この2ヶ月間を振り返るとホントに行動したよなぁ~って感じた。


1.松下そういち市議会議員へ支援学級増級に関する要望して(5/12)
2.映画「海洋天堂」のチケットプレゼントをやったり、その抽選会を生中継して自閉症に関する理解を訴えたり。(5/15)
3.神坂たつあき市議会議員へ障害者自立支援法の改定による市への対応について訴えて(5/17)
4.こしみず恵一市議会議員とノーマライゼーション条例について語り合って(5/22)
5.井上伸一市議会議員、小森谷優市議会議員、松下壮一市議会議員に対してさいたま市の支援学級増級に対して要望して(5/22)
6.さいたま市の清水勇人市長には「わたしの提案」で、同じくさいたま市の支援学級増級に対して要望して
7.山下久仁明さん(レインボーおやじ)のご自宅にお邪魔して、障害児の父親としてのあり方を学んで(5/25)
8.幼稚園と真輝の小学校就学についての懇談をして(5/31)
9.色々と行動している矢先に、真輝の脳波に棘波の異常がみつかり(6/8)
10.とある障害者支援では尊敬する方とお会いして真輝の就学についてアドバイスを頂いて(6/9)
11.埼玉県自閉症協会主催の「学校ってどんなところ?」という講習会に参加して(6/12)
12.幼稚園の保護者会へ参加して真輝の障害に対しての理解を求めて(6/12)
13.特別支援学校の見学をして、そして教頭と懇談して(6/14)
14.そして5/22に三市議に要望したことにより、支援学級の増級に対するさいたま市議会の本会議で松下そういち市議会議員が質問をして
15.障害児の児童デイサービスを見学して(6/16)
16.その間に真輝の手帳判定が出て(6/17)
17.保護者参観日でパパさんになって(6/18)
18.小児医療センターに行って脳波検査について調べて(6/21)
19.真輝の学区の特別支援学級に見学に行って(6/22)
20.特別支援教育センターで就学について懇談して(6/24)
21.西田まこと参議院議員と埼玉県自閉症協会会長との懇談に同席させて頂き(6/25)


と、整理したら5月12日から今日までこんなに行動していた(汗)
たくさんの人と会って、真輝の就学や障害者支援について訴えていった。


実はね、なんでこんなに動いたかというと、当然真輝の就学を決定するという大事な時期でもあったんですが、それ以外にボクの精神的な気持ちもあったんです。


去年最悪だった会社の売り上げも、今年に入り勢いを取り戻そうと思って必死になっていました。
そして少し日差しが見えてきたかな?と思った時に、東日本大震災が起こりました。


被災された方々やお亡くなりになられた方々には、その震災は相当の痛手があった事は間違いありませんが、関東の中小・零細企業にとっては、あの震災は全てを止めてしまったと言っても過言ではありません。

3月は「震災の影響で・・・」「こんな時ですからね~」という言葉がアチコチで聞こえてきて、落ちていく状態でも手の施しようが無かった時の精神状態はかなりツライものでしたね。

そして3月17日からは上海に行きましたが、そこで見たものは、日本と中国が完全にひっくり返っている経済力。
上海の街は活気あり煌々と明かりが灯されている。そして帰って来るや、真っ暗なディズニーランドと何処に行っても暗い日本。

そして4月になっても一向に回復する兆しも無く、障害児支援で予定していた各懇談もどんどん延期や中止となっていきました。
そんなとき「このまま負けてたまるか!クソやろう!」という気持ちになった。


そして動くことで払拭する。「ぶっ倒れたって、いま死んだっていいや!」という気持ちで5月から再始動しました。
まずは真輝の就学だけでも絶対にキチンとやってやりたい。トコトン納得するまでやってやろう!と思いました。

そしてこの行動です。


いつのまにか世間でも「このままではいけない」となってきて、経済も少しずつですが変わり始めた空気を感じました。
仕事も手を抜かず、出来るだけ踏ん張りましたよ。真輝の事もやり抜き、そして仕事もやり抜く覚悟でこの2ヶ月はやってきました。
お陰様で、震災前の状態まではまだほど遠い状態ですが、明るい兆しは少しずつ取り戻しています。


でもこの2ヶ月の行動を振り返って思えることは・・・
真輝が障害児で無かったとしたら、ここまで精神を保つことは出来なかったんでは?と思う。
被災され、避難されてきている方々ともふれあい(3/27)色々な事を体験させて頂いた。


真輝が障害児でなかったらここまでの人たちとも巡り会えなかった。
そう考えると障害児の父として、その責任を持たせてくれている真輝はボクにとって、かけがえのない存在であると思う。