思想弾圧としての共謀罪・・・既に蔓延している偏見を利用して | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 共謀罪については、「何もしていなくても相談だけで(何かを準備と過去つければ)犯罪とできる」という点が問題とされています。それは、これにより、警察権力が、極めて広範に逮捕・監禁(勾留)・ガサ入れ等の暴力を私たちに合法的にできるようになるわけです。

 

 共謀罪につき、もう一つ取りざたされているのに「かつての治安維持法のように一般の人にまで濫用される危険がある」というものがあります。その例として、共産主義者ではないのに「共産党再建会議」としてでっち上げられた横浜事件や、その他の治安維持法「後期」の弾圧事案について言及されることが多いと思います。

 

 私は、その横浜事件国賠の弁護団長ですが、そのことを強調されることに違和感をずっと感じています。

 

 あたかも「共産主義者であったならば弾圧されてもしかたない」みたいな。

 

 治安維持法は、どんどん拡大適用されていったのは歴史的事実ですが、そもそも、当初の第1条から「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者」を弾圧することを目的とした本質的に・最初から・思想弾圧立法だったということです。反国体思想や共産主義を取り締まるための法律だったということです。

 

 今般の「テロ等準備罪」が、さすがに共産主義者や反体制者を名指しにしないものの「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団」というレッテルの定義を取り締まり側が、いかようにでも出来る以上、本質は変わりません。

 

 既に「中核派」「革マル派」などに対する弾圧は始まっています。あたかも「組織的犯罪集団」であるかのように。しかし、「中核派」等が「組織的犯罪集団」であるという立証は、少なくとも21世紀の現在、裁判上、全く見当たりません。

 共産主義や革命思想に対する世間に蔓延している偏見、つまり無知を利用して弾圧を開始するという構造は、100年前とほぼ一緒です。私たちの中の思想差別、偏見こそ、まず、克服する必要があります。

 

 何故、3度も廃案になった法律を政府は欲しいのか。それは、政府にとってどうしても必要だからでしょう。そして、その理由は、抑えきれないほどの不満と怒りが世界に、つまり私たちの側に充満しているのを政府こそが知っているからです。そして、その怒りや不満が、フランスや韓国やブラジルなどで見られるゼネストを通じて革命思想に結びつくことを恐れているのでしょう。

 

 思想とは本質的に自由であり、ブルジョア(資本主義)憲法としての性質を持つ日本国憲法でも思想は、留保なしにフリーハンドに自由とされています。共産主義や革命思想は除く、とはされていません。

 

 にもかかわらず、共産主義・革命思想は、未だ、思想としては自由には扱われておらず、アンタッチャブルな危険思想として偏見を持たれています。

 

 建前であっても、憲法や自由を、そして思想や表現の自由を大事にする、というのであれば、まず、自らの偏見を見つめる必要があると思います。この偏見こそ政府が逆手に取り、利用し、ナショナリズムに包摂してしまうためのテコであり、「手段」であるということです。

 

 国家暴力により弾圧されてもいい思想がある、という発想に未来はないでしょう。すべては、大衆的な知識の拡がりと議論により歴史的に止揚されていくものと私は思います。一時的な支配層の拡張した暴力・洗脳装置の利用により抑え込まれることを峻拒し、主体的に乗り越える契機として、共謀罪を廃案に追い込みましょう!