5人のあさま山荘事件 | 気になるニュースチェックします。

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選挙のことで賑わっていますが、やはり自民党は改憲争点をぼかすそうです。
参院選での改憲争点をめぐり、安倍首相はあいまいな発言を繰り返しています。
つまり改憲を全面に出せば、選挙に不利になるというわけです。

つい、この間まで改憲、改憲と豪語していたくせに、選挙になったとたん
経済、経済、アベノミクス、、、ばかり
改憲は、選挙期間中は一切、封印です。

選挙で三分の二獲得すると、改憲道一筋にまい進します。
改憲かくし選挙に騙されないように、、、


勝てばもうこっちのものだということで、国民が泣こうが喚こうが憲法を変えて
戦争のできる国へまっしぐら、、、
他に自民党に対抗できる党がないじゃん、、、、それでもとりあえず改憲反対の党へ
入れておいた方が安心です。
国会の三分の二以上で改憲は成立してしまいます。
そうしたらもうあとの祭りです。


★★★5人のあさま山荘事件
 

  2月15日
    最後の犠牲者となった山田が死亡したあと、朝刊で榛名ベース発見と報道される。
    ここから20キロ離れた迦葉山ベースも発見される。
    こちらはあわてて逃げだしたので、まだ解体されていなかった。

  2月16日
    第三のアジトである洞窟を放棄
    袋田の滝方面にレンタカーセドリックのワゴン車でで移動中だったメンバーが
    警察の車とばったり会う
    坂口、植垣、青砥の3人は、奥沢と杉崎に時間を稼いでいろと言って洞窟に戻り
    坂東、に緊急を知らせて逃亡した。
 
    奥沢と杉崎は車の中に籠城したあと逮捕された
    坂口らは群馬から長野に向かって脱出行を続けた
    夜、森と永田が妙義山に到着、暗闇だったため雪の中で一夜を過ごす
    翌日,妙義湖近くで二人は逮捕された

    18日には小諸に向かっていた植垣、青砥ら4人が軽井沢で逮捕された
    またこの日
    坂口、坂東、吉野、加藤兄弟の5人が警察に発見され、あさま山荘に逃げ込む

   3月10日から14日にかけて
    逃げていた山本保子、中村、岩田、前澤相次いで自首
    山本の妻、保子は10日になって出頭、その長女頼良ちゃん3カ月は千葉市川署に保護された。
    頼良ちゃんを連れ出していた中村も出頭

    森と永田は何も話さなかったが、3月に入ると奥沢やあさま山荘に立てこもった加藤兄弟が
    同志殺しを自白し始めた。

   3月7日
     群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、1メートルほどの深さにある穴に埋められた
     男性の遺体を発見、それは山田孝だった。
     追及すると総括と呼ばれるリンチの実態が浮かんだ。
     榛名山に終結していたメンバー29人のうち、12人が死刑または総括で死亡していた。

     12人がすでに殺されていたという報告を受けた警察庁長官、後藤田正晴は
     「そんなばかな」
     と絶句したという。

     そして凍てつく土の中から次々とメンバーの遺体が掘り出された。
     遺体には凄惨な暴力や衰弱の痕があり、男女の区別がつかないほどだったという。

   2月18日
     森と永田の逮捕を奉じるニュースをラジオで知った残りの9人は、これで総括が
     なくなるとホットしたという。
     同時に逮捕される危険を感じ、長野県側に山越え、軽井沢町のレイクニュータウン
     若草山に逃げ込む  
     そこでかまくらを作り、中に入って休憩した

   2月19日
     植垣、青砥らは衣類、食料の購入のため山を下り国鉄軽井沢駅に姿を現し
     そこで4人は逮捕される
     その逮捕をラジオで知った残りの5人は定期便のトラックを運転手ごと奪い逃走
     正午、かまくらから500メートル離れた軽井沢の二ュ―レイクタウンの無人の
     さつき山荘に侵入し潜伏
 
     このとき、4人の機動隊が積雪に残る乱れた足跡を追って、さつき山荘に近寄り
     午後3時5分ころ中の様子を見ようとしたところ、5人は所持していた
     銃やライフルを乱射、機動隊も応戦
     警官一人が顔や脚に全治3週間のけがを負った

     午後3時20分ころ5人は、雑木林などをぬけて坂道を駆け上って逃走
     このとき5人は、持ち切れないため銃、ライフルなどをさつき山荘に残している

    ●あさま山荘銃撃戦
    
       5人とは
       坂口弘  25歳   
       坂東国男 25 歳
       吉野雅邦 23歳
       加藤倫教 19歳
       加藤元久 16歳
       
    1日目  2月19日 午後3時半ころ
          さつき山荘から連合赤軍の5人は一丸となって逃走
          そこから300メートル離れた軽井沢町の河合楽器の保養所、あさま山荘に
          玄関口から土足のまま入って、3階のイチョウの間に籠城した

          坂口があさま山荘を選んだのは、その山荘の玄関に車があり人が住んでいると
          判断したからであった
          5人は玄関のすぐ横の管理室にいた泰子さんに銃を突きつけ脅迫
          泰子さんの夫の郁男さんは、宿泊客を案内してスケート場に出かけていた。

          イチョウの間に入り、泰子さんの手首、足首、ひざなどを縛って 
          さらに全身を柱に縛りつけた
          口にはハンカチを押し込み、声が出ないようにした

          坂口、吉野、坂東で立てこもることにし、玄関口や一階の非常口などを
          タンス、ふとん、たたみなどで北側のバルコニーにもたたみなどを持ち込んで
          バリケードを築いた
          このとき5人が所持していた武器は、ライフル一丁、けん銃一丁、
          上下二連銃三丁、五連銃一丁、爆弾数個、実包約七百発であった

          県警本部は最大動員の非常招集をかけ、軽井沢署に
          「連合赤軍軽井沢事件警備本部」を設置
          632人編成の警備隊を編成し、388人であさま山荘ほ包囲した

  2日目   2月20日 午前6時ころ
         警察はトランジスタ、メガホンを持って連合赤軍に呼びかけた
         だが連合赤軍は発砲で応じるのみであった
         逮捕されるまで、何の要求もせず、話し合いにも応じず、ただ銃の発砲が続けられた

         警察側は兵糧攻めを検討したが、郁男さんによるとあさま山荘には、20日分の
         食料があるうえ、6人の宿泊客のため食料を買い込んであったという。
         兵糧攻めは無理と判断した
  
  3日目   2月21日
         午後2時過ぎ、郁男さんが手紙とともにバナナ、りんご、みかんを持ったくだものかごを
          差し入れたいと言いだした
         大久保伊勢男警視庁第九隊長は、「俺が届ける」といってヘルメットを脱ぎ
         拳銃帯革を外して
         「牟田さんご主人からの差し入れの果物です。
          赤軍派の諸君、撃つんじゃないよちゃんと受け取って泰子さんにわたしなさい」
         と大声を出し山荘の玄関に手紙と果物をおいて引き返した。
         赤軍派からの発砲はなかったが、夜になっても果物かごはそのままだった
         相変わらずハンドマイクを持って、巡査部長が説得を続けていた

         午後3時50分ころ,警備心理学研究会の先生方を籠城事件 処理のため
         その指導を受けようという指令により、宮城音弥、島田一男、町田欣一の
         大学名誉教授、化学捜査研究技官などの3人が現場に到着した

         宮城、島田の意見によると今は心理学的には連合赤軍が有利で警察側が
         追い詰められている。
         隊員が十分情報を知らされておらず、いらいらしている。
         人間は40時間眠らないとまいる
         明かりや音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにせよ。
         山荘が静まりかえっているのは、よい兆候ではないということだった。

         午後5時ころ、警視庁のヘリコプターで吉野の両親と坂口の母、菊枝が駆けつけた
         そして山荘近くの警備軍から20分くらい呼びかけた
         「まぁちゃん聞こえますか、牟田さんを返しなさい。
          これではあんたの言っていた救世主どころではない。
          世の中のため、自分を犠牲にするんじゃなかったの
          武器を捨てて出てきて、それが本当の勇気なのよ」
            (吉野淑子51歳)

        「牟田さんの奥さん、申訳ありません。
         奥さんを返してください。
         代わりがほしいなら私が行きますから」
          (坂口菊枝58歳)

     吹きすさぶ零下十数度のなか、マイクを握りしめ涙にむせびながら切々と訴える
      二人の母親の呼びかけは根機動隊と報道陣の心を打った
      機動隊員は思わずもらい泣き、涙があふれ記録ができなかったという

      午後7時25分ころ、立ち入り禁止区域内に男が侵入した
       スナック経営者、田中保彦30を逮捕した
      人質の身代わりになるため来たという
      午後11時20分釈放した

 4日目   2月22日 午前9時23分
        淑子と菊枝を乗せた警備車が山荘玄関前10メートルまで接近、説得を再開
        突然一発の銃声が響いた
        淑子が「お母さんを撃てますか」と言ったが吉野はためらわず一発発砲した
        弾は二人の母を乗せた警備車に命中した
        
       午前11時40分ころ、北川斜面の雪とスロープを日野市側から来た島田勝之という
       29歳の画家と信越放送の記者桂富夫が,警戒線を越えて山荘に近づこうと
       していたところ、警察に取り押さえられた。
       
       その騒ぎをついて、田中保彦が北側斜面をよじ登り、南側玄関に到着した。
       そして昨日玄関に置いておいた果物かごを取り上げ、玄関のドアを半開きにして
       内部に呼びかけた。
       「赤軍さん、赤軍さん私も左翼です、中に入れてください。
        私も昨日まで留置所にいたんです。
        私も警察が憎い、私は妻子と離婚してきた。
        私は医者です、新潟から来たんです」
        そういうと警察の方に向かって、手を振ったりウィンクしたりした。

       坂口はこの男を警察だと思い田中に向けて拳銃を発砲した
       田中はその場に倒れ、しばらくすると立ち上がり、手すりにすがりながら
       階段を這い上がってきた。
       警察が大丈夫かと声をかけると『いてぇ、おれは大丈夫だ」
       意識はもうろうとしているようだった。
       このとき後頭部に弾があたっていたが、命に別状はないと思われていた。

       しかし救急車で病院へ運ばれ、レントゲンをとると38口径の弾が脳内に留まっていた
       佐久病院に移され手術をうけたが、3月1日死亡した
       田中は何度も警察に厄介になったことのある薬物中毒者だった

       しばらくして坂口は、自分が撃った男は民間人であったことをしる

       昼過ぎ軽井沢署に救援連絡センターモップル社と名乗る男4 人が訪れてきた
       現場の赤軍派とあって話がしたいという。
       この4人とは
        浅田光輝     立教大教授
        丸山照雄     身延山久遠寺住職
        水戸 巌      原子核研究所助教授
        木村 壮      弁護士
     
       警察はこの4人に「身の安全については自己責任」と言うとこの4人は
       「東京の本部と相談してから返事します」と早々に退散した。
       だが記者クラブで自分たちの都合のいいことばかり言って、警察批判の
       記者会見をやり、軽井沢の「美登里荘」に宿泊して連合赤軍支援の
       宣伝活動を開始した。

       彼らが付近住民に配ったビラには、次のように書いてあった。
       連合赤軍銃撃戦断固支持
       山狩り警官ピストルで射殺企む  威嚇でなくて本当だ
       警視庁から狙撃犯50人集めた

       野次馬の数が膨れ上がり、違法駐車は300台を超え、中には望遠鏡まで
       担いでいる者もいた。
       そして屋台まで並んだ。

       心理学研究会の提案で、擬音作戦を実施することになった。
       それは、催涙ガスの発射音、指揮官の号令、警備車のディーゼルエンジンの音などを
       録音したテープを拡声器に仕掛け、擬装攻撃の陽動作戦を行い、屋根に向かって
       投石を行い、犯人たちを眠らせないようにし、できるだけ発砲させて
       弾を使わせようという作戦であった。

       この結果、赤軍はこの音をすぐテープと見破ったが、その音で連日寝不足になった。
       午後時すぎから、警察はあさま山荘への送電をストップした。
       テレビが見れなくなったので、ラジオで警察の動きを知ることとなる。
       午後11時すぎ、山荘を照らしていた投光器を一発の弾丸が破壊した。

 5日目   2月23日、午前1時20分
        照明弾が2発打ち上げられた。
        だが20分たっても何も起きない、これは係のミスと判明した。

        午前7時、籠城から87時間が過ぎた。
        午後1時半から夕方にかけ山荘の南側道路に高さ1・5メートル、長さ5メートルの
        土嚢を築いた。
        その間、赤軍は作業中の警察に対してしきりに銃を発砲した。


 6日目   2月24日 午前5時半ころ
        夫の郁男さん、泰子さんの父親、弟による呼びかけが行われた。
        「泰子、元気か、寒くないか、皆来ているからがんばるんだよ」
        このとき泰子さんは、いたたまれなくなり坂口に
        「少しでいいから、顔を出させてください」
        と哀願したが坂口は拒否した。
  
        9時半ころには、坂東の母、芳子の呼びかけも行われた。
        そして午後4時10分警察は
        「君たちが抵抗をやめないので、我々は武器を使用する」
        とメガホンで流し、銃眼に向けて高圧放水を開始した。
        やがて玄関のドアのガラスが破れ、そこにガス弾が撃ちこまれた。
        このとき、坂東と加藤倫教が銃眼から放水車めがけて6発発射したが
        ラジオでこれが強行偵察であることを知る。

 7日目    2月25日
        山荘内でバリケードの補強をした。

 8日目    2月26日  午前5時
         郁男さん、泰子さんの母親、弟、義母、叔母らが呼びかけを行った。
         
         昼頃から土嚢積み、土嚢は長さ10メートルになった。
         午後6時40分、寺岡が山荘にいるものとみて、両親の一郎と百合子を呼び寄せ
         説得が行われた。
         「泰子さんは君たちの姉さんにあたる。
          か弱い女性に危害を加えてはならない。
          人間愛があるなら泰子さんを返すことだ」
        赤軍はリンチによって殺害した寺岡のことを思い出し、複雑な思いでその
        呼びかけを聞いていた。

        また夜には吉野の両親による呼びかけ、坂口の母による呼びかけも行われた。
        泰子さんは自分のバックの中から、善光寺と成田山のお守りを取り出し
        ハンカチを割いてひもを作り、助け出されるまで首にかけていた。
        
        この日の夜、坂口らは泰子さんに
        「警察がもし攻め込んできても、顔を出したり逃げ出したりしないでもらいたい。
         警察が来ても我々が守る」
         と言った。
        泰子さんは
        「こんなことでここで死にたくない。
         私を盾にして脱出しないでください。
         後で裁判になったとき、私を証人に呼ばないでください」
        と言った。

 9日目    2月27日、午前7時ころ
         寺岡、吉野の親の呼びかけが行われた。
          この日はラジオで警察の動きに関するニュースがなく、坂口は何か仕掛けて
          くるのではないかと察していた。

         また身代わり志願者が来訪
         切断したという小指を出して、この決意を汲んでほしてと言った。
         この日も土嚢積みが行われた。

 10日目    2月28日   午前8時
         「連日にわたる警告、説得にもかかわらず君たちは、何の罪もない泰子さんを
          監禁している。
          監禁時間は200時間を超えた。
          もうこれ以上、待つことはできない。
          これ以上、罪を重ねることなく泰子さんを解放して、銃を捨てて出てきなさい。
          また、話あうなら白布を持って警察部隊の見えるところに立ちなさい」

          赤軍側は語調が強く、具体的に白布と言ってきたことで、今日が山場になると
          覚悟を決めた。
          午前9時50分、最後の通告がスピーカーから発せられた。
           「山荘の犯人に告げる、君たちに反省の機会を与えようとするわれわれの
            警告にもかかわらず、君たちは何ら反省を示さない。
            間もなく泰子さんを救出するため、実力行使する」

           泰子さんを救出すると言っているが、警察は泰子さんの生死の確認は
           できないでいた。
          しばらくして、バルコニーに向かって一斉にガス弾が撃ちこまれた。
          山荘の正面からは、銃眼めがけて高圧放水を開始した。
          坂東、吉野らは警備車、放水車にむけて狂ったように銃を撃ちまくった。
          坂口はラジオで救出作戦が始まったことをしる。

           午前11時17分 決死隊管理人室から山荘内に突入
           午前11時24分  一階突入占拠
           午前11時27分  吉野が高見繁光警部を散銃弾で狙撃し、前頭部に命中、死亡した。

           大津高幸巡査は、土嚢を飛び越え山荘内に突入しようとしたが顔面に被弾し
           真っ逆さまに土嚢の向こう側に転落した。
           また左目に無数の粒弾があたり、それが原因で左目を失明した。

           午前11時54分、坂東が内田尚孝警視をライフル銃で狙撃し、前頭部に
           命中し死亡
           突然、クレーン車のエンジンが停止、破壊作戦は断念する。
      
           午前12時38分、適切な判断をし、適切な使用をせよという拳銃使用の許可が出る。
           午後1時、警察の攻撃が一時中断
           午後2時50分、3階の調理室を確保していた舞台に対し、鉄パイプ、爆弾一発が
           投げ込まれ炸裂、これにより警官5人の重軽症者をだす。

           午後3時30分、高圧放水による攻撃開始
            それはイチョウの間まで水が入りこんだ。
           そしてガス弾の一斉射撃が始まり、イチョウの間はガスが充満した。
           赤軍はガラスを割って外の空気を吸った。

           警察はさらに、イチョウの間の隣の食堂の壁を壊し始めた。
           午後6時20分、入り口とその大きくなった壁の穴から一斉に飛び込んで
           5人を逮捕した。
           泰子さんは5人に囲まれるようにして、ベッドに横になっていた。
           籠城から219時間、無事人質を救い出した。

           この日、坂東の父親、坂東基信が滋賀県大津市の自宅で首つり自殺した。
           51歳だった、、、

 その後      1972年 2月26日、逮捕された奥沢修一が12人の同士殺害を自供した。
           金子みちよの母親は、絶叫しながら「恐ろしい」と繰り返し叫んでいたという。
           坂東は逮捕されてから40日間、一言もしゃべらなかったが
           自殺した父親の位牌を見せられると、「ありがとう」と一言発して語り出した。

           1973年1月1日、森恒夫は東京拘置所で首つり自殺した。
           2011年2月5日、永田洋子は東京拘置所で病死した、65歳だった。
           永田は脳腫瘍が悪化し、面会者の判別もできなかったという。