新自由主義のもとでの司法とは | 肉団子閑居為不善

新自由主義のもとでの司法とは

la_causetteの小倉さんが新エントリー「新自由主義者に高く評価される司法とは」を投稿した。

要約すれば、弱者の足下をみるように高利貸しが貸し付けたお金を取り立てる手助けをする、ヤクザの用心棒のような司法が新自由主義者の望む司法だろうという話なのだが、ちょっと比喩の設定の仕方に問題がある。

そもそも出資法と利息制限法というダブルスタンダードを放置し、利息制限法を実質的に死に法にしていた行政の怠慢と、そういう隙をついて高利で貸す貸金業者の悪知恵が生じた害を、自由市場主義と結びつける事自体、無理がある。

さらに、個人が借金地獄に陥れば破産というセーフティーネットが張られているのに、それだけでは満足せずに貸金業者から利息制限法の上限金利を超える部分を返還させることで、まともな貸金業を経営危機に陥れ、消費者金融という分野が縮小する結果となった。

ミクロの正義をあまりふりかざすと、他の部分との整合性がとれなくなり、大きな社会の仕組み自体がおかしくなってしまうことになる。

例えば池田先生が「思考停止社会」というエントリーで指摘していることは、村上ファンド事件のような裁判で、インサイダーというルール違反を裁くのではなく、市場経済そのものを裁くかのような判決を出す司法の発想のずれであって、その判決を出すことにどのような社会的意義があって、今後どのような影響を社会全体に与えるのかという想像力が法曹に決定的に欠如していることだ。

そういう深い問いかけをしているのに、仮にも法律の専門家が大げさで的外れな比喩をすることで逃げてしまうというのはいかがなものだろうか。