☆マラチオンの影響は? | 松林 秀彦 (生殖医療専門医)のブログ

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生殖医療に関する正しい知識を提供します。主に英語の論文をわかりやすく日本語で紹介します。

マラチオン(Malathion)が妊娠中の胎児あるいは小児に与える影響について、当院を卒業された患者さんから質問がありました。誤解を避けるために長文になっております。

Q お昼のお弁当で、たまに冷凍食品を使うことがあります。今回、回収対象になっているコーンクリームコロッケも何度か購入し、全て食べてしまいました。食事中に吐き気があったこともありますが、つわりのせいなのかコロッケのせいなのか分かりません。赤ちゃんにはどんな影響が考えられるでしょうか。全国でたくさんの妊婦さんや妊娠を目指す方々が不安になっていることと思います。

A マラチオンを含め、高濃度の有害物質を食べた場合には、その瞬間にまずくて食べられず吐き出す、あるいはにおいからして異臭のため食べられないと思います。ですから、おそらくそれを食べてはいないのだと思いますが、勿論断定はできません。

報道では、急性参照用量を基に安全かどうかが論じられています。
 一日摂取許容量(毎日食べ続けても健康に影響が生じない量)0.3mg/kg/日
 急性参照用量(短時間に摂取しても健康に悪影響が生じない量)2mg/kg/日
急性参照用量は、50kgの大人の場合100mg、20kgの小人の場合40mgです。発表されたデータによると、コロッケが15,000ppm(15mg/g)(最新の報道では衣が26,000ppm、中身が4,000ppm)、ピザが2,200ppm(2.2mg/g)ですから、50kgの大人の場合コロッケ6.7g、ピザ45.5g、20kgの小人の場合コロッケ2.7g、ピザ18.2gとなります。コロッケ1個22g、ピザ1枚93gとのことですから、急性参照用量は簡単に越えてしまいます。ただし、急性参照容量は短時間に摂取される農薬の限界量として国際的に用いられていますが、安全面を見据えたかなり厳しい(低い)数値に設定されていますので、これを超えてすぐに健康被害が生じるわけではありませんと報道されています。

しかし、以上については、食べた本人への直接の健康被害についてであり、胎児や小児へどう影響するかについての基準値はありません。そこで、マラチオンを含め農薬•殺虫剤の人体(母体、胎児、小児)への影響に関する論文を調べてみました。

農作物の害虫(アブラムシ、毛虫)に対して用いるものは農薬(農林水産省管轄)、衛生害虫(ハエ、カ、ゴキブリ)を除するものは防疫用殺虫剤(厚生労働省管轄)と呼びます。マラチオンは農薬としても殺虫剤としても使用されています。マラチオンは有機リン系の薬剤で、昆虫ではマラオクソンへと代謝され、不可逆的コリンエステラーゼ阻害作用による毒性を持ちますが、哺乳類では分解されて不活化されるために毒性が低いと考えられています。米国で開発され、日本では1953年に農薬登録を受けています。残留基準は、農作物の種類によって0.01~8.0ppm以下であり、実に800倍もの違いがあります(この基準は絶対的なものではなく、政治的に決められた部分が大きいようです)。マラチオンを摂取した場合には、倦怠感、頭痛、吐き気、多量発汗、視力減衰、縮瞳など有機リン系に共通の中毒症状がみられます。

農薬•殺虫剤の種類と作用機序:共通して言えるのは、神経伝達を阻害する作用です
有機塩素剤(DDT、BHC):神経軸索のNa+チャンネルに作用し、神経系の情報伝達を阻害します。毒性が強く生物濃縮が起こるため、1970年代までに日本では禁止となりました。
有機リン剤(パラチオン、ジクロルボス、マラチオン、フェニトロチオン):神経系の伝達物質アセチルコリンの分解酵素「アセチルコリンエステラーゼ」を不可逆的に阻害します。このためアセチルコリンが異常に集積し、情報伝達が阻害されます。
カーバメート剤(カルバリル、プロポクサー、フェノブカーブ):有機リン剤と同じ作用機序ですが、「アセチルコリンエステラーゼ」を可逆的に阻害します。
ピレスロイド剤(ピレトリン、ペルメトリン、エトフェンプロックス):神経軸索のNa+チャンネルに作用し、神経系の情報伝達を阻害します。残効性が非常に低い特徴があります(安全性が高い)。
ニコチン剤(硫酸ニコチン):ニコチン性アセチルコリン受容体に作用して、神経の異常な興奮を引き起こします。
クロロニコチニル剤(イミダクロプリド、アセタミプリド、ジノテフラン):ニコチンのヒトへの毒性を低下させたもので、アセチルコリン受容体への競合阻害により情報伝達を阻害します。

開発の歴史
1930年代に①や②が開発され、第二次世界大戦後に広く使われるようになりました。しかし、①の毒性が問題となり、多くの国で製造販売や生産が中止されました。②は毒性の低いものへ開発が進められてきました。それと平行して③④⑤⑥が開発されました。

⑴ Neurotoxicol 2012; 33: 669(フィリピン)
要約:単胎妊娠出産した741名の母体の毛髪と血液、児の毛髪と臍帯血と胎便(生まれたときの胎児の便)を採取し、各種農薬•殺虫剤9種類の濃度(プロポクサー、シフルスリン、ビオアレスリン、トランスフルスリン、シペルメスリン、クロルピリフォス、プレティラクロル、マラチオン、ディアジノン)を測定するとともに、児の発達を2年間前方視的に調査しました。胎便から最も高頻度に農薬•殺虫剤が検出され、③プロポクサーが21.3%、④ピレスロイド類(シフルスリン、ビオアレスリン、トランスフルスリン、シペルメスリン)が2.5%でした。しかし、その他の薬剤(クロルピリフォス、プレティラクロル、マラチオン、ディアジノン)はほとんど検出されませんでした(<1.0%)。また、妊娠中のプロポクサーの暴露は、2歳児の運動系の発達障害と有意に相関していました。

⑵ Pediatrics 2010; 125: e1270(米国)
要約:8~15歳の小児1139名の尿中DAP濃度(②有機リン系農薬•殺虫剤の代謝産物)を測定しADHD(注意欠如•多動性障害)との関連を横断調査しました。119名がADHDに該当し、DAP濃度が高いほどADHDの頻度が増加しました。特にDMAPが10倍高い子供では、ADHDのリスクが1,55倍有意に高くなりました。また、DMAPが検出されない子供と比べ、中央値以上検出された子供ではADHDのリスクが1.93倍有意に高くなりました。

解説:
⑴ フィリピンでは、日常的に家庭内での殺虫剤使用と農地での農薬使用が頻繁です。本論文は、妊娠中に暴露および摂取された農薬•殺虫剤が子供にどう影響するかを調べたものです。妊娠中のプロポクサーの暴露と2歳児の運動系の発達障害に因果関係を認めていますが、マラチオンについては検出されなかったため、結論が出せません。しかし、③に属するプロポクサーの抗コリン作用は数分から数時間であり一時的(可逆的)なものですが、②に属するマラチオンの抗コリン作用は不可逆的なため、もし暴露したとすれば長期間にわたる影響も懸念されます。

⑵ 米国では、40種類の②有機リン系農薬•殺虫剤がEPA(アメリカ合衆国環境保護庁)に認可されています。2001年には、米国で7300万ポンド(3306万kg)の有機リン系農薬•殺虫剤が使用されました。NAS(米国科学アカデミー)は、殺虫剤よりも食物から摂取される有機リン系薬剤の量が問題としています。2008年に米国では、マラチオンは実に、冷凍ブルーベリーの28%、イチゴの25%、セロリの19%から検出されています。日常的にマラチオンを摂取しているのは明白な事実であると考えます。本論文は、小児期の有機リン系農薬•殺虫剤の摂取がADHDに関連することを示していますが、横断調査であるため、その因果関係は不明です。

現在、農薬•殺虫剤への暴露は避けられないものですが、そもそも農薬•殺虫剤は「神経伝達を阻害する作用」を持つわけです。大人の脳の成長は停止していますが、胎児や小児の脳は成長していますから最大のターゲットになり得ます。つまり、母体への暴露はわずかだとしても、胎児あるいは小児への影響はもっと大きい可能性があります。実際に、有機リン系製剤の妊娠中の暴露に関する論文では新生児反射の異常(膝外腱反射など)との関連が、小児期の暴露では反応時間延長、短期記憶力低下、行動障害、運動機能障害との関連が報告されています(疫学調査のため、あくまで「関連」であり「因果関係」ではありませんのでご注意ください)。またヒトでは、2歳児の運動機能低下は、その後の小児期の認知機能低下や注意力散漫、言語機能低下に影響すると考えられています。一方、動物実験では、有機リン系農薬•殺虫剤がADHD様症状(多動症や認知障害)をきたすことが報告されています。

同様な現象はタバコ(ニコチン)でも認められています。ヒトでは妊娠中のタバコへの暴露と胎児のADHDとの関連が報告されています。動物実験では、ニコチンがADHD様症状(多動症や認知障害)をきたすことが報告されています。ニコチンは、上記の⑤に属しており、農薬•殺虫剤の一種と考えられます。

現在あるデータでは結論的なことは言えませんが、妊娠中の胎児および小児は、農薬•殺虫剤への暴露により発達障害やADHDを引き起こすリスクが否定できません。しかし、現代の生活では、日常的に農薬•殺虫剤•タバコに暴露あるいは摂取しており、それによる慢性的なリスクがベースにあると考えられます。したがって、一時的な農薬•殺虫剤への暴露が、胎児あるいは小児にどの程度影響を与えるのかは不明と言わざるを得ません。

人類の生活は、文明の進歩により豊かなものになりました。日本を含め世界全体での高度成長時代には、人体や環境への影響を考慮することなく、様々な化学物質が使用されていました。その後、人体や環境への悪影響が次第に明らかになるにつれ、環境ホルモン、残留性有機汚染物質、農薬•殺虫剤などの化学物質に次々と規制が設けられ、現在に至っています。今後も、新たな化学物質が使用されては規制されるといった繰り返しになるのではないかと考えます。人体実験はできませんので、ある程度年月が経過しない限り、新しい化学物質の人体へ及ぼす悪影響について明らかになりません。このタイムラグは、永久に無くならないと考えます。私たちの周囲には未だ明らかにされていない危険な物質が沢山あると考えるべきで、日常生活は決して安全ではないという認識が必要だと思います。

環境ホルモンや残留性有機汚染物質については、ブログのテーマで取り上げてありますので、そちらの記事を参照してください。