戦後民主主義教育の一つの帰結 | メタメタの日

戦後民主主義教育の一つの帰結


かつて、Nifty の「塾・予備校会議室」で、何人かの講師が、小学校・中学校時代、「帰りの会」でつるし上げられ、それが嫌で、帰りの時間になると、体育館の用具室に隠れていたなどと書いているのを読んだ。

一人や二人なら本人に問題があるのではないかと思えるが、三人も四人も似た思い出を語る人がいて、私の想像を絶していたため、いったいどういうことなのかと、いろいろ尋ねてみたが、はかばかしい回答は得られなかった。

60年代生まれの人たちだから、だいたい70年代の思い出だったと思う。

私の小中学校時代は50年代から60年代にかけてで、「帰りの会」は、反省会と呼ばれていた。

日直当番の二人が、教室の前に出て、今日、いいことをした人、いいことをされた人、いいことをしたのを見た人、と順々に自己申告を求め、その後、悪いことをした人、悪いことをされた人、悪いことをしたのを見た人、とこれも順々に発言を求め、悪いことで名指された人が、反駁して、議論になったりしたこともあったが、小学校の反省会は遊び感覚で言い合いをしていたし、中学校では誰もまともに発言などしないから(中学ではなかったのかもしれない)、どんなに長くても10分足らずで終わり、後に何のしこりも残さなかったと思う。

その牧歌的な反省会が、壮絶なつるし上げの場になり、逃げ出す生徒もいた、というのは、信じられなかった。いったい何が起ったのか。


その疑問が、『滝山コミューン1974』(原武史・講談社)を読んで解けた。

62年生まれの原さんは、70年代前半に、東京郊外の滝山団地の小学校に通う。そこで、民主的教師達による「学校コミューン」づくりに巻き込まれる。班を単位とする「学級集団づくり」、係につくための「班競争」、負けた班に対する「ボロ班」「ビリ班」呼ばわり、代表児童委員会の全校をあげた選挙運動、そして「鬼のパンツ」という集団遊び・・・

指導する理論は、全生研(全国生活指導研究協議会)の集団主義教育であり、全生研のリーダーに家本芳郎がいたという。

なつかしい。家本先生は、私が通った中学の先生だった。1学年上の最多数の団塊世代の担当だったから、私は直接教わったことはなかった。しかし、当時から有名で、NHK教育テレビに出演して、学級の黒板がそのままテレビスタジオに持ち込まれて、クラス運営が紹介されたりしていた。

科学クラブの先輩が家本先生のクラスで、「いえもっちゃん」がいい、いいという話を聞かされていた。

私の学年では、隣のクラスの大学出立ての社会の先生が、家本先生に倣ったクラス運営をしていて、その自由で自主的なクラスのあり方が、荒れ放題の自分のクラスと対比してうらやましかった。1961年から63年の話である。今から思えば、大学出立ての社会の先生は、明らかに六〇年安保闘争の熱気を残していた。

このように、戦後民主主義教育は、団塊世代にとっては、プラスのイメージしかない。(いや、私にとっては、と言い直すべきかもしれない。)

その団塊世代が、60年代末、大学闘争で、戦後民主主義に異議を申し立てる。

私は、まだ、この異議申し立ての意味がよく分かっていないのだが。

戦後民主主義の理念は正しく美しいが、その実態は欺瞞に満ちている、実態を理念に合わすべきだという異議申立てだったのか? 戦後民主主義の理念自体がブルジョア民主主義であって限界がある、プロレタリア社会主義にまで徹底すべきだという異議だったのか? ノンポリから民青、過激派まで、様々なニュアンスで異議を申し立てていたのだろうが。

しかし、「帝大解体」をスローガンにした全共闘は、学校が権力装置である認識は共有していた(「帝大解体」の具体的方策などはなかっただろうが)。民主主義も、ひとつの権力であることも理解していた。しかし他の権力はもっと悪いと思っていたか、社会主義や共産主義の方がより良いと思っていたか、プロレタリア独裁は過渡的な権力として必要だと思っていたかは、別にして。


しかし、大学闘争の波が引いた後の70年代前半、滝山団地の小学校で、<学校コミューン>をつくろうとした民主的教師とPTAは、「学校が本質的に権力性をもつという教育学で自明の前提」が欠けていたと本書にある。

『学級集団づくり入門』第2版によれば、学級集団の発展には、「よりあい的段階」から、「核」と呼ばれる児童のリーダーが育つ「前期的段階」、そして学級集団の外の学校や地域にも民主的集団を築き出していく「後期的段階」という3つの発展段階があるという。

ソ連の教育論に範をとった集団主義イデオロギーは、小学生でも自我が芽生えだした早熟な子どもにとっては耐え難い。

原さんは、掲示委員として、一部リーダーによる代表児童委員会の独断的運営を批判する。すると、ある日、小会議室に呼び出されて、児童委員会の役員たち数十人の前で、「民主的集団」を攪乱してきた「罪状」の自己批判を迫られる。

正に、「帰りの会」の吊るし上げが大規模になされたわけだ。小学生の原さんは、その場を逃げ出すが、後年、この本を書くために、全生研の資料を読む中で、自らが体験したことが、「追求」として定式化されていることを知る。

「集団の名誉を傷つけ、利益をふみにじるものとして、ある対象に爆発的に集団が怒りを感ずるときがある。そういうとき、集団が自己の利益や名誉を守ろうとして対象に怒りをぶっつけ、相手の自己批判、自己変革を要求して対象に激しく迫ること――これをわたしたちは「追求」と呼んで、実践的には非常に重視しているのである。」

この記述がある『学級集団づくり』第2版は71年に出た。翌72年には、同志の自己批判、自己変革を援助するため、暴力を行使して死に至らしめた連合赤軍の「総括」が明らかになる。同じ思想が通底していた。さすがに、『学級集団づくり』第2版は絶版となり、現在は新版が出ているという。

しかし、そういう時代だった。現実の社会主義はマイナス面が明らかになってはいたが、理想としての社会主義はまだ力を持っていた。みずからの権力性を自覚しない民主的教師たちによる<学級コミューン>づくりは、ディストピアをもたらした。戦後民主主義教育が、ここまで至ってしまったのか、という残念な思いが残る。