例是道   ~レーゼシナリオ論など-amateras


満島ひかりは、やっぱり注目の女優だと言わざるをえない。「愛のむきだし」およびそれとほぼ同時期に撮られた「プライド」がスゴい。音楽で言えば、サザンが「勝手にシンドバッド」を引っ提げて世に出てきたときのような感じだ(同じ音楽畑なら、椎名林檎がデビューしたときもそういう興奮があった。注目されてだんだん成長してゆくというより、荒削りではあるものの、ある境地に達してしまった人が山から下りてくるみたいなデビュー(厳密なデビューはもっと前らしいけど)で、あとは洗練されていけばいいだけだ。「処女作へ向けて成長する」を地で行きそうな感じがするのが頼もしい。十年くらい前に満島に似たタイプのカリスマ性と狂気を持った女優がいて、「ダイヤの原石がごろっと転がっているようだ」と評されて、私も期待したけど、いつまでたっても武骨なネオテニーっぽさが抜けず原石のままだった。満島はそうならないだろうと思わせる。

派手な出世作二作の後で、「カケラ」で静かで受動的な役をやったのもいい。「悪人」はつまんない話で、満島のビッチ芝居も可もなく不可もなくというところだが、死後に雨の中で柄本明ふんする父と対面する場面の「お父さん、わたし、死んじゃったよ・・・」みたいな表情は良かった。父のイメージの中の「いい子」のままの虚像なのか、それとも、絞殺される瞬間の反省と悔恨が幽霊みたいになって出てきたものなのか、微妙で判別しがたいのが素晴らしい。これは撮る側の功績も大きいだろう。

小林よしのり責任編集の「前夜」創刊号の表紙には、「この雑誌のコンセプトを表現できる微妙なオーラを持つ女優」ということで選ばれたらしい(SAPIO誌のゴー宣にそう書いてあった)。「日本は崩壊前夜なのか独立前夜なのか?」という瀬戸際感がこの雑誌のコンセプトであろう。ネガティブな役が多いのに観る者に元気を与える満島が、そういう瀬戸際感に通じる微妙なオーラをもってるというのは肯ける。

去年はテレビドラマ「おひさま」「それでも、生きてゆく」今年放映の「開拓者たち」などに参加したらしいが、テレビを見ない私はまだどれも見ていない。しかし、「おひさま」は散見したことがある。育子役の満島の直談判によって、黒柳徹子(子供の頃に教室にチンドン屋を呼び込んだという伝説の持ち主)が育子の晩年を演じたというのも納得。のびやかで元気すぎる女学生がピッタリで、ネガティブな役の多かった今までの満島とは違う面がよく出ているのがわかる。芸能人以外なら、ジャーナリスト櫻井よしこさんがイメージ的にピッタリですね。櫻井さんもあんなお上品な喋り方だけど、飛行士の免許もってるくらいアクティブな女性だからね、若いころは育子みたいだったんじゃないかと思う。

「それでも、生きてゆく」は大評判で、DVDのレビューに生涯のドラマのベストワンなどという人も複数いるようなので期待してます。

大晦日のtwitterで、紅白歌合戦にゲストで満島は出ないのか?と残念がるtweetがいくつもあった。なんか天照大神の再来という感じがする。名前も「島に満ちる光」ということで妙に合致する。「おひさま」とは満島のことか。


例是道   ~レーゼシナリオ論など


「川の底からこんにちわ」は、前にも書いたが、あのくたびれたOLサワコに、安易に「頑張る」と叫ばせ過ぎなのが残念だった。私なら、次のように修正する。OL時代のどこかのシーンに、上司が「頑張る、なんて言っても意味無いんだよ、仕事なんだから努力は当たり前、業績を上げろ」と言う伏線を張っておく。そして、サワコが父の工場復興のために奮起して演説するシーンで、オバサンたちに、会社で上司に言われた言葉「頑張ると言わずに業績を上げろ」をそのまんま伝える。(あのシーンはミュートで見れば独裁者みたいでカッコいいのだが、「とにかく頑張るしかない」なんて言ってて、台詞がダメだと思う。「業績を上げろ」のような即物的な台詞の方があの映像には合う)そして、ラストの父との死別のシーンで「お父さん、わたし業績を上げるわ・・・ううん・・・(涙)」とタメを効かせて、ここでやっと「頑張る!」と叫ぶ。
ラストで遺骨投げるときの台詞も「あんたのこと好きになりたい」よりは、バカ冷泉の「ちったぁマシな男になりやがれ、このデクノボウ!」のほうがましとおもう。
2chの「川の底~」スレに、私と同意見のレスがあった。「カッコ悪いのをカッコいいと言い出すようになったらオシマイだな。ダメで何が悪いと言いながら、だから頑張るとか、なにその自己矛盾。(中略)あと、”好きになる努力”とかワケ分からん。とっとと別れてください」ここまで辛辣ではないが、やはり同様のことを感じてしまった。
「川の底~」の満島で良かったのは、人とやりとりするのにウンザリしているような無気力演技。父が倒れたときに、涙が出てることに自分で驚いているくらい、感情が無くなっていた、という表現などかな(桑田の「真夜中のダンディ」の「この頬を濡らすのは、嗚呼、雨だった」の逆で、「涙だった」という)。生意気な少年のような顔が、「ハロルドとモード」とバッド・コートみたいに見えたのも良かった。
満島以外のことでいうと、彼氏が魅力無さ過ぎ。ダメ男だとしても「愛と追憶の日々」のジェフ・ダニエルズ程度にはキュートじゃないとな。その娘も可愛くなかったし。サワコにテニス部のキャプテンを奪われた過去を持つ地元女はなかなか良かった。工場のオバサンたちのリーダー格の人も良かった。笑いのテイストは、市川準とか川崎徹のCMや最近逝った森田の「家族ゲーム」とかに似ていて、新しくはない。「中の下」とか「駆け落ち」などにアナクロを感じたというレビューが多かったし、私もそう思ったが、これはこの監督/脚本家の持ち味なのかもしれない。何年後かにこの映画のタイトルを聞いて二番目くらいに思い出すのが、中の下や駆け落ちだろうというくらい印象に残ってるからね。これが「下流」と「援助交際」だったら見るときはすんなり入ってくるけど忘れるのも早いだろう。


例是道   ~レーゼシナリオ論など-oldman


キレ芝居が売りの俳優というと、前世期末なら、ロバート・デ・ニーロとゲイリー・オールドマンがいた。私は前者が好きで後者はそれほどでもない。前者のキレ芝居は、抑制とユーモアがあると思う。後者はストレートで青いので、「蜘蛛女」のときのように並の男を演じた方が彼の狂気の良さが出ると思った(ちなみに、マルコヴィッチも「ガラスの動物園」を観て、そうだと思った)。「愛のむきだし」の聖書絶唱のシーンは、ケープフィアーを参考にしたように見えるし、デ・ニーロ的であって、オールドマン的ではない。「川の底~」の演説の時のキレ方はほうは、オールドマンの方に近い。そこには抑制はあまりなくストレートだ。「愛のむきだし」の現場では、満島は「お前役者なら感動させてみろ、バカ!」などと園監督にシゴかれて泣いていた。「川の底から~」のほうは、後の旦那にディレクションされてる動画を見たけど、「何度も同じ台詞で、飽きてきちゃった」などと実相寺や金子などのベテラン監督の前では絶対見せなさそうな態度だった。そもそもオーディション時に「私を選ばないと損しますよ~」と毒キノコのように監督に迫って狼狽させたのだという。監督より女優の方が立場が上だったのか?ともかく「川の底~」では、あまり抑制されずにのびのびとやったのだろう。だから素の満島がよく分かるという意味では、ダブル主演とかじゃなくほとんど一人で看板を背負った「川の底~」は貴重だ。しかし、キレ芝居のキレ味は「愛のむきだし」のほうが段違いに良い。要するに何がいいたいかというと、園監督という猛獣使いがいた「愛のむきだし」のほうが、野放しの「川の底~」より良いってこと。

余談だが「川の底~」は、DVDジャケットのキャッチコピーもハズし過ぎ。「心が変われば人生が変わる、演技派女優満島ひかりが贈る・・・」みたいな代物だった。「心が変われば人生が変わる」っていうのはこの映画の一番ダメなところだろうに。頑張るしかない!と叫んで社歌を作って合唱すれば業績も上がるなんてほど人生は甘くないよ、と思わせてしまうのが、この映画の欠点なのだ。「演技派」というのも自分(のサイド)からは言わない方がいいな。冒頭に挙げたダイヤの原石ちゃんも演技派と呼ばれていたからね。原石ちゃんみたく、ハマり役はスゴいけどダメなときは学芸会レベルなんていうムラは、満島の場合にはほとんど無いから、演技が下手じゃないのは確かだけど、演技派と言われるとちょっとシラケてしまう。常套句を使うのなら「カリスマ女優」のほうが良いかな。「カメレオン女優」というのも日経エンタメで言われてたみたいだけど、これも微妙に違うかな。確かに一作の中でも同一人物かと思うくらい顔と声の表情が変わるのはカメレオン的だけど、どこまで自分でコントロールできてるのかは分からないからね(ホントはカメレオンの色変化だって習性で、随意じゃないんだけど、カメレオン俳優というと思いのまま七変化できるイメージだからね)。トーク番組で明かした演技論はわりと精神論的なものだったし。「人間力」とか言ってた(笑)。だから、あまり技術的な人じゃないのかもしれない。

全盛期のロバート・デ・ニーロも今にして思い出せば、そんなに演技派だったのか疑問だ。カリスマ性と仕事選びの妙が一番の魅力で、演技力はそこそこだったような気もする。しかし、映画俳優のあり方自体が彼の出現の前と後でかなり変わった。デ・ニーロが出てるから観たいという客を失望させることも少なかった。満島もそういうタイプだと思う。
経営コンサルタントのトム・ピーターズの著作に「ブランド人になれ!」という題の物があったが、デ・ニーロは自分を上手にブランド化した。粘着パラノイアみたいな役がウケるとその期待にある程度答えつつ、自己模倣に陥らないように、マッドドッグ&グローリーで気弱な男をやるとかしてイメージの固定化を避けた(それでも90年代後半には自己模倣を避けられなくなっていったけど)。満島も自分を上手くブランド化しつつ、かつ自己模倣を避けつつ前進してほしい。いまのところ、かなり注目している私でさえ、どんな顔が常態なのかつかめないくらい、本来的な意味でカメレオン的だ。

例是道   ~レーゼシナリオ論など


「モテキ」はテレビドラマだが、DVDを他は早送りして満島の出演シーンだけを見た。満島演じる「いつかちゃん」はちょっとオクテでオタクだけど今風の普通のカワイコちゃんで、こういうカジュアルな役も十分できるじゃないかと感心したけど、カラオケの音痴芝居はやりすぎでないの?あれでまた怪女優伝説に一頁が増えてしまったじゃないかとバカ冷泉も言っていた。音痴な人が絶唱して場内ドン引き、みたいな空気感をリアルに再現したという意味では成功したかもしれないけど、そもそもそんなことリアルに再現する必要あるの?ああいうのを体当たり演技と呼んではいけない。俺は「ポゼッション」のイザベル・アジャーニが上の口から泡吹いて下の口から経血タレ流して絶叫しまくる、みたいな「美人女優のコワレ芝居」(参照→http://www.youtube.com/watch?v=CMdP02jv8Bo&feature=related )みたいのに価値を感じないし嫌いだけど、あれを見てもぜんぜんOKというアジャーニ・ファンの友達もいた。あのカラオケシーンのほうも、ニコニコ動画でもおおむね好評で、このシーンでますます満島(及び、いつかちゃん)が好きになったというコメントが多かった。今風に言えば「イタ・カッコイイ」ってことか?俺には「普通に」イタかったぞ?俺なら、あそこはもうちょっと緩いシーンにして、原作にあった「いつかちゃんは音痴」という設定も外す。カラオケボックス内の奴らは音楽の趣味が保守的で年齢的にも二〇代がほとんどだから十代にウケる神聖かまってちゃんの歌なんてついていけない、みたいな空気にして、音程が外れていなくとも「セックスピストルズ」とか「クソみたいな曲」なんて歌詞の歌を女が涙ながらに熱唱するだけでドン引き。それを見ている森山未来と彼の目線にシンクロしている視聴者にとっては「(普通に)カッコイイ!」と感じられるようにする。フォルダーでコーラスやってたし、「プライド」でレオン・ラッセル歌うくらいだから出来たでしょ。「モテキ」はラブコメで、いつかちゃんの演技は、ダークなイメージの満島がゴールディ・ホーンやメグ・ライアン(あるいはちょっとギャグセンスがキツめなところはキャメロン・ディアス)並みのライトなコメディエンヌもできることを示せたはずなんだけど、あのカラオケ絶叫シーン(絶叫になる前のオドオドぶりは可愛かったし、アーやっぱり全然ダメだー、もうもうもーもーう・・・っていう内なる嘆きも素晴らしかったが)のところだけ、アジャーニや「蘭の肉体」のシャーロット・ランプリングみたいな狂女芝居になってしまった。前者群はアメリカ人で、後者群はフランス人だけど、フランス系アメリカ人のクォーターの血がそうさせたのか?

歌えるってことでオファーされる仕事はたくさんあるだろうけど、音痴役ができるってアピールして得することって別にないよな。「マイフェアレディ(バーナード・ショーのピグマリオン)」のような、下品な言葉遣いの花売りが上品に喋れるようになるってことをミュージカル風に表現した企画があればいいけど。
上記の「川の底~」スレのレスにもあったけど、カッコ悪い自分をさらけ出せば逆にカッコいい、みたいに若者たちが勘違いして、そのファッションリーダーが満島だ、みたいな風潮になって、その種の役ばかり来るようになったらイヤだなあと思って、あえて批判してみました。
ちなみに、「カケラ」のトイレシーンとか体毛未処理ってのは、別にイヤではなかった。女性監督によるものだから、意味がちょっと違うからね。「モテキ」のカラオケのくだりの前の回想シーンで、朝帰りで血染めのズボンってのも、満島の場合カラッとしてて、ぜんぜんOKで面白かった。ああいうのをチャレンジャーっぽくなくナチュラルに見せられるのは偉い。

「モテキ」で特筆すべきは、最終回で携帯で森山と満島が話すシーン。森山が「(写真の仕事で独立して軌道に乗ってることについて)いつかちゃん、頑張ってるじゃん」というと満島が「ねー」と返すのだが、この「ねー」がリアルだった。言葉の上では自信を前面に出しながら照れた言い方で謙遜する、というのかな?俺が子供の頃にこんな風に「ねー」という人はいなかった。まさに今風の「ねー」。誉められて「ねー」と同意するというのは本来不遜なのだが、ドヤ顔で「いえいえ」なんて謙遜するのは嫌味っぽい。それを反転させたような言い方。”逆謙遜の「ねー」”。会話ではこんな風に「ねー」というのは今ではよくあることかもしれないけど、映画やドラマでは初めて聞いた。これは新しいと思う。大根監督の手柄か満島の手柄か分からんけど、前者だとしても、演出の要請に答えられたのは満島の力です。


例是道   ~レーゼシナリオ論など-kawanosoko


「恨み屋本舗」の整形美人は、基本的に「プライド」の萌の意地悪な時の演技と同じようなものだったが、やはり見入ってしまった。イメージシーンで不細工だった自分の子供時代の姿を抱きしめるときにだけ優しい表情になるというギャップも心を打つ。ギャップといえば「クヒオ大佐」の子供嫌いな博物館員と、ラストしか見てないけど「さよならぼくたちのようちえん」の卒園式での保育士の子供好きな感じも、同一人物かと思うくらい違ってて良い(あの保育士も前半では子供嫌いだという設定らしいけど)。しかし、清水宏監督の「風の中の子供」のときも思ったことだけど、大人が感涙するようなことでは子供は泣かないものだ。幼稚園児というのは卒園式に感動して泣いたりしないと思いますぜ、坂元さん。これは満島の演技とは関係ないけどさ。

「ブラッディ・マンデイ」はラストのところだけ見たが、イマイチだった。テロリストっぽさが足りない。客演扱いだから、役を時間をかけて研究してないだろうな、というのが分かる。主人公に対して「○○くん、遊ぼうよ~」と挑発的に呼びかけるシーンでは、ケタケタ笑ってほしかった。冷泉も言ってたが、バットマンのジョーカーっぽく演じてほしかったな。その前のところで芦名星演じるテロ対策班員と格闘するシーンも運動神経鈍そうでダメだった。本人の弁でも50m13秒という足の遅さで、体育は苦手らしいのだが、ダンスはできるのだから、かっこよく見える戦い方を学んでほしい。そういう意味では「愛のむきだし」の乱闘シーンも無様だった。あれはわざと子供向けのヒーロー特撮モノみたいなチープな感じを醸し出そうとしたんだから、あれでいいんだろうけど。

「食堂かたつむり」は別に満島でもなくてもいいような役だったけど妬みから人の足を引っ張るような人の「悪いと分かってるけど反省してない」感じはリアルに出ていた。しかし、そのまま謝りもせずパーティーに招かれる仲間たちの一員になってるのは不思議(笑)。思えば「プライド」の萌も一回も反省しないままだったが、あちらのほうはライバルへの妨害工作もぎりぎりグレーゾーンだったので大して気にならなかったが、こちらのほうは明らかに悪事を働いてるのに赦されてしまうのは変(これも満島の演技とは関係ないけどね)。「ゲゲゲの鬼太郎」におけるネズミ男みたいなポジショニングなのか?ワルなのにちゃっかり仲間に入ってるという(笑)。

「時効警察」は「トリック」の仲間由紀恵(同郷)みたいな貧乏オオボケ美人という感じが面白くて、これは他の出演作品には無い味と思った。「愛のむきだし」以前に園シオン監督と撮ったものらしい。ほかの「むきだし」以前のものでは、NHKの「瞳」というので、フォルダー出身の面目躍如なダンスシーンを披露していている動画がYOUTUBEにあったが、兄貴にバカにされて「絶対勝とうね!」と闘志を燃やすところが、プライドの萌みたいには性格が歪んでない下町の負けず嫌いという感じで、これもまた良かった。この役で見せたような、坂井真紀とか「バウンス・コギャル」の主役を演じた佐藤仁美(って居たよな?)のような、強気でチャキチャキしたキャラというのがあるけど、満島にはそういう味もありつつ、女らしいときもあって、それが全くの別人のように見えるのがスゴいところだ。中性的というより両性的なのだ。太宰原作の「カチカチ山」というドッグヴィルみたいな企画があったけど、あそこではまさにその両性ぶりが全開だった。「生まれてすみませんっ!」と、出だしのタイトルを叫ぶときのハスキーな少年声は「ドラゴンボール」の孫悟空もやれそうだ。あと「僕と彼女とその彼氏(ゆうれい)」?とかいう短編映画DVDも借りたけど、あの女子高生はお転婆でも男勝りでもなくただ粗暴なだけ。野蛮な女やだァ♪ってことで見るのを途中で止めました。問題外。

そうだ。「徹子の部屋」で三池崇史監督を「ああいう外見なのに母性のある人」と評してたけど、満島には父性がありそうだ。

ドヤ?テラ甘スギではないよな?もはや満島はアマテラスなんだから、「おひさま」なんだから、つまり公共財なんだから、呈すべき苦言は呈させていただきました。


例是道   ~レーゼシナリオ論など


追記:後に、「ウルトラマンマックス」のエリーがフィーチャーされた二話と視聴率では惨敗ながら好評価の「それでも、生きてゆく」全話を観た。

 前者について。こういう役をあてられるのは、ある意味女優としてナメられているというか、新人なんだから「お人形」でいいよってことでロボット役なんだろうけど、期待以上に役作りをしていて、好感が持てる。その努力に心を打たれた金子監督が「プライド」を満島のために企画したんじゃないかと勘ぐってしまうほどだ。「エリー破壊指令」のラストの笑顔は百万ドル級だ。これ以降の作品ではこういう役をやってないだろうから、他の作品との「キャラのかぶらなさ」においては最高だ。


例是道   ~レーゼシナリオ論など-kesi

 そして後者「それ生き」だが、やはり作品自体のパワーがスゴい。冤罪を信じたがっていた双葉が事件現場で咲き乱れるヒナゲシの花を見て兄の有罪を確信してしまうくだりは映像的にはキレイなだけなのにホラー映画顔負けの恐怖の効果があった。他にも良いシーンが幾つかあったが、ここでは挙げない。
 しかし、果樹園をめぐるエピソードには首を傾げたくなる部分が多い。元殺人犯フミヤに小さな女の子がナツいて抱きついたりするくだりは、アメリカ人が観たら「アンビリーバブル!」と叫びそうだ。アメリカなら、あんな状況になることに対しては、未然に何らかの社会的な防御の力が介入するはずだから。「はじめてのおつかい」という日本の人気番組をアメリカ人に見せたら「子供を一人で長時間歩かせるなんて信じられない」という反応が大きかったらしい。で、最近は日本だってあんなに無防備じゃないだろうよ。小野武彦演じる果樹園の経営者が子持ちの出戻り娘に事件のことを全く伝えてないというのも、危機管理が無さ過ぎでアホかと思う。あのオッサンは本当にバカだと思う。双葉を孫の母代わりとして受け入れるのも不思議で、実母についての真実が分かったとき子供がどう感じるかを考えてないのだろうか?その意味では双葉も同罪だけど。
 双葉と洋貴のラブロマンスとしても、疑問が残った。二度と会わない決意が語られ、互いの手紙も枝に括りつけるだけって、いつの時代のロマンスよ。織り姫と彦星じゃないんだから。事件に対して無用な責任を感じている二人が、携帯電話のような現代的なツールに対して軽薄の感を抱いて所有を自制してるのならともかく、二人ともケータイを使いこなしていたしね。加害者と被害者の関係性や世間体を気にして、あるいは被害者遺児の母代わりという難題に取り組むために禁欲して、会うのを自制するというのならまだしも、電子メールのやりとりくらい許されるだろうに。っていうか、最先端情報機器ってのはこういうケースのためにあるんじゃないの?会うのが困難な人等のためにね。嫌がらせしてた大竹しのぶ演じる被害者の母でさえ、双葉に「幸福を求めてもいいのよ」と、おそらくは双葉と洋貴が惹かれあってることを承知の上で、言ってたわけだし、二人の仲を妨害するものって「世間」以外には何もないはずだ。で、どうせドラマなんだから、フィクションなんだから、世間と戦う道を選んでほしかった。いや、戦うべき世間などというものも無いのかもしれない。事件から15年経っていて、加害者・被害者の親同士ならともかく、事件当時小中学生で事件に深く関わってもいない双方の妹と兄同士が恋愛関係になって何が悪いと問われて明快に答えられる「一般人」などいないだろう。
 満島の演技については、気が優しくて、よく言えば芯が強いが悪く言えば結構ふてぶてしくて図々しく見えるときさえあるけど、やっぱり挙動のどこかしらに事件の暗い影がまとわりついている、というヒロインの常態を持続的に演じるのは大変だったろうなと、そこにまず感心した。
 満島出演作を初めて見た人にとってはたぶん、自首前の兄に跳び蹴り食らわせた暴力シーンとか、「15年間悲しんでた人がいるんだよ?泣きすぎて涙も出なくなった人がいるんだよ?」と兄を追いかけていく長台詞のシーン(ここでも軽トラを蹴っているw)あたりが見せ場ということになるだろうが、私にはそれほどの新味は無かった。具体的なシーンを抜き出して賞賛するなら、風吹ジュン演じる母がフミヤは実子じゃないと告白するシーンかな。双葉が「え?じゃ、私はどっち?」と思わず洩らし、平静を装い食器を洗いながら「参ったな・・・」と呟くくだり。その後の野茂の投球フォームの物真似までも含んだシークエンスが素晴らしかった。平静の装い方は「川の底から~」の無感動芝居に似てなくもないが、厭世感からの無感動じゃなくて、家族を心配させないためにそれを装うということだから、今までには無かったタイプの演技であった。
 それにしても、妹が(それなりに慕っているはずの)兄貴を殺しに因島に行くのに「おっしゃ!」と体育会系的な気合いを入れる、なんて、つくづく異様なドラマだよなあ。最終回の前の回のラストあたりはよくこんなことドラマでやろうと思ったよなあと感心した。洋貴の自嘲的笑いとか、「お釣り」とか、そして跳び蹴りw。そこに優しい音楽がかぶさるのは先述のヒナゲシのシーンとも共通するけど黒澤やキューブリック顔負けの対位法。
 あと、特筆すべきは台詞。「~的な」とか「このへん界隈」とか、俺は本来ああいう喋り方が嫌いだけど、このドラマでは非常に良かった。ああいう喋り方は最近の若者はあまりしてなくて、ちょっと前の流行りって感じで、時期尚早な90年代レトロという趣がある。脚本家の坂元さんは「東京ラブストーリー」なんて書いてた人だから作品見もせずにトレンディな資質の人かと勝手に思ってたけど、むしろ遅れることを恐れぬマイペースの人なのかもしれない。


例是道   ~レーゼシナリオ論など-ひゅうが

日向夏