「最後のレッスンに入るから、助けになってやってほしい。」
いきなり感じたメッセージ。
誰のものかわからない。
こういう時、ともかく流れに身をまかせる。
ただそれを、事象と結びつけず
現実世界に変換せずに。
その時の抽象度を保ったままで
そして手放す。
メッセージを感じた時、
いつも写真のようだな、と思います。
その時のことを思い出そうとしても
今の経験と感情を伴って思い出す。
だから、その時の抽象度、メッセージ性は
だんだん自我にまみれていく。
photo by あぶさん
日本人の「自分」は、「あなた」の中にある、
と、半田広宣さん。
人間が呼ぶ「私」とは、だいたい
普通は自分の後ろにあって、
背中あたりに付随しているのだけど、
でも、日本人だけは逆。
前にあるのですって!
だから私たちの会話って、主語がない。
(この動画、面白いですよ♪)
肉体のなかにいない(笑)
ものだったり、人だったり、景色だったり。
ともかく、前にいるのですって。
だから、私の写真に写っているのは、
カメラマンさん、なのですよ。
素敵な写真は、その人写す人そのものなのですね。
撮ってくれる人によって、
様々に映し出される私。
それも、うなづける。
そうそう、それで、
何が言いたいのかというと、
メッセージというのが、
しかし不思議に斜め後ろや、
視界がきれそうなきわどい横とかから来るのですよ。
(感覚的に私の場合)
半田さんのこの解説を聞いて、
私にとっての、メッセージの純度の
ひとつの基準になるかも?と思いました。
そして、これも手放す!(笑)