死にゆくいのちに拍手を贈る | 不完全なままで完全である

不完全なままで完全である

◇サイキックです、心のことのおたくです、保育士もやってます◇


夜の空にも虹はかかる

 * 今日の記事も長いけど読んでね *




あれから1年経った





パリで出会った黒い犬フレは


わたしがパリで出会った犬だった



友達の友達Mちゃんが飼っていた犬



黒くてカワイイプードル




そのプードルとパリ・マレ地区のカフェで初めて会った


わたしが「かわいい」って振り向いたら



その黒い犬もわたしを見た





その後 再びMちゃんに会った時にわたしは言った


「その犬はどこで出会ったの?わたしも犬欲しいな」


そしたら何とMちゃん


「ちょうどこの子の飼い主を探しているの!」


Mちゃんは日本に帰国するにあたり


事情があって連れて帰れないMちゃんの犬を


引き継いで飼ってくれるひとを探していたのだ





そしてやってきたのが フレ 当時既に10歳




老犬のフレを日本に連れて帰るか否か


これでわたしは随分悩んだ



フレの為にパリに居続けよう!


そう思ったこともあったけど



「それって フレが死ぬのを待ってるってこと?」


「本当はもう日本に帰りたいと思っているんでしょう?」




もうひとりのわたしの声を聞いた時に




誰かのためにはやめよう!


それは今のわたしには無理


だったら ちゃんと自分のために生きるんだ!!




と日本帰国を決意したのだ





そして去年の3月9日


わたしは日本に帰ってきた もちろんフレと一緒に




しかし




3月11日午前2時前



フレは発作で死んでしまった



一瞬の苦しみの中


わたしの腕の中で静かに息を引き取った





その後もう一つのブログでフレの死を報告



たくさんの励ましのコメントを頂戴した


しかしその中で



「 フレを連れて帰ってきたのは あなたのエゴです 」


というメッセージがあった





正直なところ


これにはショックだった


もちろん自分でも自分を責めていたので




だけどその時に思ったんだ




「 死ぬことは本当に悲しみだけなのだろうか? 」




死ぬことが悲しいのかどうか?


これを判断しているのは生きている人間であって


死んでしまった命ではない




それを一方的に



「悲しい」とか「悲劇」とか


そんな風に決めつけることこそ人間のエゴではないか





そして


死んでしまった命を 「悲しい」 だけに捉えると




亡くなった命はどう尊重されてゆくのだろうか




わたしはこれまで


両親の死 愛犬の死 20代で旅だった友の死



たくさんの死に直面してきてた




だれもみな




生まれてきて生きたこと




どんな短い人生であろうとも


そこまで生ききったという栄誉を




もっともっと称えられて旅立つ必要がある





今まで考えもしなかったこのことを教えてくれたのは



パリで出会った黒い犬のフレであり


厳しいコメントを頂いた見知らぬ方だ




最近特に思う



人間てよい状況だと思っている時よりも



悲しい時 


辛い時


人から嫌なことを言われた時


上手く事が運ばない時




そんな




ネガティブな時こそ



すっごく大きな気付きがある




そう思うと



パワーダウンしている運気があることがツキの証拠




何も怖がることはないんだよね




★ 人の死に関しては前にも同じようなことを記事にしています→ 有名人の死