こんばんは、ともすけです。

 

 

中沢新一の『緑の資本論』に収録の「圧倒的な非対称」というテキストからなにか書いてみたいと思います。

このテキストには、宮沢賢治の「氷河鼠の毛皮」という物語が引用されています。

 

 

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イーハトーヴからベーリングまで行く列車のなかで起きた出来事の物語です。金持ちのタイチという男が仲間と賭けをして黒狐の毛皮を900枚獲ってくると意気込みこの列車に乗り込んだのです。列車の中には15人くらい人が乗っていてそれぞれ身なりが違います。偽物の毛皮の外套を着ている人やそれなりに高級な外套を重ね着している人もいます。黄色い帆布を着ているだけの貧しそうな若者もいます。タイチは1番豪華な身なりをしていて、特に氷河鼠の頸の部分の毛皮だけ(それも450匹!)を使った外套を着ています。

 

 

その列車が突然急停車します。すると20人ほどの白熊のような雪狐のような毛皮を着た、いや毛皮が皮でできているようなものたちが列車に入ってきます。その列車には実は彼らのスパイが忍び込んでいて、列車に乗っている人たちの着ている毛皮を調べていたのです。最も豪華な毛皮を着ていたタイチは連れ去られようとしています。そこに黄色い帆布だけを着ている若者がスパイを捕えて人質にします。そして熊?たちに言います。お前たちのしたことは尤もだが、おれたちだって生きていかなければいけないんだ、お前たちが魚を取るように。これからは無理なことはしないように気をつけるから今回は許してくれ、と。熊?たちは了解して話は終わります。

 

 

結局この話はなにが言いたかったのか素直に考えてみると、動物を無闇に殺してはいけないよ、ということだと思います。宮沢賢治という人は人と動物の命に差をつけません。物語でも擬人化して語られる物語が多いです。この「氷河鼠の毛皮」だと白熊たちが列車に押しかけてきて動物たちの毛皮を必要以上に着ている人間を連れ去ろうとします。それに対し人間は動物たちと対等に話しあいます。僕は思うのですが僕らが想像できなくなってしまった昔には動物と人間は賢治の物語のように対等に話し、対等に闘っていたのではないでしょうか。僕らはいつしか人間が地球の中心だと思うようになった。しかしその思い込みは本当に正しいのでしょうか。とこんなことを書くと、とんだエコロジストと思われるでしょうか。

 

 

そのような問題を現代に当てはめて考えたのだと僕が思うのが上に書いた中沢新一です。宗教学者でいいのかな。地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教に影響を与えた人物として名を知られているかたもいるかもしれません。大学の教授なので普通に知っているという人がほとんどでしょうけど。中沢新一は「圧倒的な非対称」というテキストで「氷河鼠の毛皮」を引用し、元来人と動物は対称的な関係にあったと主張しています。簡単に言うと人と動物が対等であったということです。もちろん持ちつ持たれつ、熊と人間が魚を分け合ったとかそういうことではなく(猫に鼠退治してもらう代わりに餌を与えたというのはあります)、熊と人間は生きるために自然界で対等に渡り合っていたということです。

 

 

ところがそんな対称が科学技術の発展によって崩れて行きます。つまり非対称になってしまいます。動物たちはピストルなど圧倒的な力で襲われ殺されていきます。豚や鶏、牛などは家畜化されていきます。そうなるともはや人間と動物は対等ではない、非対称な関係になってしまいました。そんな非対称な関係を人間はいつしか当たり前のように感じ動物たち(愛玩動物も含め)をモノとして扱うようになります。この「氷河鼠の毛皮」はそんな人間たちに熊たちが起こしたテロだったと中沢新一は解釈しています。

 

 

このことは人間対人間の関係でも言えることだと中沢は言います。富を持つ側と持たぬ側の関係を考えてみてください。先進国と呼ばれるアメリカを筆頭とした西洋の多数、日本などに住む人々とアジアやアフリカなどで多く見られる後進国に住む人々。ざっくり言ってしまいましたが、この両者の関係はまさに非対称の関係なのだと中沢は言います。中沢のテキスト「圧倒的な非対称」のサブタイトルは「テロと狂牛病について」です。

 

 

この世界の追い詰められた人々がテロに走ることを中沢は「圧倒的な非対称」がもたらすことだと考えています。狂牛病は家畜化された牛が自分たちと同じ牛を餌に与えられることによって起きた病気でしたよね。それは牛の側からのテロだったとも言えるかもしれません。非対称のなかで弱者の側に立たされ強烈な力で押しつけられた人たちが反乱を起こすことを中沢は「氷河鼠の毛皮」から尤もだ、仕方ないと考えているように思われます。

 

 

この僕の書き方に多少の抵抗を感じたかたもいらっしゃると思います。僕もそう感じるのでそれこそ「尤も」だと思います。僕は中沢のこの思想こそが地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教のようなカルト宗教団体に利用されることになった根本原因だったのであろうと思います。1995年に僕は東京にいましたがあの事件のことは鮮明に覚えています。オウム真理教というのは何もかもが偽物で塗り固められた団体でした。コスモクリーナーやハリボテのシヴァ像、出てくるものがとにかく・・・なんといっていいのかわかりません。ただ、彼らの感じ方というのは僕らの世代の感じ方であると感じたのは記憶しています。この僕らの時代の感じ方は一体何なんだろう、それをずっと考えてきました。自己内省的でその内省から生み出される想像力・・・自分を超えたいという欲求。

 

 

中沢の宗教観、宮沢賢治の世界観、そしてサブカルチャー特に漫画、アニメーションの世界観に共通するものはなんでしょうか。僕はそれは現実を超えたものへの希求、超越への希求だと思います。この地下鉄サリン事件が日本の想像力におけるひとつの転換点だったことはあの時代を生きた人たちにはよくわかることだと思います。想像力溢れる作家として知られていた村上春樹も『アンダーグラウンド』という作品を書き、『ねじまき鳥クロニクル』の続巻を発表するなど自分の世界との関わり方についてシフトチェンジを強いられたときだったと思います。この時代の特徴としてひとつ言えるだろうこととして、オウム真理教に集まる人々は麻原のことを父として慕っていたと言われていたということです。家族のなかにおける父の不在。社会のロールモデルの欠如。そして子どもを押しつけられた母の影響力の増大。母子が友だちのように接するような時代だったと思います。そんな不在の父を埋めてくれるのが麻原という存在だったのかもしれません。肯定はしませんが。

 

 

対して西洋は非常に厳しいです。キリスト教は父性的厳しさがありますし、西洋哲学も同様に非常に厳しい。僕が最近記事にしたディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も僕が思っていたよりもアメリカ人はもっと厳しい見方をしていたのだと痛感させられた小説でした。あの小説にはアンドロイドが人になることはないという思想が背景に流れているように感じました。僕はディズニー映画『ピノキオ』のように人形でも人間になることはできるとそういう考えを持って読んでいました。しかし、ディズニー映画は夢物語でしかなく、アカデミー賞でもアニメーション部門が設けられているようにアメリカではアニメーションがアカデミー作品賞を取ることはないという現実の意味を改めて感じました。それゆえにディックの作品は映画化されているのでしょう。

 

 

日本人にはたとえ石ころでも魂があるという考えはあったと思うのですが、もしかしたら僕の時代とは違ってそのような考えはもう少数になってしまっているのかもしれません。それは今の子どもたちに聞くことはできません。それはタブーでしょうし、聞いたとしてもなにが変わるわけでもなく現実はそうなんだと思うだけです。

 

 

もしスマホと会話している人がいたとしても通報だけはしないであげてくださいw 芥川龍之介や谷崎潤一郎だって人以外を愛したじゃないですか。

 

 

下の2作品は非対称となった世界を描いた物語です。