教育により、人は正しさを学びます。大切な学びの第一歩です。
「して良いこと」と「してはいけない事」を学びます。
こうして健全な意識の第一歩を学びます。
他人からの賞賛というご褒美にエゴはいい子でいることに満足を覚えるからです。
人の意識が外に向かい始めます。
こうして良い子になったエゴは、さらなる賞賛を求め続けます。
他人に奉仕したいという自分の動機をチェックしてみて下さい。
その動機はどこからきていますか?
そうすることが「良いこと」だと判断した結果、行動しているのではありませんか?
「それが良い事だからそうする」、そんな事は当たり前だと考えるかもしれませんが「良い事だから」と判断しているのは誰でしょう。
判断とはあなたの心が下すもの。
すなわち判断しているのはあなたの自我に他なりません。
すなわち純粋動機ではありません。
純粋動機とは「ただしたいからそうする」といったものです。
すなわちあなたの内なる源からわき上がってくる行動欲求だけが純粋動機と呼ばれます。
純粋欲求に従って行動している人に苦しみはありません。
そこに比較判断がないからです。
もちろん、良い、悪いの判断の結果、行動することが悪いと言っているわけではありません。
まず人は誰でも良いと思ったことから行動を起こしていきます。
社会の健全な常識を身につけ、立派な人と呼ばれるようになっていきます。
しかしどんな人もこれで終わるわけではありません。この先があるのです。
外へ外へと向かっていた意識が内を向く必要があります。
次には良いことだと握っていた考え方を手放すことになります。
「奉仕する」という考えを持っていなかった子供が、奉仕する事は良い事だと学び、人に奉仕できるように育っていきます。
自分が奉仕家(意識が外側を向いている人)になってくると
次には奉仕できない人を裁きはじめます。
そこに奉仕者の葛藤が生じます。
そして奉仕しても、しなくてもどちらでも良いのだとニュートラルな考え方になることによって
自分は奉仕家であり続けながら、なおかつ奉仕できない人を裁かなくなってくるわけです。
円満な人格者の誕生です。
あなたの思う「人のためにつくしたい」という思いが、つくされたいという人を引きつけます。
どちらでもいいのだと手放すことによってあなたは自由になります。
あなたの考え方が空っぽになったとき、自我にはもうすることがなくなります。
この時、内なる創造の意識がわき上がってくるようになります。
あなたに考え方がないとき、深い深いところの意識があなたの肉体という表面に浮上してくるのです。
それがあなたを行動に駆り立てるようになってきます。
それが純粋動機です。
その時あなたは神のごとき働きを始めることでしょう。
あなたは自分という個体意識を持ったまま、全体意識としての活動家へと変わります。
そんな人が結果を恐れることはありません。
良いと悪いがないからです。
ただ起きてくる結果を楽しめるようになってきます。どんな結果をも・・・。
良いと思ってしているわけではないから、悪い結果は生じようがないのです。
その方が都合がいいと思って取った行動は、うまくいかなかった時には都合が悪くなるわけですから、どうしても結果にこだわります。
したい事をしている人に、恐れる結果はないのです。
人は特定の価値観を握ります。まず握るところから始まります。
一つの価値観を受け入れると、その考え方に基づいた体験が始まります。
その中で良い体験による悦びと、悪い体験による苦しみの両方を学びます。
この両極を体験しつくすとその学びが終わるわけです。
人は良い体験ばかりを求めますから、まずプラスの体験をして、苦しみの体験が最後に残るのが常のようですが。
苦しくて苦しくてどうにもならなくなったとき、「もういいや」と意識がニュートラルへとシフトする事によって、その価値観を卒業します。
~津留晃一~