" K2 LA MOTAGNA DELI ITALIANI "
= イタリアの山
監督 ロバート・ドーンヘルム
出演 ヴァレンティーナ・コルティ
対ソ連戦撤退 - 1943
すごい雪の中を故郷へ向かいう兵士
マリオとカシン
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1953
アルディト・デジオ教授は
1897年パルマノーヴァ生まれ
首相に遠征登山の費用を無心
目指すはチョゴリ(K2)
世界最難関の未踏峰
パキスタン占領中のインドカシミールと中国の国境
カラコルム山脈に聳える世界第2位の高峰
標高は8,611m
チョモランマ8850mはこの年5月に
イングランド隊が登頂に成功
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ヴァルテル・ボナッティ宣わく
1930年ベルガモ生まれ
僕は世界一のアルピニスト
今日はおっぱい山に登頂だ
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山スキーを真剣に楽しむ
アキッレ・コンパニョーニ
1914年サンタ・カテリーナ・ヴァルフルヴァ生まれ
負けず嫌い
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街中の鐘楼の壁を登る
リーノ・ラチェデッリ
1925年コルティーナ・ダンペッツォ生まれ
山とヴァレンティーナに夢中
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牧場で隠遁生活
マリオ・プショー
1918年クールマイユール生まれ
行きたいには行きたいが
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ミラノ - 1953師走15
デジオ教授がチョゴリ(K2)遠征隊員を募集
人数は12名
応募者は200人
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隊長はデジオ教授
ザイルパーティのリーダーは
みんなの憧れリカルド・カシン
1909年サン ビト アル タッグリアメント生まれ
アブルッチ稜から登る予定
バルチスタンを横断して
荷物を背負って岩場を200km歩く予定
標高6,000mからが勝負
空気が薄くなりカロリーは燃焼するが
低酸素状態で脳の機能は低下し活動が鈍る
7,200m、デスゾーン
気圧が下がり血中の酸素が減る
幻覚も見る
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泊まり込みで体力試験
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12名が決まる
ヴァルテル・ボナッティ
リーノ・ラチェデッリ
アキッレ・コンパニョーニ
マリオ・プショー
他8名
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マッターホルンで訓練
アルプス山脈、標高4,478m
アルプス山脈の最高峰はモンブラン、標高4,810m
登山家はアナーキスト
統率が難しい
自分と頂上しか頭にない
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リカルド・カシンに静脈瘤が見つかる
デジオ教授は彼をチームから外す
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1954卯月5
イタリアを発ちパキスタンへ
卯月20日
カラコルムへ
30kgの荷物が400個
500人のポーターを雇う
パキスタンの登山家アミール・マディがポーター頭
1913年生まれ
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バルトロ氷河にベースキャンプ
標高4,970m
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第2キャンプ - 標高5800m
水無月21日
マリオ・プショー、高地肺水腫で死亡
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デジオ教授は
アキッレ・コンパニョーニを
第1アタック隊に選ぶ
天候が悪化し足止め
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文月26日
第6キャンプ
標高6,970m
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第7キャンプ
標高7,345m
ヴァルテル・ボナッティは
体調を崩し第7キャンプに留まる
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文月28
第8キャンプ
標高7,627m
コンパニョーニはパートナーに
リーノ・ラチェデッリを選ぶ
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第9キャンプ
標高7,900mの予定だったが
標高8,100mに変更
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ボナッティはアミール・マディと
第9キャンプへ酸素を届けに行く
が、しかし
コンパニョーニとラチェデッリが
キャンプ地を変更した為
辿り着けず
標高8,000m地点でビバークを強いられる
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文月31日12:00
標高8,210m
16:00
コンパニョーニとラチェデッリが
チョゴリ(K2)初登頂に成功
標高8,611m
元々は映画ではなく
2夜連続で放送されたテレビ番組
計3:14分を再編集し劇場公開
山へ登るまでが長い
山へ入ってからも
登山より人間ドラマが長い
ちらりちらりと山頂が映るだけで
チョゴリ(K2)の遠景はほとんど映らない
チョゴリ(K2)がどんな山なのかは
まるで分からない
息が全然白くないし寒さが感じられない
撮影はチョゴリ(K2)じゃないかも
期待したのと違った
初登頂の裏の
チーム内のいざこざなど
人間模様を描く
下山後
コンパニョーニとボナッティは
法廷で争った
マディは重度の凍傷を負い
手足の指の切断を余儀なくされた
チョゴリ(K2)はイタリアの山じゃないよ
2013年 イタリア映画 125分
インド・カシミールのレーに行った時(1983年)
190km向こうに (白馬岳と富士山位の距離)
チョゴリ(K2)をが見えた
山の知識は全然なかったけど
欧州のツアリストが連なる山を指差して
教えてくれた
正直に言うと
多分あれかな?程度にしか分からなかった
詳しく聞き返すほどの英語力はなかったし
今となっては
僕が見たのが本当にチョゴリ(K2)だったのかも
確かめようがない
こんな風に見えたと思う
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