり、、、

 天皇は帽子をふりつつ退場、、、、

 

 あの戦争で廃墟と化した敗戦後の日本に、奉迎場なるものが各地に無限に誕生し

 その周辺の住民がまるで、催眠術をかけられたかのように「万歳、万歳」と叫ぶ。

 この奉迎場の熱狂的場面、、、、こうして天皇は敗戦の責任を無にかえしたのです。

 民草に万歳と叫ばせる方が、天皇の神聖さが高まる、、、

 民草の父、兄、弟、夫らを戦場で殺させた謝罪をさせるよりも、、、、

 

明治天皇も大正天皇も敗戦前の昭和天皇も、民草と言われる民衆と言葉を交わすことさえ

その顔を直接眼にすることすら禁じられていました。

天皇が民衆の中に入っていったのは、この敗戦後のほんの一時期だけです。

 

戦中の日本軍は、「神聖にして侵すべからず」の大元帥の命に従って残忍になれ

中国侵略から南方の島々で残忍になれた。

戦争は美化され、侵略戦争も条約違反もなんのその、、、、

天皇の軍隊と呼び聖戦と呼び各地で残虐行為を働き残忍になれた。

 

二二六事件の皇道派とか統制派とかが争っていた陸軍

しかし、天皇直属の大本営こそ日本国最大の暴力装置であり、ここから恐怖が流れだした。

多くの日本人が殺されました。

けれど無限の奉迎場なるもので、万歳を叫ばれそのすべての責任が無にかえされた。