どこかで誰かが見ていてくれる。 | 小堀正博ブログ

どこかで誰かが見ていてくれる。

今日は素晴らしい1日でした。
母校の芸術鑑賞会で、僕が出演させて頂いた映画「太秦ライムライト」を上映して頂きました。

映画館で、大人が観る視点と違うというか、映画館で起こらなかった箇所で笑いが起こったりと中学生の感性から学ぶことが沢山ありました。

うちの母校はキリスト主義の学校なので、毎日礼拝があります。
朝の礼拝にもワガママを申して参加させて頂きました。
男女共学にともなう生徒数の増加で、普段使うことの出来なくなった、僕の男子校時代の思い出がいっぱい詰まった礼拝堂。
今日は3年生が卒業したあとということで、使うことが出来たようです。
あの礼拝堂に響く歌声が混声だったことに時代の流れと、後輩達が一生懸命受け継ごうとする伝統の重みを感じました。

そして、上映後はまさかのサプライズが!
こんな幸せなことがあっていいのか。
今日あの場に居合わせた人は、一生忘れることの出来ない経験になったのではないかと思います。


上映後に少し後輩達にお話をする時間を頂きました。

この映画にもある、「一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ていてくれる」という言葉。

これは学校生活にも通じるものがあります。
普段前に出ないでも、裏で一生懸命支えてくれる人。
どんな場面にも居ます。
だから、そんな目につきにくいところで一生懸命頑張っている友人に目を配れる、視野、心が広く気配りの出来る人間であってほしい。

映画にしてもそう。
何十人、作品によっては100人以上の人が、その作品の完成のために一生懸命頑張っている。
目に見えるキャストだけじゃなくて、裏で一生懸命支えてくださる沢山のスタッフの方。
だから僕は作品自体もそうですが、映画が終わった後のエンドロールに流れるお名前、1人1人しっかり見てほしい。
どれだけ沢山の人の支えがあって、どれだけ沢山の人がその作品に魂を込めたのか。

学校も、今までの伝統を守りつないで下さった先輩方がどれだけ沢山いらっしゃって、どれだけ沢山の方の支えのもとで、みんなが「人生」という映画の主役になれているのか。
共演者という周りの家族や友人、目に見えない裏で支えてくださる方々にも目を向けましょう。
普段の生活で。
そういう姿勢を、誰かが必ず見ていてくれます。

ただ、逆にこれは「自分が意識していなくても、誰かに見られている可能性がある」ということ。

特に中学生は制服を着ているから、余計に見られている。母校の生徒が電車でうるさくしていたら悲しいし、席を譲る姿を見るととても嬉しくなる。
電車の中の他人にも、見られている。
1人1人が、自分の通う学校の生徒であることを誇りに思い、伝統を感じ、自覚を持って行動することが、その伝統をいい形で繋ぐもっとも良い手段のはずです。
皆さんの行動1つで、周りの人の人生を左右しているかもしれません。

どんな場面でも、自分に自信と自覚を持って行動出来る、素晴らしい中学生であってほしいと思います。

きっと皆さんが卒業して、こうして母校の後輩を見たときに、自分が背負っていた伝統の重さを感じることでしょう。

そして、こうやってどこかでしっかりと見ていてくれるのがこの学校の良さです。
そのことは誇りに思ってほしいと思います。