高木貞治における「かけ算の順序」 | メタメタの日

 かけ算の式の順序をめぐる議論は,朝日新聞が記事にした1972年から数えても40年を越えていますが,戦前にはこれは問題にはならなかった。かけ算では別のことが問題になっていたからです。それは,半九九と総九九の問題であり,九九の口誦と式の読み方の問題でした。(拙著『かけ算には順序があるのか』第2章「九九の来た道」)
 国定教科書が,江戸時代以来の半九九を総九九に切り替えたのは大正14年(1925年)ですが,そのとき,たとえば2×3=6の式は九九では「三二が六」と逆に読むことを,文部省は小学校の先生に指示しました。「かけ算の式は被乗数が先だが,九九は乗数が先だ」と解釈したためですが,反対意見が噴出し,昭和11年(1936年)の教科書(有名な「緑表紙」です)からは,現在のように,2×3=6は「二三が六」と読むようになりました。こんな問題があったので,式の順序は問題にならなかったのです。

 今回「天むす名古屋」さんの発言
https://twitter.com/temmusu_n/status/668450721629474816
に刺激されて,私も「かけ順」の発生を戦前にさかのぼって調べてみました。
 近代日本の数学教育の礎石は,幾何については,帝国大学の1人目の教授・菊池大麓によって敷かれ,代数・算術については帝大2人目の教授にして,明治38年(1905年)から採用された国定算術教科書の実質的な編集責任者だった藤沢利喜太郎によって敷かれたわけですから,「かけ順」についても,小学校の先生たちは藤沢の言に従ったのでしょう。(その藤原も留学先のイギリスやドイツの教科書に倣ったわけですが。)
 藤沢が明治29年(1896年)に書いた『算術教科書』の「掛ケ算或ハ乗法」から抜粋します。(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826836/22 原文は旧かな,カタカナ。改行省略)

「掛け算或は乗法 
31. 7に5を掛けるということは7を5つだけ採りて加え合わせるということなり。即ち7に5を掛けたるものは 7+7+7+7+7=35 なり。(略)第一の数に第二の数を掛けるということは第一の数を第二の数が示す度数だけ採りて加え合わすという意にして,第一の数を被乗数,第二の数を乗数,被乗数に乗数を掛けて得る結果を積と称す。(略)掛け算の符号は×にして掛けると読む。例えば7×5を7掛ける5と読む。7に5を掛けたるものを7の5倍と称す。(略)
32. 被乗数と乗数とを交換するもその積は変わることなし。(略)6×4=4×6  被乗数と乗数とを交換するもその積は変わらざるが故にその積にのみ着目する場合には特に被乗数乗数という名を附し彼れ此れ区別するにも及ばぬことなり。よってかくのごとき場合においては被乗数乗数双方を因数と称す。」(『算術教科書』上,34~35頁)
「40. 掛け算の総ての場合において乗数は必ずや尋常の数即ち不名数ならざるべからず。例えば5を3円倍する或いは7円を3里だけ採るというが如きは全く意味なき言なり。これに反し被乗数は尋常の数にてもまた名数にても可なり。名数に或る数を掛けて得る積は被乗数と同名なり。名数に或る数を掛けるときに,運算の途中において便宜上被乗数と乗数とを交換するは妨げなし。(後略)」(同上書,54頁)

 「名数」「不名数」という用語が出てきましたが,藤沢は,「数に単位の名を添えたるものを名数と称す。例えば三人,馬五頭,七里はいずれも名数なり。名数と区別するの必要あるときは数を不名数と称す。」と説明しています。(同上書,1頁)
 「乗数」「被乗数」が明治時代の翻訳語であったように,名数,不名数も明治時代の翻訳語で,名数のもとの英語はconcrete number(具象数),不名数のもとの英語はabstract number(抽象数)です。
 藤沢は,かけ算の式は「被乗数×乗数=積」と書き,乗数は必ず不名数だから,被乗数が名数のときは被乗数と積の単位は同じになると書いています。現在のいわゆる「サンドイッチ方式」の源はこれでしょう。
 また,かけ算の式の順序は,「被乗数×乗数」であるが,交換法則が成り立つから,計算のときは被乗数と乗数を交換してもよいと書いています。式には順序があるが,計算は逆にしてもよいと言っているわけで,現在小学校でもこのような指導をしています。
 かくのごとく,かけ算の順序にこだわる教え方の原型は,ほとんど藤沢利喜太郎にあるかのようです。しかし,さすがに,蛸2匹の足の総数を,2×8の式で書くと,2本足の蛸が8匹になる,というような記述は藤沢には見つかりません。不名数の式を名数で解釈することはしないのです。

 明治時代後半から大正時代の数学の教科書・参考書は,「菊池の幾何,藤沢の代数」の時代から,「林の幾何,高木の代数」の時代に移ります。(田中伸明,上垣渉「明治後期における中等学校数学科教科書の様相」三重大学教育学部研究紀要,2015年
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/14459/1/20C17358.pdf )
 林は林鶴一,高木は高木貞治で,二人は東京帝大で藤沢に師事した同期。林は東北帝国大学の教授となるが,高木は東京帝国大学の3人目の教授になる,というより日本人として1人目の世界的数学者として有名なことは言わでもがなです。
 その高木貞治の『広算術教科書』1909年(明治42年)から引用してみましょう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826655/29 原文は旧かな,カタカナ。改行省略)

「第三章 掛け算(乗法) 21.整数を掛けること。
 例えば,一時間に十二里ずつ行く汽車は,四時間に幾里を行くべきか。12里を四度加え合わせて48里を得る。(12+12+12+12=48)かように同じ数を幾度も加え合わすることを掛ける(乗ず)といい,加え合わせらるる数を被乗数,加え合わすべき度数を乗数,加え合わせて得たる和を積という。上の例にては,十二里(被乗数)に四(乗数)を掛け積として四十八里を得たるなり。(之を十二里に四時間を掛けたりとは言うべからず)
 乗数は必ず不名数なり。積は被乗数が名数なるときは,また必ず同種の名数なり。
 或る数を幾度も加え合わせて得たる数を,この数の幾倍という。48里は12里の4倍なり。掛け算の記号は×にて,12に4を掛けたる積を12×4と書き,この積が48に等しいということを次の如く書く。  12×4=48  」(『広算術教科書』51~52頁)
「26.因数
 九九の表を見るに,4の6倍も24,また6の4倍も24なり。(略)すべて甲の数に乙の数を掛けても,または乙の数に甲の数を掛けても,積は同じことなり。※ 故にこの積を作ることを甲と乙とを掛け合わすともいい,被乗数および乗数を共に因数と名づく。積は因数の順序に関係なし。(※)被乗数が名数なるときは,その単位の名を去りて後,この法則を適用すべきこと勿論なり。」(同書,58~59頁)

 高木も藤沢と同じように述べています。しかし,高木のこの箇所をtwitterで紹介したところ,「乗数×被乗数」の順序を高木は否定していないのではないか,というコメントがありました。
 高木は「因数には順序はないが,被乗数×乗数という順序はある」と言っているように読み取れますが,明文で「被乗数×乗数の順序である」と言っていないことは確かです。調べてみたら,『広算術教科書』の5年前の明治37年(1904年)に『新式算術講義』で次のように述べていました。

「加法は組み合はせの法則(引用者註:結合法則のこと)に従ふものなるが故に,同一の数aを幾回も加へ合はせて得られるべき和は此数と加へ合すべき回数bとによりて全く定まるべし。斯の如き和を求むるはa及びbなる二つの数を与へて之より或る定まれる第三の数を得べき手続きなるが故に,之をa,bなる二数に施こせる一の算法と見做すことを得。この算法は即ち乗法にしてaは被乗数,bは乗数,求め得たる和はaのb倍或はa,bを乗したる積(a×b又はab)なり。a,bは何れも此積の因数にしてabといふ積の第一の因数は被乗数,第二のは乗数なり。」(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/827403/17 『新式算術講義』17頁。ちくま学芸文庫版26頁)

 ここで高木も明確に,かけ算の式の順序は「被乗数×乗数」と述べています。同時に,掛け算については交換法則が成り立つことも当然述べています。
「交換の法則も亦乗法に適用すべし。a,bなる二数の積は因数の順序に関係せず。即ち
   ab=ba    」(同上書20頁,ちくま学芸文庫版27~28頁)
 この交換法則の適用について,『広算術教科書』の上記「脚注(※)」で,高木はこう述べていました。
「※ 被乗数が名数なるときは,その単位の名を去りて後,この法則を適用すべきこと勿論なり。」
 この脚注をどう理解すべきか。
 国語の読解としても,数学のバックグラウンドを視野に入れても,私は次のようにしか理解できなかったのですが,それは違うというコメントがtwitterでありました。
 しかし私は,高木がこの脚注で言っていたことは,やはり次のようなことだと思うのです。
――― 被乗数が名数のとき,単位を取り去らないで交換法則を適用すると,
   12里×4=4×12里
となるが,それは,乗数は必ず不名数であることに違反するからダメだ。
 あるいは,単位を取り去らない等式としては,
 12里×4=4里×12
という式も考えられるが,「12里」と「12」,「4里」と「4」では,名数と不名数という性格の違いがあるから,順序を交換した交換法則とは考えられない。―――
 つまり,高木が脚注で言っていることは,乗法の交換法則は不名数(abstract number 抽象数)について適用すべきものであって,名数(単位のついた数)に適用してはいけない,ということだと思うのです。
 くどいけれど,繰り返して言うと以下の通りです。
「3×4」という式では,「3」も「4」も単位や助数詞が付いていない不名数だから,交換法則を適用して,「3×4=4×3」つまり,  
  不名数3×不名数4=不名数4×不名数3 
   被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3  
とすることができる。
しかし,
 「名数3×不名数4」を,「不名数4×名数3」とすることはできない。なぜなら,×の後の乗数は不名数でなければならないから。
 一方,
  名数3×不名数4=名数4×不名数3
という等式は等式としては成立するが,交換法則を適用したものではない。なぜなら,「名数3」と「不名数3」,「不名数4」と「名数3」は同じ項ではないから,左の式と右の式は,前項と後項を交換したという関係にはないから。
 
 私は,銀林浩さんが,「純粋な抽象数では交換法則が成り立つが,量のかけ算では交換法則が成り立たたない」と言っていること(『算数の本質がわかる授業②かけ算とわり算』11頁,2008年)に驚いて,かけ算の順序の問題に深入りしたのですが,すでに高木貞治が戦前に銀林浩さんと同趣旨のことを言っていたことを今回知りました。

 さらに今回調べてみて驚いたことがあります。
教科書が「藤沢の算術」から「高木の算術」の時代に移ったときの高木の教科書とは『普通教育算術教科書』明治37年(1904)です。
(前掲http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/14459/1/20C17358.pdf )
 この本は国会図書館の近代デジタルライブリーにも保存されていないのですが,その改訂版の『新式算術教科書』(明治44年)がありました。調べると,『広算術教科書』(明治37年)59頁の「脚注(※)」にあたる文章はなかったのですが,次の文章がありました。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087461/20 )
「例えば,24人に16個ずつの物を与ふるには16×24だけの物がいるべし。さて24人に1個ずつを与ふるには24個の物がいり,16回かようにするときは,24×16だけの物がいる。この例によりて,16に24を掛けても,又は24に16を掛けても,積に同じことなるを知るべし。」(『新式算術教科書』28頁)

 遠山啓のいわゆる「トランプ配り」(初出1972年)を,高木はとっくに(1911年に)指摘していたわけです。本当に烏滸がましいけれど「畏るべし高木貞治」です。
 ただ,遠山がトランプ配りを考えれば,「いくつ分の数」を「1あたり数」とすることができるとしたように,高木も乗数の数を被乗数の数にすることができるという考えであり,遠山にあっては「いくつ分×1あたり数」の順序を,高木にあっては「乗数×被乗数」の順序を積極的に認めているわけではないのは,時代の制約のせいかもしれませんが,残念です。

 さて,高木が『広算術教科書』の「脚注(※)」で言っていたと解される「乗法の交換法則は不名数について適用すべきものであって,名数については適用しない」という考えは,戦前において高木一人のものではなかった。
 例えば,寺尾寿・吉田好九郎『中学校数学教科書・算術之部』明治36年(1903年)には次のようにあります。(なお,この教科書は,「藤沢の算術」から「高木の算術」の時代を通じて,それらと採択数トップを争っていたものです。
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/14459/1/20C17358.pdf
「被乗数が名数なる場合において,計算上の便宜の為め,或は験しを行う為め,名数の名を預りおきて之を不名数と見做し,被乗数と乗数とを交換して積を求むるも差支えなし。」(『中学校数学教科書・算術之部』上巻64頁,http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1083213/40 )

 高木が「単位の名を去りて」と言っているところを,寺尾・吉田は「名数の名を預りおきて」と言っています。こちらの方が親切でしょう。「預かった物」は最後に返却することになります。答を書くときに単位を付ければよいわけです。

 戦前の日本では,乗法について次のような共通理解があったとまとめられます。(現在もこのような理解はあります。)
(1) 乗法は同数累加の簡便法である。
(2) 乗法の式の順序は「被乗数×乗数」である。
(3) 乗数は不名数(抽象数,倍数)である。
(4) 乗法の交換法則は不名数(抽象数)について成り立つ。

 この共通理解の淵源は,藤沢利喜太郎や高木貞治が留学した19世紀のヨーロッパや日本にもたらされた欧米の数学書にあります。
 共通理解の淵源やその後については,to be continued ……