「真我」「意識」「気づき」「本質」と
言われるものに気づいたとき、
何故、「え~~~これ?
これならずっとあったし」
と、思ったのか。。。
それは、
「私」だったから。。。
言葉としての「私」ではなく、
「私」という思考ではなく、
「私」そのものだったから。。。
「私」という感覚そのもの。
昔からずっと、一瞬たりとも消えたことないし、
ずっと、ここにいるし、
呼吸よりも近いところにあるし、
「私」という言葉を使わなければ、
「それ」とか「これ」とかしか
または、感覚としては
ここにいる、としか、
覚者たちの言葉なら、
「在る」としか、
言いようのないもの。。。
それに本当に気が付いたら、
昔からの覚者の言葉は、
それを全部肯定してくれるし、
裏付けてくれる。
でも、当たり前のことすぎて、
これ以上単純なことは無いくらい、
単純すぎるから、
描写が難しすぎて、
伝わらないのよね。。。
OSHOが言ってますが、
ブッダ(目覚めた者)か
そうでないかは、
自分に気づいているか気づいてないか
ただ、それだけの違い。
でも、そこからハートが開かれることが起こり、
世界が違って見えるようになります♪。
当たり前の日常が
とても愛しい生になります。