(ある雑誌に書いた文章)
「先生」と慕われた文豪
「夏目漱石展」でたどるその作品と人生
東北大学に漱石文庫があるわけ
東北大学所蔵の「漱石文庫」が、初めて東京で公開されることとなった。江戸東京博物館で九月二六日から一一月一八日まで開催される「特別展 文豪・夏目漱石―そのこころとまなざし―」がそれである。
なぜ漱石文庫が東北大学にあるのかと疑問に思う人も多いだろう。
夏目漱石は東京に生まれ育った。教師になって赴いた地は、愛媛の松山中学、熊本の第五高等学校、そしてイギリス留学から戻ってからは、東京帝国大学などが思い浮かぶが、東北大学とはどういう縁があったのだろうか。
漱石が晩年の九年余を過ごし、弟子達が集った「漱石山房」(早稲田南町)は、昭和二十年三月一〇日の東京大空襲で焼失した。しかし、幸いにも、漱石山房の旧蔵書(洋書約一六五〇冊、和漢書約一二〇〇冊)、日記・ノート・試験問題・原稿等の自筆原稿、その他の関係資料は、その直前の昭和一八年から一九年にかけて、東北帝国大学(現・東北大学)附属図書館に移されていたのだった。
漱石の没後、「漱石博物館」をつくり、漱石を慕う人や研究者の供覧に資そうという計画が弟子達の間に持ち上がっていたが、戦時下で断念せざるをえなかった。そのため、当時、東北帝国大学附属図書館長の地位にあった弟子の小宮豊隆が尽力して、同館に「漱石文庫」を新設し、夏目家から寄贈を受けることになったのだった。
こうして奇跡的に東北の杜の中で戦火を逃れた漱石の蔵書三〇〇〇冊などが、今回初めて里帰りする運びとなったわけである。
世話好きな江戸っ子
夏目漱石は、ある時代ある世代の人々にとっては「人生の師」だった。(現代の若い世代にとってもその価値はあるが。)
しかし、そのあり方は、宗教的なカリスマのようなものではなかった。人生に煩悶する青年に、悟りを開いた指導者かのごとく上から啓示を与えるような態度はとらなかった。
また、周りに集る門下生たちを子分として徒党を組み、内に対しても外に対しても親分風を吹かせることもなかった。
青年たちは、漱石の作品に自分の悩みを読みとり、先達者としての漱石を「先生」と呼び、自らを弟子と称した。
一方、漱石には、青年の悩みに助言を与えるだけでなく、地に足がつかない彼らの経済的な苦境に援助の手を差し伸べる世話好きな面があった。
それは江戸っ子の気風として、地位と力がある東京在住者は、地方出身の青年(たとえば『三四郎』の主人公のような)の面倒を見るのは当然という心意気もあっただろうし、金銭面での苦労が絶えなかった自らを省みて、お互いさまという思いもあったのかもしれない。
漱石が作品の中で描き、彼自身も青年たちも突き当たっていたのは、近代化の中での個人の自我の問題だった。しかし、実生活では、少なくとも漱石と弟子達との間では、明治、大正と時代は変わっても江戸時代以来の古き良き絆が、まだ残っていたともいえる。
漱石は世に出てから死ぬまで、いや死後も、「先生」だった。学校では「夏目先生」と呼ばれ、作家になってからは「漱石先生」とも呼ばれ、弟子達の間では単に「先生」で通っていた。しかし、漱石自身は、教師として自分は不適任だという自覚を常に持っていた。
教師になった教師不適格者
後に漱石と号する夏目金之助は、慶応四年(一八六七)東京に生まれた。翌年が明治元年だから、明治の年数は漱石の満年齢と一致することになる。彼自身は明治の末年(四五年)を超えて大正五年(一九一六)まで生き、慢性的に悩まされていた胃潰瘍のため満四九歳で没した。
生家は牛込馬場下一帯の名主だったが、父五十歳、母四一歳(ともに数えで)のときのいわゆる「恥かきっ子」で、生まれるとすぐ里子に出された(兄が三人いた)。里子先も一度変わり、二度目の養子先の両親が離婚すると生家に引き取られた。漱石九歳のときのことだが、彼は自分が養子に出されていたことを知らず、実の父母を祖父母と信じていた。本当のことを教えてくれたのは下女で、本当のことを知ったことより、この下女の親切が嬉しかったと、晩年に書き記す。(『硝子戸の中』)
漱石は弟子達から「父」のように慕われたが、漱石自身には父のモデルが欠落していた。実の老父からは厄介者扱いされたわけだし、養父は、離縁した後も、漱石が留学帰りと知ると金をせびりにくるような男だった。(その経緯は『道草』に詳しい。)
明治天皇が崩御したとき、漱石が激しく衝撃を受けたことは、喪章を付けた有名な写真でも知られている。『こころ』では、主人公の「先生」を、明治天皇に殉じた乃木大将の後を追って自殺させている。漱石にとって明治天皇という存在は、欠落した具体的な父を補完する抽象的な〈父〉であったのかもしれない。
「師」として慕われた漱石には師のモデルも欠落していた。
内田樹は、『下流志向』の中で、「人の師たることのできる唯一の条件はそのひともまた誰かの弟子であったことがあるということです」と述べているが、この基準に照らすと、漱石には「人の師」になる条件が欠けていた。
二六歳で帝国大学(現・東京大学)英文科を卒業するまで、あるいはそれから後でも、正岡子規をはじめとして何人もの勝れた友人には恵まれたが、漱石に師と呼べる人がいたかとなると疑問である。学生時代には、ケーベルに哲学を学び、その人格の高さに敬服もしている。三三歳で留学したイギリスでは、シェイクスピア研究の泰斗クレイグから個人教授を受けている。漱石が「○○先生」と題する文章を残しているのは、外国籍のこの二人だけ(「ケーベル先生」「クレイグ先生」)だが、その心服のありようは、漱石の弟子達が漱石に対して示した全人格的なものとは、明らかに異なっていた。
漱石は、帝大卒業前後から高じた神経衰弱のため(失恋が原因という説もある)、円覚寺の釈宗演のもとで参禅をしている。釈宗演は明治時代を代表する禅僧であり、漱石の葬儀では導師を務めてもいるが、このとき漱石は悟りを啓くこともなく、釈を「師」と仰ぐこともなかったようだ。後に『門』の中で、この参禅体験をもとに書いた部分は、漱石自身をモデルにしているだろう。
〈彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。〉(『門』)
しかし、漱石は、自分が教師には向いていない理由は、自分が誰かに師事したことがないからだとは、分析していなかっただろう。
最初の奉職先となった高等師範学校の校長・嘉納治五郎との就職面談のやりとりを、漱石は次のように述べている。
〈そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。〉(『私の個人主義』)
このやりとりが、『坊ちゃん』の松山中学校長とのやり取りに生かされることになる。
〈教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。(中略)当時の私はまあ肴屋が菓子家へ手伝いに行ったようなものでした。〉(同前)
職業上の教師としては不適格だったが、人生の師としての漱石の資質は、作家になって花開くことになる。
作家として、師として
漱石の教師歴は次のようになる。(繰り返すが、明治の年数が漱石の満年齢となる。)
明治二五年 東京専門学校(現早稲田大学)講師。(学資補給のためのアルバイト)
明治二六年 帝国大学卒業。東京高等師範学校教師。
明治二八年 愛媛県尋常中学校(松山中学)嘱託教員。
明治二九年 熊本第五高等学校講師。
(明治三三年九月 イギリス留学に出発。三六年一月 帰国。)
明治三六年 東京帝国大学講師と第一高等学校講師を兼任。
明治三七年 明治大学講師を兼任。(家計補助のため)
明治三九年 明治大学を辞職。(『吾輩は猫である』などの創作に意欲がわき、原稿料、印税が入ってきたため)
明治四〇年 東京帝大、一高を辞職。(朝日新聞社に小説記者として入社するため)
二八年の松山中学への「都落ち」の理由は謎とされている。この時、漱石の神経衰弱は続いていた。親友の子規は、肺結核の死期を早めるかのごとく日清戦争の従軍記者として大連に向かい、漱石はその子規の故郷に「何もかも捨てる気」で赴いたわけである。
イギリス留学中も神経衰弱に悩まされ、「夏目狂セリ」の噂が日本に届いたりした。
帰国後、東京帝大で英語を教えるが、前任者はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)であり、学生達の人気はハーンにあった。一高では、予習をしてこない学生を、「勉強する気がないなら、もう教室に来なくて良い」と叱ったところ、その学生は二、三日後、華厳の滝に投身自殺をしてしまう。「万有の真相は曰く不可解」の遺書を残した藤村操である。
帝大・一高の教師としての出足は散々だったが、『マクベス』『リア王』の講義は満員の盛況となり、自宅(この頃は本郷千駄木)には、熊本五高時代に俳句を学びにきた寺田寅彦(最初の弟子といわれる)がまた遊びにくるようになっていた。
高浜虚子に勧められて「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表すると、堰を切ったように創作意欲がほとばしり、作家漱石が誕生した。「やめたきは教師、やりたきは創作」と、虚子宛の書簡に記す。
漱石の自宅には、『猫』のモデルになった友人知己だけでなく、帝大の教え子を中心とした門下生たちが出入りするようになった。あまりに多くの人が訪れ、仕事に支障が出たため、明治三九年一〇月から、毎週木曜日午後三時以降を面会日と定めた。
「木曜会」は漱石の死まで一〇年間続くことになる。メンバーは、当初は、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、野上豊一郎、松根東洋城、阿部次郎、安部能成らで、やがて、中勘助、内田百間、和辻哲郎、野上弥生子、谷川徹三、江口渙らが加わり、最晩年には芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らも加わる。錚錚たる顔ぶれである。
木曜会は、いわばサロンだった。漱石を囲んで師の御高説を拝聴するのではなく、それぞれが勝手に談論風発をした。森田草平はその雰囲気をこう記す。〈先生の作を読んで、先生の前に出ると、大抵の人が皆悪く云った。悪く云わなければ済まないような気がして悪く云うのである〉。(『夏目漱石』)
漱石は迎合されるのが嫌いだった。逆に漱石の方でも若い者をどんどん批判した。〈びしびし頭から遣られながら、やはり先生と話をしているのが一番のんびりした。これが先生の門下に多くの学生が集った最大原因であろうと思われる〉。(同前)
その雰囲気は最後まで続いた。最後の一年に木曜会に参加した芥川龍之介が、小宮豊隆らが漱石に喰ってかかることにはらはらして、「あんなに先生に議論を吹っかけても良いものでしょうか」と尋ねると、小宮はこう答えた。〈先生は僕達の喰ってかかるのを一手に引受け、はじめは軽くあしらっておき、最後に猪が兎を蹴散らすように僕達をやっつけるのが得意なんだよ、あれを享楽しているんだから、君達もどんどんやりたまえ〉。それから芥川もちょいちょい漱石に喰ってかかるようになったという。(芥川「漱石先生の話」)
異数の師弟関係である。師の器量が大きく学識が深いときに初めて可能なものだろう。弟子達は幸福だったが、師が偉大すぎることは、弟子達の大成を阻む不幸にも通じた。
弟子達への「遺言」
明治四〇年、職業作家として生きるため、朝日新聞社に入社した漱石は、二年後に「朝日文芸欄」の創設に成功すると、その編集を森田草平に任せ、小宮豊隆に補佐をさせた。二人を経済的に援助する意味もあった。この前年、草平は妻子がいながら平塚明子(後の平塚雷鳥)と心中未遂事件を起こし、社会的に抹殺されかけたが、漱石に守られ、事件の顛末を書いた小説『煤煙』を朝日に連載させてもらっていた。
しかし、二人は漱石の助言を軽視する編集をするようになった。折悪しく、漱石は『門』執筆中に伊豆修善寺で吐血し危篤状態に陥り(いわゆる「修善寺の大患」)、入院生活を余儀なくされ、二人に目が届かなくなった。その間の事情を、小宮豊隆自身がこう記す。
〈朝日文芸欄に拠って、何か天下でも取ったような気持になり、自分の周囲をさえ照らせるかどうか分からない、行燈のような智慧をもって、十分天下を照らすことができると己惚れているのを見ては、漱石は苦苦しくもあれば気の毒でもあって、できればそれを彼等に反省させ、正しい道に連れ戻してやりたいと思ったのに違いない。〉(『夏目漱石』)
漱石の思いは、設置から二年後に文芸欄を廃止するという形で表れた。文芸欄に連載された草平の「自叙伝」が朝日から不道徳と非難され、また朝日入社に際し便宜をはかってもらった池辺三山が朝日を辞職するという紛議も生じていた。漱石は、文芸欄の廃止と森田の解任を提案し受け入れられると、自らも辞表を提出した(慰留されて撤回)。
草平は、修善寺大患までは、漱石は「弟子どもの漱石」だったが、大患以後は、「天下の漱石」「奥さんの漱石」になってしまったと不平をもらしている。不肖の弟子達だった。
大患後、漱石は『彼岸過迄』『行人』『こころ』のいわゆる後期三部作、そして自伝的要素の濃い『道草』、未完に終わった『明暗』を書き継ぐ。
「木曜会」は漱石の死の直前まで続いた。数十人のメンバーが入代わり立代わり、常に十数人が出席していた。最後の木曜会で、漱石は「則天去私」について語ったという。それが弟子達への遺言になった。