桜尾城の築城時期は定かではありませんが、鎌倉時代に源頼朝の弟・範頼の子孫である吉見氏によって築かれたそうです。以降、厳島神社や佐伯郡一帯の神領を治めていた厳島神主家や毛利元就の家臣・桂元澄、同じく元就の四男・毛利元清(穂井田元清)などが居城し、関ケ原の合戦により毛利輝元が周防・長門に減封された後に廃城となりました。
「日本城郭体系13」によると、本丸、二郭、三郭の3つの郭で構成され、標高31mの最高所が本丸(東西30m×南北25m)で、その南東下に二郭(東西15m×南北10m)が続き、そこから東西方向に幅1m程度の犬走りを設け、その西端に三郭(東西15m×南北10m)があったそうです。当時、城の南東方向には海が入り込み、その反対の南西方向には旧西国街道(山陽道)から三郭に通じる大手道があったとのことです。
しかしながら、昭和42年頃から埋め立て用の土砂として削平され、城の遺構は全て破壊されてしまいました・・・。現在は「桂公園」として整備され、桜の名所として市民の憩いの場となっています。
公園の入り口に桜尾城址と刻まれた石碑と案内板が設置されています。
案内板には、
「当城の地は鎌倉より厳島社家たりし藤原氏の拠る所にして、厳島神領の中心なり。城は直ちに海に臨みて内湾を振し、東に岩戸尾、西に藤掛尾など七尾の諸城を従え、誠に要害の地なり。下りて、戦国の世、神領は東に武田、西に大内の狭間にあり。天文十年、藤原興藤、戦に敗れて城に火をかけ、三百年の神主家ここに滅ぶ。のち大内、陶、毛利と相ついで城番を置くも、毛利の移封と共に廃城と化す。この間、折敷畑、厳島の合戦には毛利氏の拠点として世に知られしも、時移り山容改まり、往年の城姿を失う。(廿日市町教育委員会)」
とあります。
この「七尾の諸城」とは、桜尾城とその周辺の尾根沿いに築かれていた篠尾城、岩戸尾城、谷宗尾城、藤掛尾城、越峠尾城、宗高尾城の七つの城を指しています。
では、行ってみましょう。
きれいな公園になっています。
公園内には、「桂公園碑」と書かれた立派な石碑が建っています。
桂公園は、大正元年(1913年)、かつての城主・桂元澄の子孫である桂太郎(山口県出身で、元内閣総理大臣)が桜尾城跡を永久的に保存するために廿日市市に寄贈したことから、この名がつけられたとのことです。
残念ながら、それから約50年後に桜尾城跡は破壊されてしまいました・・・。
公園の東側には大手道と思われる道があり、旧西国街道につながっています。
一旦、下ってみました。これは旧西国街道から大手道への入り口。
右へ折れています。この左手には、大内氏の氏神である氷上山興隆寺妙見社を分祀した妙見社がありました。
当時、この大手道は三郭に通じていたそうです。
この桜尾城、山口県新南陽市(現周南市)出身の私としては、厳島合戦で毛利元就に敗れた陶晴賢(隆房)の首実検が行われた場所ということで、一度訪れてみたかった城でした。
『桜尾城跡』
・所在地:広島県廿日市市桜尾本町
・別名:東山城跡
・現状:公園