あの公園が泡沫の如く消え去って、その翌日。昨日は打ち上げで楽しかった思いと共にやはり寂しい気持ちもまだあって。持って帰れた『あの子の鉛筆』を見ると、たしかにあの空間が存在したんだなと、なんだか夢から大切なものを持ってきてしまったような、そんな感覚。




 今回この公演に携われたことは、鈴木自身もすごく大きな糧になっていて。
 まず、自分が失ったって思ってた感覚を取り戻せたこと。
 これは本当に大きくて。稽古期間中に、少し遠回りして、散歩がてらの帰路についたんですよ。少し新品の自転車を走らせて、それこそ気ままに。そうしたら、通り過ぎていくものが、音が、全てが愛しくて。親子が手を繋いで笑ってる姿が収まるフレーム、鳥の声、自動車のエンジン音ですら。全ての人がそれぞれに動いて、生きて、その中にちっぽけな自分がいる。己の預かり知らぬところで、世界は生きていて。
 なんと世界の美しいことか。
 久しぶりにそんな風に思えて、泣きたいくらいに世界が綺麗だったことを思い出せたんです。
 そういう風に感覚を取り戻すと、己のなりたい姿ってのが、不思議と明瞭に見えてくるんですね。
 (恥ずかしいもので、己を誤魔化して、やり過ごしてきた鈴木は、当時に描いていたなりたい自分ってやつを見失っていたんですね)
 そしてわかったのが、なりたい自分。
 幼い自分、それこそまだ世界なんてものが汚く醜いものだなんて知る前の自分はどんな自分になりたいと思っていたのか。
 おそらく、鈴木はもう見落とすことはないと思います。見落とすようなことがあれば、鈴木は今一度、この舞台のこと、歌った歌のことを思い出すでしょう。
 ありがとう、チャーリー。
 キミは鈴木にかけがえのないものを思い出させてくれました。
 本当に、
 キミは良い人、チャーリー・ブラウン。