黙秘という武器 黙秘権というウソ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 取調べに際しては、黙秘権が告知されます。私は、弁護人として無実・無罪を争う事件を受任した場合は、公安事件は当然のこととして一般事件でも黙秘を弁護人として方針とします。
 「え~、黙秘ってなんか後ろめたい、みたいじゃないですかあ?なんか言えないことがあるみたいで」と、さる「時の人」である被疑者に言われたことがあります。たぶん、これが一般的な「黙秘」という発想のイメージでしょう。

 黙秘というのは、一つの姿勢であり、それは、権力に対する徹底的な懐疑からなりたつ思想・姿勢です。黙秘は後ろめたい、という「健全な」発想は、やはり権力によるキャンペーンというか洗脳のなせるワザだと思いますが、「話せば権力にもわかってもらえる」という、いわば「甘い」「善意」の発想につけ込んで、黙秘は特殊なこと、後ろめたいこと、弁護士にたらしこまれたコスイこと、という発想が蔓延しているのだと思います。

 そのパブリックな存在であった「時の被疑者」には、取調べの翌日に記者会見を設定することにより、「権力には黙秘、大衆にはオープン」、ということにし、黙秘を貫いてもらいました。
 ちなみに、この事件は地方の事件でしたが、検察官が様々な配慮から東京の私の事務所に事務官と共に来て、私の事務所で取調べ、という設定になりました。私は、事前に検察官に「黙秘権は告知しますよ」と伝えておきました。しかし、事務所に来て、事務官のパソコンの電源を借りたいという検察官に対し「もちろん、どうぞ。但し黙秘だから調書は取れませんよ」と伝えると「ええ~っ」という反応。本当に黙秘されるとは思っていなかったようです。結局、弁護人である私から、検事に対し黙秘の意義を説いて、取調べは終了。そのまま、お引き取り願い、結局、不起訴。

 黙秘というのは「わかる=無実なら無罪放免にする」なんてつもりサラサラない、自白強要だけを考えている警察・検察に対する最も有効な対抗手段なのです。ここの確信を持つことが肝(きも)です。警察・検察は真実の犯人を取り締まるのが仕事なのではなく、一度、被疑者と決めた人を犯人にするのが仕事なのです。

 そして、黙秘「権」というのは、現実的には、「絵に描いた餅」です。権利というのなら「私は黙秘権を行使します」と言えば、それで取調べも尋問も終了。そういう扱いを国家権力にされることを「権利」というのだと思いますが、現実は全く異なります。
 取調べの警察官や検察官は「お前の妹の就職が大変だぞ」「お母さんが泣いてるぞ」「お前の弁護士は過激派だぞ」「牢屋に入って反省してろ」「国家権力に逆らうのか」などの恫喝を「勾留」という名の監禁状態にある人に対し、繰り返すのです。こんなの「説得」ではなく「脅し」そのものです。違法であり、権力の濫用、暴力そのものです。
 警察・検察が自白を欲しがるのは、客観的証拠が不十分だからです。その不十分さを自白で補おうとするのです。「被疑者が認めているのだから証拠は揃っていないけどやったんだろう」という発想です。裁判所もそれに引きずられます。何しろ、裁判になれば99.9%有罪なのですから、裁判官は無罪には慣れていないのです。無罪には素人、ということです。

 弁護人は、出来るだけ接見をして囚われの身の被疑者と信頼関係を構築しなければなりません。黙秘は簡単なことではありません。しかし、信頼関係が築ければ可能です。もちろん、信頼関係を築くのは容易なことではなく、どれだけ確信を持って被疑者と長い時間、向かい合うことが出来るか、ということにかかっていると思います。

 そういう意味では、警察官・検察官の「説得」という名の暴力的恫喝vs弁護人の接見による信頼関係の構築という力技の勝負が、黙秘を巡って為されるのです。

 刑事弁護人の経験から言えば、「権力に対しても話せばわかってくれる」という姿勢でうまくいったことは一度もありません。わかってもらったことはありません。話して思い通りの調書が作成されたこともありません。

 黙秘は、最高の「武器」です。無罪・無実なら権力に何も言う必要はないのです。黙秘権を貫かせるのは弁護人の仕事です。