過去の映像からみる自身の記憶と技術 | 緑茶麻悠の頭はてなな毎日

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緑茶の疑問、好奇心を書き綴る日常ブログ

当時9歳だった私は慣れないキャンプに行ったことがある。
スイミングスクールに通っていた時に母が見つけてくれた「クラフトキャンプ」という名のスイミングコーチと生徒で山で工作をする2泊3日である。

それはきっとはじめてのキャンプだったはずだ。
最近その時のビデオをふと見てみたくなって、懐かしさに溢れながらテープを巻き戻しするところから始めてみる。

一番最初まで戻って、見始めると、京都駅で皆さんに「どうぞよろしくお願いします。」と笑顔で話す若い母の映像があった。
私は少し不安そうな顔でみんなやコーチの自己紹介を聞いている。ここではコーチをリーダーと呼び、それぞれにあだながあった。友達はマユミ、ミホ、エミの3人。
その3人を見て一気に記憶が蘇る。

その時、ほぼ初めましてだった気もするが、時間が経つにつれて私は人一倍喋る子になっていった。
中でも私達子供はビデオカメラに興味を示していて、何人かが交代で撮影を行っていた。
映像はブレブレだが、その映像は私自身の記憶の中にある映像とリンクしていった。
私が映像の中で一番多く喋った言葉は「赤いのがついてへんから撮れてへんのちゃう?」
という発言だった。赤いの、は録画をしていると光ることを指している。でも、それらはしっかり撮れていて、その時撮影していたマユミちゃんに「うるさいからだまってて。」と最後は怒られているのだった。

そのキャンプの内容はわりとみっちりと工作をしていて、木を切ってペンダントを作ったり、灯籠を作ったり、凧を作ったりする合間、プールで泳いだり、バーベキューをしたり、お茶会をしたりしていた。
お茶会はしっかりとテーブルから作り、お菓子も作る。
お菓子はフルーチェだったが、私はちゃっかりと牛乳の量を間違えているようだった。

お茶会というからにはドレスアップを、ということでみんなゴミ袋や透明なセロハンなどいろいろな日用品でドレスを作って着る。

私は白雪姫をモチーフにしたような赤いセロハンでリボンを作って髪に飾り、青のセロハンで袖の部分を作って、しっかり止まるようにサイドを黄色のセロハンでリボンにしてしばっている。
上半身は青と黄色をうまく使い、下半身はシルバーと白のゴミ袋で豪華なふわふわのドレスをちゃんとお姫様風に作れていた。
他の3人と比べて一際お姫様らしかったと思う。
今ではディズニーのドレスも簡単に手に入るようになったが、当時は無く、子供ながら憧れというものがあったように感じた。

とにかく平和で何とも楽しく、その時の温度や山や草やプールの匂いなどが私の頭の中の隅っこの方にまだまだ残っていることがわかり、楽しく嬉しく、過去のことだが新鮮でもあった。

ビデオも後半に差しかかり、そこであっと驚いたのは、最近使い始めたとばかりに思っていたある言葉だった。
その言葉は擬音語のようなもので、特に意味も無いが言い方によっては多種多様な意味を生み出す特殊な言葉である。あえてここでは描写しないが、それを私は9歳の時に一言だけ発言していたのだった。
なので私がここ最近新しく思いついた便利な言葉だと思っていた記憶はその一瞬で覆されたのだった。

改めて見るとやはり当時のビデオは映像も悪く、今では考えられないほどシンプルである。
たまにハレーションを起こしていて画面全体白かったりもするが。

今は肉眼でみるのとあまり変わらない撮影が可能で、技術の進歩を感じずにはいられない。

現在、過去、未来、、、、

時はどんなことがあろうと休まずに進んでゆき、常に「今」の状態が重なって行く。
昨日は何をしていたか?1年前はどうしていたか?と遡ったところで自分の記憶はあっさりと消えているものもあるが、根強く残っているものもある。

ただ録画をするという技術というのは、私は人間がすごい発明をしたと感心するくらい、忘れていたことを新しい情報として頭に入る可能性をもつ。
それは自分の見ていなかった視線や視点であり、過去のことだが、新しい情報でもあるからだ。

今では簡単にスマホで撮影も出来るようになり、写真と同じくらい手軽なものになった。
加えて、動画も美しく撮れる。4Kの美しさはすごいが、肉眼以上のものを映し出してしまう。それはどうかとも思う。

このまま技術はどこまで発展していくのだろうか?
人間が人間であるためにはその技術とどうつきあっていくかを考えたい。
それらにのまれてしまわないようにしなくてはならない。

TVやネットやそういうものを全て遮断して自然と共に暮らすか
便利なものを追求していくのか

この発想は両極端だがそれらとの係わり合いやバランスがとても大事になってくる。

自分に必要なものをクリアにするためにも情報や便利さと距離をとることも、能動的にあらゆる情報を遮断することも大事な気がしてきた。

当時9歳の私の心は、まだ今の私にもある。
あの頃のビデオのクオリティーはなんだか優しく、今となっては愛おしい。
作られたものではない「時」をそのまま残してくれていたからだ。

今の自分で見ることができて、良かった。




りょくまゆ