道元没後、永平寺僧団の分裂 | メタメタの日

道元没後、永平寺僧団の分裂

――「三代相論」とは何か


 建長五年(一二五三)八月五日、病が重くなった道元は、療養のため、越前の永平寺から京に向かった。

 「国王の宣命を蒙るといえども、また誓って当山を出でず」と、二度と永平寺を離れないことを誓っていたにも関わらずに、である。

 死を前にして、道元もまた生に執着したのだろうか。

 いや、自分の生に執着したのではなかった。仏法継承への執着だった。後継者問題が完全には解決していなかったのだ。

しかし、京に着いて半月も経たないうちに道元は寂し、後継者問題が残った。


 道元の「継承問題」とは


 道元にとって、師から弟子への継承、すなわち「師資相承」は、仏法の根幹に関わる大問題だった。

道元は『正法眼蔵』の「嗣書」の巻にこう記している。――「仏仏かならず仏仏に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、(略)仏にあらざれば仏を印証するにあたはず。仏の印証をえざれば、仏となることなし。」

 つまり、仏法は、仏法を悟った師からしか伝わらないと言っている。その師が仏法を悟った正しい師であるか否かは、その師の師をみなければならない。こうして、師の師、そのまた師とさかのぼって釈迦牟尼仏に至れば、その師資相承は正しかったことになる。

その証拠は、釈迦牟尼からの系譜を記した「嗣書」にある。

道元は、宋で師の天童如浄から「嗣書」を相承している。その嗣書には、釈迦から如浄を経て道元に至る五二名の祖師の名前が記されている。その形式は、五二名の名前が釈迦牟尼を取り囲む円形に記され、名前を貫いて繋がる一本の線が代々の師資関係を示している。この一本の線で示された法脈を、道元は次の者へと繋げなければならない。それが、沙門道元のミッション(使命)であり、レーゾン・デトール(存在理由)であった。

たしかに道元は懐弉(えじょう)に嗣法はしていた。『正法眼蔵随聞記』の著者として知られる懐弉は、信頼できる弟子ではあったが、道元より二歳年長だった。若い世代に嗣法する者が出てこなければいけない。

「一箇半箇」ということばが、道元にある。一人がだめなら半人にでも、という嗣法への思いが表れている。

その期待は、弟子の義介(ぎかい)にかかっていた。しかし、義介には問題があり、まだ嗣法にまで至っていなかった。今死ぬわけにはいかない……病の道元を京に向かわせたのは、「継承問題」だったのである。


道元の僧団が形成されるまで


道元は、正治二年(一二〇〇)、京都の貴族の家に生まれた。早くに父母を亡くし、十二歳のとき、世の「無常」を思い、比叡山の縁者を訪ねて、出家した。当時の比叡山延暦寺では、「本覚思想」(人は本来悟っている)が全盛だったが、「それなら、なぜ人は修行するのか」という道元の疑問に答えてはくれなかった。

中国から臨済宗を伝えた栄西にこの疑問を質した道元は、栄西没後、比叡山を下りて、東山の建仁寺で、栄西の弟子・明全に師事した(十七歳)。

二三歳のとき、師の明全や他の弟子達と共に宋に渡った。「正師」を求めて各地を巡歴した後、天童山で如淨に師事し、二五歳の年の夏安居の際、悟達した。その後も「証上の修」(悟った上の修行)を続け、二年後、帰国。帰国に際し、如淨から「嗣書」を相承した。

帰国後は、宋で没した明全の舎利を建仁寺に埋葬し、同寺の草庵に三年ほど留まった後、山城の深草に閑居する。建仁寺を去って「閑居」した理由は、建仁寺の頽廃ぶりへの失望と、新しい仏教を伝えた道元に対する比叡山からの迫害があったからと推測されている。

しかし、三三歳のとき、深草に興聖寺を開き、以後二十年間にわたる弘法活動を本格的に開始した。このとき、かつて建仁寺の草庵を訪れ、道元に信服していた懐弉が入門してくる。その七年後には、懐弉が属していた日本達磨宗の僧が集団入門した。達磨宗三祖の懐鑒(えかん)とその弟子の義介(ぎかい)義伊(ぎいん)、義演、義準らで、彼らが、道元滅後の「三代相論」に関わることになる。

日本達磨宗とは、栄西が宋から臨済宗を伝える以前に、比叡山の学僧・大日房能忍が一人で独自に始めた日本最初の禅宗である。開宗後に弟子を宋に派遣し、臨済宗大慧派のお墨付きを得て、人気を博していた。しかし、比叡山や興福寺などの旧勢力からの弾圧を受け、能忍死去(殺害説もある)後は、本拠だった大和(とう)武峰(のみね)の寺も焼討ちされ、越前の波著寺(はじゃくじ)に移っていた。その達磨宗の数十名とも言われる僧全員が、越前から上洛してきて、道元の門に入ったのである。

しかし、その二年後、道元の僧団は、逆に越前に移った。理由は、比叡山の圧迫が強まったこと、道元が深山幽谷に修行の地を求めたことなどだが、その場所が越前になったのは、道元を支援する鎌倉幕府の御家人・波多野義重の知行地と、達磨宗の地盤が越前にあったことだった。

越前に移った翌年、波多野義重らの尽力で、大仏寺(二年後「永平寺」と改称)が落成する。現在の永平寺の位置よりさらに山奥にあり、規模も現存のように大きくはなかったという。

道元は、興聖寺で十年、永平寺で十年、合わせて二十年の布教を行なったことになるが、出家弟子は三百余人、在家弟子は七百余人といわれる。決して多い人数ではない。道元にとって、叢林の大小は、寺域の広狭でも僧衆の多寡でもなく、「抱道の人」の有無だった。「一箇半箇」の精神で道元の僧団は形成され、運営されていたのである。


初祖道元から二祖懐弉へ


永平寺の指導者の地位の、道元から懐弉への引継ぎはスムーズだった。道元の生前から、懐弉は法嗣として重んじられて、その任を果たしていたし、道元が京へ死出の旅に立つ一ヶ月前には、住持職を正式に懐弉に譲っている。(そして、この旅に懐弉も随伴している。)

しかし、懐弉と同じ様な資格の者は、他にもいた。僧海、詮慧、懐鑒である。

僧海は、興聖寺時代の期待の星だったが、早く二七歳で示寂していた。

詮慧も、興聖寺以来の弟子だが、道元示寂の前後に永平寺を出て、京都に永興寺を開いている。

懐鑒は、達磨宗では懐弉の兄弟子だったが、懐弉に遅れて、弟子を引き連れて道元に弟子入りをしている。そのため、永平寺僧団の中では、別格的に尊重はされても、懐弉の下風に立つことはやむをえなかった。道元の晩年には、古巣の波著寺に戻ってしまい、弟子の義介が永平寺と波著寺を往復して関係を維持していた。

懐弉と詮慧、懐鑒のケースは、同期の一人(懐弉)が指導者の位に就いたら、残りの同期は身を引く、という事例と考えられるかもしれない。


「三代相論」の経緯とその結末


懐弉についで永平寺三祖になったのは義介である。この義介をめぐる内紛と分裂が、いわゆる「三代相論」として知られている。そこには、仏法だけでは割り切れない人間模様があった。

義介は、師の懐鑒と共に二二歳のとき道元に入門した。道元より二十歳ほど下の世代にあたり、道元が期待する人材だったが、その才を驕るところがあったようだ。

道元(五三歳)は、京へ死出の旅に立つ前、義介(三四歳)を病床に呼び、遺誡を与えている。――「汝にはまだ老婆心がないが、それは年を重ねれば付いてくるだろう。今回汝に留守を任すから永平寺を自分の寺と思ってしっかり世話をしてほしい。もし自分が生きて京から戻れたら、秘蔵の事を教える。しかし、小人は嫉妬するから、他人には言うな、云々」

しかし、道元は京から戻れず、義介の「老婆心」(他人の心を思いやる心)も育たなかったようだ。

道元の義介にかける期待は、懐弉もまた共有していた。道元寂後、義介の師となった懐弉は、二年後、義介に嗣法する。自分で仏法が断絶せず、義介という法嗣を得た喜びを懐弉は語る。――「わが願い、すでに成就せり」と。

懐弉は、その後も義介に目をかけ、永平寺の内外を整備するために、日本国内や宋の禅林の調査を、義介に依頼する。こうして、義介は四年間宋に渡ることになる。

懐弉は、道元寂から十四年間、永平寺住持位を無事に務めたが、病と高齢(六九歳)のために退き、四八歳の義介が三代位に就いた。

義介は、外には堂塔伽藍を一新し、内には密教的行持を取り入れ、永平寺の改革をはかろうとしたが、道元の教えを教条的に守る保守派の抵抗で、わずか五年で退位し、永平寺山麓に母と隠栖する事態となった。(これが「第一次三代相論」といわれる)

そのため、老齢の懐弉が病身を押して、再び寺務を執った。懐弉は、義介を庇い、僧団の融和に努めたが、八年後、八二歳で示寂した。このとき懐弉は、道元寂後二七年間、片時も離さなかった道元手縫いの袈裟を義介に授けた。

懐弉の遺命で、義介が再び七年間、寺務を執った。しかし、義介派と反義介派の争いに敗れ、義介は永平寺から放逐され、義演が四代位に就任した。(「第二次三代相論」)

義演もまた、達磨宗から集団入門した一人で、義介の弟弟子にあたる。(年齢は義介よりと上という説がある。)また、義演は、懐弉の伝戒の弟子ではあるが、嗣法の弟子ではないという弱みがあった。一方、義演派から言わせれば、義介は、懐弉の嗣法を受けるより前に、懐鑒から達磨宗の嗣法を受けており、道元の師資相承の流れとしては不純ではないかということになる。

義介放逐という事態を憂えた波多野時光(義重の子)の仲介で、義介は一度は永平寺に戻ったが、義演派の勢力下にある永平寺に見切りをつけ、七三歳のとき、加賀の大乗寺に移る。以後、義介は、九十歳で亡くなるまで、密教の要素も取り入れて、大乗寺を大叢林に育て上げた。

一方、波多野氏らの檀那衆からも見離されて、永平寺は衰退した。力不足を自覚した義演が退位した後は、住職もおけない状態が続いた。

その後、義介、義演の遺弟たちが、永平寺に「三代位」の位牌を納めるにあたり、どちらにするかを争い、鎌倉幕府に訴えても埒があかず、宝慶寺寂円(道元を慕って宋から渡来し、懐弉の弟子となった人)が「第三世」だったことにして決着をみた。(「第三次三代相論」)

こうして、「三代相論」の結果、道元僧団は分裂した。大乗寺の義介の系譜からは瑩山(けいざん)紹瑾(じょうきん)()(ざん)韶碩(じょうせき)が出て、中世における曹洞宗の教団として大発展したが、永平寺側は、宝慶寺二世義運が永平寺五世を兼任して、荒廃した伽藍の復興に尽力したものの、中世を通じて衰退したままだった。

かくして、道元が遺誡で憂えた継承問題は、長く尾を引いたのであった。