攻撃武器を続々と買う安部政権 | 気になるニュースチェックします。

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今日は寒いです、雪になりそうですね。
インフルエンザもすごく流行っているそうです、気をつけましょう。
ところで政府は攻撃型の武器を続々と購入しています。

生活保護などは削減しているくせに、防衛ばかりを重視しています。
介護事業者に支払われるサービスなども引き下げて、国民には負担ばかりを
強いる今年の予算案を閣議決定しました。

また沖縄も翁長知事が当選したことで、沖縄振興の予算も162億円も減らしました。
ずいぶんあからさまなやり方です。
安部晋三政権の冷淡さ丸出しです。

生活保護費では冬季加算も減額し、全国健康保険協会への国庫補助の削減もしました。
全国健康保険協会とは、健康保険のない企業に勤める人が加入するものです。
そんなところにも減額したんです。
冬季加算とは冬場の暖房費です。


政府の弱い者いじめ、、、生活保護の住宅扶助と冬季加算の支給カットが決まりました。
冬季加算は暖房費で11月から3月まで支給されていたのに、今年総額30億円を
削減するといいます。

そんなケチなことしなくたっていいと思うけど、、、、
削るとこはほかにもいくらだってあるじゃない。
この国の政府は命にかかわる弱い者いじめをする呆れた連中だね。
思いやりもやさしさのかけらももちあわせていない。


攻撃する武器を買うお金はふんだんに使っても、国民生活に寄り添うお金は使わない。
予算の閣議決定したとかいったって、それは税金であって安部政権の金じゃない。
国民からしぼり取った税金は、懐に入れば自分たちの好き勝手に使える金だと
勘違いしないでほしい。
国民は武器を続々と買うために税金を払っているわけじゃない。


人を殺す武器を続々と買う安部政権、、、過去最高の予算の増額
借金大国の日本が大判振る舞いの予算を組み続ける、、、これほどおかしいことはない。

呆れたと言えば、ここまで謀略の限りを尽くすのか
その悪魔性、その陰険さにおいてこの事件ほど権力側の酷さをみせつけられた
事件を他に知らない。

菅生事件を知っていますか?

警察とは悪をあばき、犯罪を予防し鎮圧するものと思っていました。
というかずっと前からそんなことは露ほどにも思っていませんが、だいたいの人は
そう思っています。

けれどこの菅生事件はそうではない。
あまりにもひどい菅生事件をぜひ知ってほしいと思います。


★警察の自作自演テロ「菅生事件」

9・11事件もどこかの自作自演テロでした。
自作自演テロなんてどこの新聞も報道はしていませんが、、、

これからお話する菅生事件も日本の警察の自作自演テロです。
国家権力ここまでやるか、、、、


大分県直入郡菅生村、昭和27年のその頃村の戸数は320あまり
1600人余りが暮らしていました。
その頃はまだ8件に1件は電気も通っていない寒村でした。

そこにある日一人の男がやってきました。
市木春秋と名乗った30くらいの若い男でした。
その男はいつもカーキ色の外套にツバの長い帽子をかぶっていました。
なぜかあまり顔を人に見られるのを避けているかのように。

男は国道沿いにある松井酒店と書かれた店に入って行きました。
「市木春秋ですお世話になります」
男はそう言って店主の松井波津生にあいさつをしました。

松井波津生は38歳村一番の実力者です。
松井は酒店のほかに、製材所も始めていて農業組合長も村議会議長も兼ねていました。
翌日松井は従業員たちを集めて、市木を紹介しました。
「こん人は市木という、うちん親戚もんじゃ。」

市木は製材所の会計係に就くが、他の従業員とはまったく待遇が違った。
三食のもてなしを受け、松井家の一番広い奥座敷に寝起きしていた。
仕事もたいしてしているようにはみえない。

外出も自由気ままでまさに客人扱いそのもの。
その市木が後藤秀生と知り合ったのは、3月20日のことでした。
秀生と後藤守の二人が「松井製作所の労働者のみなさん」と大声で呼びながら
ビラを配っていると市木が近づいてきたのだ。

「地主らによる不法な分配を許すな」
「農民組合と共に闘おう」
と書かれたビラを市木もいっしょに配ってくれた。

そして市木はこう言った
「私は福岡の二日市の出身で大牟田の三井染料で働いていました。
 が二年前レッドパージをくらって、知り合いの松井さんを頼ってきたんです」

レッドパージとは1950年6月GHQのマッカーサーによって、共産党員と
そのシンパが公職から追放されたのです。
だから市木は共産党員かそのシンパということになる。

菅生村では後藤秀生の名は知れ渡っていました。
その秀生が菅生村に住むようになったのは、1951年の夏からです。
つまり昨年から。

菅生村というのは、大分県内でもっとも農地改革が遅れた地域でした。
大分市内に住む不在地主や一部の土地持ちが、農業委員と結託して規定以上の
広い土地を収奪していました。

未開墾の用地を農民に平等に分配する農地改革とはほど遠い実態がありました。
そこで立ち上がったのが後藤秀生です。
山村工作隊の活動を積極的に進めていた共産党本部や同党の委員会も
一人だった秀生のもとに次々と若い活動家を送りこんできました。

山村工作隊というのは、中国共産党が日中戦争の最中に抗日ゲリラ戦を推進していく際
農山村を拠点にして闘った方法を日本でも展開させようと、共産党が取り入れたものです。
「松井佐藤は農地を平等に分配しろ」
「地主は小作人に土地を分配しろ」

秀生は送りこまれた活動家たちや新しく結成した農民組合員たちと、意気揚揚に
シュプレヒコールをあげながら村内を練り歩き、公然と松井らを批判攻撃しました。
農民の命ともいえる土地問題だけに、菅生村の地主と小作人との対立は日増しに
先鋭化していきました。

そんななか市木と名乗る男が秀生に声をかけたのです。
「松井製作所は一日16時間も働かせるので、工場の作業員は不平不満がうっ積しています。
 なんとか労働組合ができるといいのですが、、、
 いまは表だった行動はできないですが、こっそり応援しますから」

 秀生はよきシンパがみつかったと心躍るような気持ちでいた。
 というのも山村工作隊として昨年から応援に来ていた党員たちはすでに山を下り
 他の地域に移っていて今、菅生村にいる共産党員は秀生だけだったのです。
 
「これからは松井のおやじを警戒しながら、連絡を取りたいと思います」
市木はそう言った。
秀生は連絡係として14歳の少年工藤祐次の名をあげた。

祐次は秀生がビラを配っているうちに親しくなった豆腐屋の息子だった。
「工藤くんは店で使う燃料用の薪を朝晩二回松井製作所に買いにいくので、
 なにか用事があれば彼にメモを渡しちください」

そして秀生はさらに連絡先として、運動になにかと理解を示してくれる
小学校の校長で村長もしたことのある菅 耕の名をあげた。
菅と工藤家とは親戚同士で息子の忠愛と祐次とは仲がよかった。


二月ごろからこの村で普段みかけない行商人や作業員の姿が目立つようになる。
そんななか市木が秀生に急接近するようになる。
「私も運動について勉強したい入党するにはどういった手続きをとればいいでしょうか」

それから一週間後、祐次が秀生のもとに封筒を持ってきた。
なかには市木の入党申込書が入っていた。
秀生は説明した。
「誰でもすぐに入れるっちゅうわけじゃないんじゃ。
 まず三か月以上いっしょに活動した同志の推薦が必要なんじゃ」

その直後本部の委員長の都留忠久が訪ねてきて、九住阿蘇地区二万町歩を接収して
実弾演習地として使用すると駐留米軍のパーソル大佐が発表したと告げ
これに抗議して軍事基地反対大会を開くという。

秀生は市木を都留に紹介するいい機会だと思い連絡を取ったが、市木は姿をみせない。
入党を急ぐ男に都留は不信感を抱いた。

しばらくして秀生のもとに市木がウィスキーをぶら下げてやつてきた。
差し入れだというが秀生は飲めない体質だった。
「市木さん酒は党員には厳禁じゃ。
 その金があったらほかのものをカンパしちくるるほうがいいがなぁ」

そして壁新聞用の模造紙やポスター用の西洋紙、赤のポスターカラーなどを要求した。
市木は素直に今度竹田に行ったときに買ってくると言った。
それから間もなく、市木から手紙が届きそこには
「明後日、6月2日午前零時菅生中学西側の便所のところにきてください。
 約束の用紙とポスターカラーを渡します」
と書かれてあった。


後藤秀生は坂本久夫と一緒に約束の場所に向かいます。
そしてそこで天地がひっくり返るほどの事件にまきこまれるのです。

坂上遼著 消えた警官より