彼らは口には出さないものの数学はもっと神秘的で美しいものだと思っているでしょうし、問題が解ければいいというものではないと考えるでしょう。
実際に僕自身も数学神秘主義者の気持ちは分かります。
というか僕自身もその轍にはまっていましたし、おそらくまだはまっています。
数学神秘主義者というとピタゴラス教団などを思い出しますし、算数しかわからない数学神秘主義者は数秘術などにはまるのかもしれません、素数なども深くはまるとそこに神秘と深淵を見てしまいます(見て良いとも思いますし)。
映画化された小川洋子さんの小説「博士の愛した数式」などは、数学が嫌いな人にでも数学の拭いがたい神秘性の一端を見せるのに成功していると思います。
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*ちなみに、このよく使われている博士と私の写真。実に奇妙な写真です。桜の下をさわやかに歩く2人ですが、妙に目を惹きます。
以前、サブリミナルということをよくセミナーでも話していましたが(またいつかセミナーでやりたいですね。サブリミナルを見抜く目というのは訓練で習得可能です)、ここで言えば女性(深津さん)の手が男性(寺尾さん)の股間に触れているというのが、抑圧されるサブリミナルメッセージです。
隠されたセクシャリティを表します(隠れていませんが、全体の文脈から言えば隠されています)。
サブリミナルというのは、皇帝の新しい服です。「王様は裸」と同じ構造です。はっきりと視覚野には写り、きちんと見えているのに心の抑圧が、スコトーマ(盲点)として働くということです。
逆に言えば、あえてスコトーマに隠す行為が抑圧であり(「抑圧」というのは古い心理学のモデルですが、ここではあえて使っています)、ここでは意識と無意識のねじれなり、乖離が起きます(あまり正確な物言いではありません。無意識で知覚したものを意識はそれを認められずに否認する現象です。まさに「抑圧」がぴったりの言葉です)。
平たく言えば、目をそらすからこそ、そこに集中してしまうという感じです。注射の針を見ないようにすればするほど、全身で注射を味わってしまうのと同じです。
これがサブリミナルのカラクリです。我々が「サブリミナルを見抜く目」を鍛えるというのは、この心理的障壁なり、抑圧を解除するだけです。見えているものを、見えるようにする訓練です。そのために見えないという思い込み、もしくは見てはいけないという思い込みを外します。もちろん言うほど簡単ではなく、これは訓練で可能にします。ただ理論的には以上のようにシンプルです。
(寺子屋シリーズが終わったら、以前やっていたサブリミナルや合気などのコンテンツも復活させたいですね。よりパワーアップさせて)
以下の書籍は、サブリミナルの古典とも言える「教科書」です。少し古いですが、サブリミナルが進化していると言ってもカラクリは同じです。あえて付け加えるとしたら、プレイスメントなどの比較的に新しい形のサブリミナルが、認知科学の知見を経てより整合的に説明できるようになったということくらいかと思います。
一般常識の公式見解は「サブリミナルなど無い」というものですが、それは小学校の算数で「小さな数から大きな数を引いてはいけません」というのと同じです。子供向けの見解かと思います。
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いつもながら、話は逸れていますが、博士の愛した数式の中にもオイラーの公式もありました。数学は美しいというのは同意しますが、一方で美しさを味わうということは個人的な体験ですので、押し付けられるものではないと思います。
美しさは「意味」と密接に関わってきます。僕自身は数学の意味論というのは重要だと思いますが、数学を学ぶ上では邪魔になるように思います。
数学はどこぞの予備校教師が言うまでもなく、言葉です。コミュニケーションのツールであり、世界を理解するためのメディアです。
そのツールの習熟のためには、あえて意味をはがして、アルゴリズムに習熟することに特化したほうがいいと思います。
寺子屋シリーズの初期のコンテンツの「数学」では、微分・積分を扱いますが、微分・積分と言ってもアルゴリズムだけならば(高校数学レベルの微分・積分ならば)小学生でも十分に理解できます。
理解し、計算ができます。
その視座から、掛け算・割り算、足し算・引き算というアルゴリズムを見直すと微分・積分を頂点とする計算の全体像が見えると思います。
ちなみに、この背景に走るのはもちろん論理学です。
思い出してみると論理学を形式化し、それを数学にあてはめようとしたのがラッセルたちの野望でした(ラッセルの名付け親はジョン・スチュアート・ミルと知って驚きました。銀の匙をくわえて生まれる人もいますね)。
もちろんその野望を持った人の中には、論理学を形式化することに成功したフレーゲもいます。まあフレーゲの仕事にラッセルがツッコミを入れたのですが(ラッセルの逆理)。
なぜ数学に論理学をあてはめようとしたのかと言えば、直観される数学の完全性や無矛盾性を、直観ではなくきちんと証明したいと思ったからです。
自分で自分の身体を持ち上げることができないように、数学は数学を証明できません(だからメタ数学なのでしょうが)。だからこそ形式化された論理学の手法を使うことで数学の完全性を示そうとしました。示そうとしたというより、当たり前のことだからきちんと示しておこう、という感覚でしょう。
その後の顛末はご存知のとおり、25歳のゲーデルが数学の積み木でできた美しい大伽藍を崩してしまいました(ついでに晩年はその積み木くずしが遠因で自分の精神の安定も崩してしまいましたが)。
余談続きですが、少し整理します。
論理学については、「まといのば」ではこうまとめています。
まずは論理学と言えば、アリストテレスです。
アリストテレスからフレーゲ、そしてラッセル。フレーゲの命題論理、述語論理から、クリプキの様相論理を学びます(寺子屋シリーズの「論理学」では一気にそこまではいきませんが)。
流れとしては、
アリストテレス⇒フレーゲ⇒ラッセル⇒クリプキ
です。
アリストテレスを伝統的な論理学とし(たとえば三段論法のような)、フレーゲはアリストテレス以来の論理学を形式化しようとしたと見做します。ラッセルは大成し、クリプキは可能性世界論において、様相論理のSemanticsに成功したという認識です。それが様相論理の完全性定理です。
論理形式で言えば、
伝統的古典論理学(三段論法など) ⇒ 命題論理 ⇒ 述語論理(1階、2階..) ⇒ 様相論理
という感じです。
述語論理から数学の世界(自然数論)へ飛び込んだときに、ゲーデル先生が数学の不完全性を宣告します。
その前年に24歳で一階の述語論理の完全性を示したというのに(T_T)
論理学とメタ数学は仲が良く(同符号同士のように)、現代数学は(サイエンスの一分野としての数理科学と言うべきでしょうが)メタ数学の知見からは逃れられません。
もちろん中学数学もです。
ですので、Syntax(統語論)を重視します。
神秘を観るのは自由ですが、我々は神秘を趣味レベルで楽しむ以上には見てはいけない世界に入ったということです。
この姿勢は論理学が形式化したときの感触と似ています。
論理から意味を引き剥がし、論理結合だけで真偽値を示したのと似ているとも言えます。
ヒルベルトが
The elements, such as point, line, plane, and others, could be substituted, as Hilbert says, by tables, chairs, glasses of beer and other such objects.Wikiより
より厳密には、その概念に意味などそもそもないということです。意味は関係の網の目の中に浮かび上がってくるものです。
そう考えると、中学数学で「負の数」を導入するときに「東へ5km」のとき「西へー5km」などという数学の意味論は本当に大きな問題だと思います。
まずSyntaxを導入し(掛け合わせられる負の数の数をかぞえて、正負の判定をするなど)、それから暇だったら意味論に拡大するとしたほうが生徒のためにも良いと思います。
なぜなら、第一に効率的で、第二に意味論の落とし穴に落ちず、第三にメタ数学の感触と整合的だからです。
神秘を観るという立場は美しいですし、その前提となる「数学に意味を見る」という立場も理解しますが、それは加速学習には邪魔ですし、IQを上げる上では障害になるように思います。
神秘を観るのは箸休め程度が楽しいかと思います。
*幸福論はアランだけではなく(いや多くの人が書いていますが)、ラッセルの幸福論も。
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