資本主義社会の見せ掛けの部分が、そうも言っていられない状況に陥ったことによって、がらがらと音を立てて崩れ始めると、国家を牛耳り、ほとんど私物化してきた特権的な地位を占め続けてきた強欲な連中は、これまできれい事の建前によって隠蔽してきた本性を剥き出しにせざるを得なくなり、すると、大方の世界において人間は物のようにして扱われます。そして、一個の独立した存在たる人間として、せめてこうありたいというささやかな願いは容赦なく踏みにじられ、心をざわつかせているうちに、こうした立場における自分とは何かという深刻な自問に責め苛まれ、もしかすると自分は生きながらにして死にゆく者に固定化されてしまっているのではないかと疑い、これまでの鷹揚な無神経さを恥じ、いくらか正気に戻って、心身共に倦み疲れさせてきた原因を探ろうとします。
 しかし、今更そんなことに思いを馳せてみたところで、結局は、語るべき過去も未来もない無味乾燥の人生を送っているおのれの惨めさに突き当たるばかりで、却って精神の分裂を招いてしまい、さまざまなしがらみに囲いこまれて身動きとれない自己を再認識することになり、現実を解釈し直すほどの度胸が生じないまま、これまでと同様、またしても自らの手で希望の門を閉ざすことになり、肉体の末路と、物質的価値をすべてとする単純にもほどがある思考と、持続しない緊張感と、もはやほとばしる情熱が底を突いていることなどにどんどんと追い詰められてゆき、一時凌ぎの苦肉の策として、この過酷な憂き世を生きるとは何かという定義を際限なく拡大せざるを得なくなり、やがて、雲のあいだを漂うゴミの一片に感情移入をするようになり、そこに愚かな救いを見いだしながら、自身を哀れむことの快感に酔い痴れるのです。