* 今日の記事も長いけど読んでね *
あれから1年経った
パリで出会った黒い犬フレは
わたしがパリで出会った犬だった
友達の友達Mちゃんが飼っていた犬
黒くてカワイイプードル
そのプードルとパリ・マレ地区のカフェで初めて会った
わたしが「かわいい」って振り向いたら
その黒い犬もわたしを見た
その後 再びMちゃんに会った時にわたしは言った
「その犬はどこで出会ったの?わたしも犬欲しいな」
そしたら何とMちゃん
「ちょうどこの子の飼い主を探しているの!」
Mちゃんは日本に帰国するにあたり
事情があって連れて帰れないMちゃんの犬を
引き継いで飼ってくれるひとを探していたのだ
そしてやってきたのが フレ 当時既に10歳
老犬のフレを日本に連れて帰るか否か
これでわたしは随分悩んだ
フレの為にパリに居続けよう!
そう思ったこともあったけど
「それって フレが死ぬのを待ってるってこと?」
「本当はもう日本に帰りたいと思っているんでしょう?」
もうひとりのわたしの声を聞いた時に
誰かのためにはやめよう!
それは今のわたしには無理
だったら ちゃんと自分のために生きるんだ!!
と日本帰国を決意したのだ
そして去年の3月9日
わたしは日本に帰ってきた もちろんフレと一緒に
しかし
3月11日午前2時前
フレは発作で死んでしまった
一瞬の苦しみの中
わたしの腕の中で静かに息を引き取った
その後もう一つのブログでフレの死を報告
たくさんの励ましのコメントを頂戴した
しかしその中で
「 フレを連れて帰ってきたのは あなたのエゴです 」
というメッセージがあった
正直なところ
これにはショックだった
もちろん自分でも自分を責めていたので
だけどその時に思ったんだ
「 死ぬことは本当に悲しみだけなのだろうか? 」
死ぬことが悲しいのかどうか?
これを判断しているのは生きている人間であって
死んでしまった命ではない
それを一方的に
「悲しい」とか「悲劇」とか
そんな風に決めつけることこそ人間のエゴではないか
そして
死んでしまった命を 「悲しい」 だけに捉えると
亡くなった命はどう尊重されてゆくのだろうか
わたしはこれまで
両親の死 愛犬の死 20代で旅だった友の死
たくさんの死に直面してきてた
だれもみな
生まれてきて生きたこと
どんな短い人生であろうとも
そこまで生ききったという栄誉を
もっともっと称えられて旅立つ必要がある
今まで考えもしなかったこのことを教えてくれたのは
パリで出会った黒い犬のフレであり
厳しいコメントを頂いた見知らぬ方だ
最近特に思う
人間てよい状況だと思っている時よりも
悲しい時
辛い時
人から嫌なことを言われた時
上手く事が運ばない時
そんな
ネガティブな時こそ
すっごく大きな気付きがある
そう思うと
パワーダウンしている運気があることがツキの証拠
何も怖がることはないんだよね
★ 人の死に関しては前にも同じようなことを記事にしています→ 有名人の死