今ここでできること | 不完全なままで完全である

不完全なままで完全である

◇サイキックです、心のことのおたくです、保育士もやってます◇

3月11日は震災があった日だけど、私にとっての3月11日は5年半一緒に暮らした愛犬フレの命日。毎年同じことをブログに書いている気がする。


先日、東京に住む友達に久しぶりに会った。そして、その友達と奥さんが話していた。「大切な人を失った悲しみは、きっとずっと完全には癒えない。」って。


癒されることのない思いがある。そう言い切ってしまうと、どこかしら絶望的に感じられるかも知れない。でも、それでいいのだと思う。完全に癒されない思いがあってもいいのだと。


私も、両親のことについても、フレのことについても、まだまだ癒されてはいない。でも、ずっと長い間「癒さなくてはいけない」と思って来た。そして、それが辛かった。


悲しみがあるからと言って、喜びを感じられない訳ではない、嬉しい気持ちを表現出来ない訳ではない。どんな感情も、自分の中に芽生えたものはとてもとても愛おしい自分の一部。それを大切にすることは、まるごとの自分を大切にするということになるのだと思う。


震災から3年、フレがあの世へ行ってから5年。私には何が出来たかなと、弱弱しく思う。誰かのために何かをしようと思えば思う程、「誰のために?」というところで頭打ちをしてきた。「誰々のために!」と情熱を持って言える人たちを羨ましく思って来た。自分には出来ないことを出来る人たちと比べて、自分に対して悲しい気持ちしか向けていなかった。


これではいけない。自分を大切にするどころか、優しくするどころか、その反対を続けて来たのだから。


誰かのため。

本当は、一番誰のためになることが必要なのだろう?と思った時、一番大切な人を一番後回しにしていることに気付く。それは、自分自身だ。自分自身を大切にしなくて、誰を幸せに出来るというのだろう。自分以外の誰かを幸せにしたいと思っても、そう願う自分自身が幸せを感じてないなんてあり得ないことじゃないか。


今のこの気持ち。今のこの思い。自分の中にある気持ちを素直に感じるところから、幸せは始まる。そして、それが人へと伝わっていく。だから、小さいことかもしれないけど、毎日を丁寧に暮らすということは本当に大切なことだろう。


当たり前のように始まる一日、当たり前のように終わる一日。このひとときを大切にして、そしてありがたく過ごすことの積み重ねが、きっと大きな力に結びついてゆくのだと思っている。


★今日もブログにお越し頂きありがとうございました★