映画「ソーシャル・ネットワーク」は、SNSで今流行のフェイスブック誕生物語です。
フェイスブック創始者は、マーク・ザッカーバーグハーバード大の学生の時にフェイスブックを立ち上げます。
フェイスブックはなぜ急速に登録者が拡大するのか?そしてジャスミン革命やエジプト政変から今やリビア政変まで影響拡大するのか?
フェイスブックの本質は、管理された情報を解放して既存(既得)権力を無力化する機能を持っている。
映画では、女学生のランキングサイト(フェイスマッシュ)を立ち上げ女学生から嫌われたのは愛嬌です。

マークの作った「フェイスマッシュ」は、たった2時間の間に2万2千件のアクセスがあった事にマークは驚きました。
映画に何度もこの言葉が出てきます。
ここから「フェイスブック」はスタートします。
そしてマークの技術を見込んだハーバードのWASPで特権的な社交クラブの学生から、「ハーバードコネクション」という排他的なサイトを作る依頼がありました。
「これって排他的なサイトですよね」とマークは疑問を提示します?
学生の社交クラブの入り口でここから先は、会員でないと入れないとの話に違和感を感じるマークです。
その依頼を無視してマークが作り上げたのがザ・フェイスブックです。

 

ハーバードの学生なら希望者はだれでも実名で入会できる開放的なサイトです。
思想・信条・政治体制関係なしに広がるので既存権力側は対応に大変です。これからも拡大するでしょう。
マークに依頼したWASPの学生は、「ハーバードコネクション」を別名でサイトを作りましたが、フェイスブックのおかげで寂れる一方だと嘆きます。
フェイスブックの素晴らしいところは、政治・思想・反体制・権力等一言も言わずに既存の権力・権力組織を崩す力があるのは驚きです。
功利主義思想の再検討に繋がるかも-----。
功利主義の問題点は、最大多数の最大幸福と言いながら、実際は多数の貧しい者の犠牲の上に少数の富める者の行動を自由に許可し貧富の格差を助成する点にあった。
今日のフェイスブックウィキリークス(SNS)の波は、少数富裕グループの権利・権力を保証しなくなった。
貧富格差の解消になれば、SNSは新功利主義の道を切り開きます。

 

ザッカーバーグは、名前からユダヤ系米国人と思われます。
映画でも突然ユダヤ人男子学生とアジア系女性は合うらしいとの会話がいきなり出てきます。
マークは、フェイスブック立ち上げ前から中国系米国人と今も交際しています。
先日パパラッチの写真に撮られていました。

 

ニュージーランド地震でもフェイスブックが緊急情報や生活必要情報にメディアの代わりに役に立っているニュースを見ました。
国・政治体制関係なく有用なとこは、これからのキーワードになりそうですね。

その1.毛利家のキリシタン大名毛利秀包 (ひでかね)

はじめに        

 山口の毛利家は、キリシタン弾圧の厳しい国であった。

 その毛利家の中でただ一人のキリシタン大名がいた。

 今まで多く語られてこなかった、毛利秀包の生涯を書いてみます。

前回(六、)の続き

 

七、毛利元鎮の久留米城脱出

秀包は関ヶ原の戦いに出掛ける前に家族や久留米城を守る者たちに指示を出していた。 

久留米市史には、「加藤や鍋島の軍が来たら城を枕に討ち死にせよ。黒田軍が来たら城を開けよ、」と記述されています。

秀包と同じ時に洗礼を受けた黒田直之の支援もあって引地の君たちは救出された。

黒田家以外の武家のもとなら、秀包の指示に従い家系は途絶えていたであろう。

慶長五年(1600年)10月久留米城を守っていた引地の君(マセンシア)と嫡子元鎮一行は、鍋島軍と黒田軍が久留米城を取り囲むなか、黒田軍に開城し黒田直之(異母弟)の支援で久留米城を脱出し海路長門国川棚室津港に着いた。

 

八、秀包の埋葬と元鎮の馬飼料(久森)について

秀包は、赤間関(下関)で一説に破傷風と言われ病死する。

輝元の命により、豊北町滝部西楽寺に葬られた。

元鎮は、はじめ毛利元氏の館(久森)に住した。

「宗端・長府藩主秀元両公の命によつて嫡男元鎮(十三歳)は式部少輔になり豊浦郡滝部村久森に馬の飼料として三千石の地を賜う。」

輝元と秀元の両名の命による元鎮への領地拝命は、長府藩領の分地があるからであろう。

慶長七年(1602年)阿川、滝部、殿居の五千石に元鎮は封ぜられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二次世界大戦前、九州の島原・天草から多くのからゆきさんが南方へ出稼ぎに行きました。

 その記録を昭和の女性史研究家山崎朋子は克明に残します。

 その実態は、江戸時代から連綿と続くからゆきさん(海外売春婦)でした。

 「東北地方の人身売買は主に天候異変による凶作が原因だったが、天草・島原地方の人身売買は貧しくやせた土地と自然災害によるもので、ほぼ慢性化した貧困が原因だった。」

 

 家の貧しさゆえにわずかなお金で売られて、からゆきさんとなって南方へ行き体を売って稼いだお金を家族に送金しても、送金を黙って受け取りこそするが感謝されることはなかった

 借金を返して故郷に帰ってもからゆきさんは、家族や親戚からも村の人からも厄介者扱いされ受け入れられる事はなかった。

 おさきさん、この映画の元からゆきさんは、日本に帰る前に娼館の女主人から「日本に帰るな。良い事は何一つない。」と言われていた。

 日本に帰らずサンダカンで没した人たちの共同墓地は、港の見えるところに作られたが、日本に背を向けて墓は建てられていた。

 

 明治期になって日本の海外進出がなされる前、からゆきさんたちは「娘子軍」として喧伝された。

 明治末期になり日本が国際的な勢いが出るころには、「国家の恥」と言われた。

 底辺に生きる女の悲哀を「望郷 サンダカン八番娼館」で描かれ、歴史に埋もれやすい記録が映画に残されました。