大合唱しているだけ | 気になるニュースチェックします。

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今年初めての雪が降りました。
積もらないといいですね。
日本人人質事件早く解決してほしいです。

人質になっている後藤さんは、ものすごく憔悴の色が濃く別人のようです。
安部政権は「テロには屈しない」「人命が第一」などと大合唱しています。
大合唱をするだけじゃ何も解決しないのに、、、、

またテレビに出て来る報道アナウンサーも、日本側は交渉する余地がない
みたいなことを重ねてしゃべっていますが、日本人が実際に人質になって
命の危険にさらされているというのに、まるで他人事みたいなことを言っていて
政府をカバーしているような発言をしています。

実際今日本では、政府批判をしてはいけないそうです。
フリージャーナリストの常岡氏は、政府批判を控えるようディレクターに
言われたといいます。

テレビに出て来るコメンテーターの人も、あたりさわりのないことしか
しゃべれないみたいで、なにを言ってるんだか言いたいのか、
見ている側にはあまりよくわかりません。

ただただイスラム国の野蛮な行為を非難するだけでは、これからも
ずっとこういうことは起きるでしょう。
安部晋三という人物は、集団的自衛権のことにしても、沖縄の基地移設問題にしても
反対の意見には決して耳をかそうとしません。

まるで聞き分けのない子供同然、、、
まるでわがままなお山の大将そのもの、、、

そしてこういう人質事件が起きれば、ただ
「テロには屈しない」
「人命が第一」
と大合唱しているだけ、、、、でなにもできない。

いくら子供同然だろうと、お山の大将だろうとかりにも国政を預かる身なのだから
軽はずみな行動はつつしんで、これ以上国民に犠牲が出ないよう態度を改めるべきです。



★戸高現る 菅生事件

 
 日本共産党の幹部、志賀義雄の記者会見直後から各社の記者は
 大分の寒村で起きた事件に興味をもちはじめました。
 朝日新聞は「週刊朝日」に
 「犯人は警察官だ」
 「交通爆破事件、世にも不思議な物語」
 を掲載しました。 1956年12月23日号

 この事件に興味を持っていた共同通信社の原寿雄は特捜班を作って
 自分たちの手で戸高を捜そうとすぐに動き出した。
 原の呼びかけで集まったのは、20~30代の若手記者たち5人だった。

 戸高包囲網は確実に縮まっていた。
 その当時、ラジオは映画とならび譲ような情報源であり娯楽だった。
 共同通信社会部は、特捜班を編成していたが、その特捜班が戸高の都内潜伏説に固執した。
 それは職員録の人事欄に「巡査部長戸高公徳」とはっきり明記されているのを見つけたのだ。

 翌年の版には「警察庁派遣」となっていた。
 
 1957年3月13日午後5時45分東京都新宿区番衆町127の春風荘一階3号室
 ドアがかすかに開いて、顔を出したのは小柄なセーター姿の男だった。
 何度も結婚写真でみたあの戸高公徳に間違いなかった。

 「共同通信社の者です、戸高さんですね」
 春風荘は厚生年金会館の西隣りの一角にあった。
 付近は歌舞伎町界隈で働くホステスの住む木造アパートが広がっていた。
 
 春風荘は部屋が8つで、六畳一間に台所、トイレ付の高級アパートだった。
 住んでいるのはバーやキャバレーで働く女の子ばかりだが、一階の3号室だけ
 独身の男がすんでいるという。

 名前は佐々淳一といって、東大の研究生だという。
 「佐々さんは引っ越してくるとすぐ、電話呼び出しのブザーを自分の部屋につけたのよ。
  おかしいのはね、外出中に用があったらこの番号にかけてください東大ですというので
  何かの用で電話したの。
  すると先方が警察大学校ですというのであわてて切ったわよ」
 と管理人がいう。

 佐々は戸高の変名だった。
 「戸高さんですよね」
 とにかく戸高は逮捕された。

 3月14日三輪警備一課長に付き添われて、 戸高が現われた。
 「あなたは戸高公徳さんですか?」
 戸高ははじめて自分が戸高であることを認めた。

 「市木春秋と名乗って共産党に潜入したのは事実ですか?」
 「情報を得るために市木春秋と名乗って、党員に近づきました。
  当時は日共軍事方針採用によって、現地は解放地区の拠点となっていて、
  日共先鋭分子による県、国有林の解放、地主の追放などが続発する一方で
  情報が全然当局に入らない情勢でした。
  小林末喜警備部長に呼ばれて、日共細胞に潜入したらどうかと相談をうけ
  大切な仕事だと思ったので引き受けました」

 戸高は何度も練習してきたかのように、一気にしゃべった。
 「交番爆破計画は知っていましたか?」
 「後藤秀生が会議から帰って、爆破を決行しようと話会っているのを何度も聞きました。
  もちろん私は反対しました」

 「弁護団や日共はあなたが犯人だと言っていますが、、、
  警察があなたを匿っていたようですが、、、」

 戸高は自発的に姿をあらわすつもりだったと協調した。
 
 西日本新聞は
 「市木春秋は私だ」
 「戸高警官東京に現る、交番の爆破はやらぬ」

 「これじゃ自発的に戸高が出てきたようじゃないか」
 「事実関係が全然ちがう」
 特捜班が苦労してアジトを突き止め、深夜まで戸高を追及した部分が削られていた。

 その日がとうとうやってきた。
 1957年4月22日、福岡高等裁判所には戸高を一目見ようと大勢の人が詰めかけた。