「シネポエム」には二つの異なる意味がある。ひとつは、こんにちで言えば化粧品などのお洒落なCFや商業音楽のカッコいいPVのような、詩的な映像作品であり、もうひとつは、竹中郁の『ラグビイ』のようなシナリオ形式の詩のことである。前者は映画の中に詩(=文学)を取り入れるという趣であり、後者は文学の中に映画を取り入れるという趣である。そして、両者の物理的な素材は全然違う。前者はフィルムであり後者は紙とインクだ。

「レーゼシナリオ」にも二つの異なる意味がある。ひとつは、ジェームズ・ボールドウィンによるマルコムXを題材にした映画用シナリオのように、(しばしば文学者が書いた)文学的な(そして、しばしば映画化されなかった)シナリオのこと(具体例について言えば、厳密にはスパイク・リー監督が映画化したのだが、リー自身を含む数人の脚本家によって改変され、原作者の名前はエンドロール等に表記されなかった)で、もうひとつは、ダリウス・ジェームズ『ニグロフォビア』に代表されるシナリオ形式の文学作品のことだ。こちらのほうは両方ともテクストであるから、物理的にはどちらも同じく紙とインクから成る。しかし、前者が「映画的なるもの」に「文学的なるもの」を取り入れたのに対し、後者が逆であることから、シネポエムという語の両義性と相似関係であるとも言えよう。

さて、レーゼシナリオという語の創始者である可能性が高くなってきた映画評論家兼詩人・北川冬彦もやはり、その語を両方の意味で考えていたと思われる。伊丹万作監督の「散文映画のシナリオ」を評価する一方で、竹中郁らとともにシネポエムも書いていたからだ。しかし、チャンバラ映画が隆盛を極めた時代ならともかく、いまや文学的なシナリオ(および映画)などというものは当たり前になっているのであって、前者の意味におけるレーゼシナリオは、単にシナリオと呼んでもよいようになってきている。すると後者の意味が浮上してくる。そもそも、「レーゼドラマ」と「シナリオ」の合成語であるこの語の文字通りの意味としては、後者の方がふさわしいのだから、時代を経て本来的な姿に回帰したと言うべきだろう。

さて、荒井晴彦の『シナリオ神聖喜劇』は前者だろうか後者だろうか?これは間違いやすい問題である。荒井は雑誌『映画芸術』の編集者でもあるところから出版関係者と言えなくもないが、たとえば鎌田敏夫や山田太一のように(ノベライズではない)小説も書いたことがあるような脚本家ではない(つまり、純に映像畑の人である)ことから前者のレーゼシナリオのように感じられるかもしれぬが、この本が作られたプロセス(太田出版の編集者・高瀬幸途が執筆依頼し、映画製作は副次的であると認識しながら荒井が依頼を承諾した)を見れば、後者であることが分かる。

そして、この私は後者の方にしか興味が無い。映画『この世界の片隅に』(セカグーという略称を提唱中)のクラウド・ファウンディングが話題になっているが、先に書物(文芸作品)としてレーゼシナリオを出版してしまい、その後このような資金調達方法で映画製作をするというようなやり方を、私がかなり前から提案していたのは本ブログの過去エントリーを見れば分かるだろう。もちろん、出版は映画製作から独立しているから、べつに映画製作が行われなくてもよい。

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セカグーについて

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『この世界の片隅に』観てきました。世間では絶賛の嵐なので期待感いっぱいでしたが、残念ながら「大好きな映画」にはならなかった。帰りに『君の名は。』のポスターを見かけ、ちょっとだけ「こっちにしとけばよかったかな?」と思ってしまった(笑)。

軍港の街は実に巧く描けていた。ここは軍事オタク監督の面目躍如でしょう。

しかし、脚本的に(人間ドラマ的に)二箇所、難点があった。


①リンさんという遊郭の女性は原作ではもっと活躍するらしいのだが、映画版ではちょっと出てきてヒロインと会話する程度の出番しかない。しかし、映画の終盤、終戦後生き別れた身内を捜す人たちに出くわして人違いされるくだりで、ヒロインは独白でリンさんに言及する。しかし、あの程度の触れ合いで、リンさんがヒロインにとっての重要人物になるだろうか?ヒロインがリンを重視する理由は原作を読まないとよく分からないのだろう。つまり、原作に寄りかかっているのではないかと思った。

 

②兄の戦死の可能性について聞かされたヒロインが心の底でそれを喜んでいることを自覚して「(私は)歪んどる」と反省するくだりがあったが、そんなに(=優しいヒロインからも嫌われるほどに)意地悪な兄貴だったかな?と思った。ここも唐突。

 

②については自己解決した。冒頭の明るい幼年期時代から「悲しくてやりきれない」という歌が流れるのは、この作品が、客観的な視点からではなく、終戦後のヒロインの悲しみに彩られた視点から描かれた回想形式の作品であることを表していると思われる。座敷童がリンさんに似てると言われるのも、リンさんに会った後の視点から改変された記憶だからであろう。同様に、「鬼イチャン」の戦死を喜んだことを反省した後のヒロインの記憶の中では、兄は「ほのぼのタッチ」に改変されているのだ。

 

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メンヘラ女が出てくる映画なんて珍しくないけど、この動物形態模写女は新鮮だ。周囲の反応も、屋外ではさすがにチラチラ視線が刺さるという感じだが、夜の店では「この子はこういう子なんだから」という感じで自然に受け入れられている、というのもリアルでよい。

 

松本人志が『シネマ坊主』という映画批評コラムで『ミザリー』のキャシー・ベイツが豚のように鼻を鳴らすところに注目し、自作の『R100』で大地真央に『丘を越え行こうよ(正式タイトルはピクニック)』を歌わせアヒルやヤギの真似をけっこう本気でやらせた。山下監督は松本コントからの影響をどこかで語っていたし、『ユメ十夜』の担当話なんて、もろに松本コント風だった。

 

山下が上記の記事やシーンを見たかは分からないが、この映画での聡の鳥真似パートは、松本の『この女、いま動物の真似したでぇ』という狂気への恐怖感がシリアス映画向けにに発展したものと見えた。

 

市川雷蔵も出た昔の邦画のシナリオだが、「月刊シナリオ」に再録。

 

解説を見ても、これがエスペラント語を使用した映画であることには触れてなかった気がする。そこは残念。

 

伊藤大輔によるシナリオで、この人は北川冬彦の著作『シナリオの魅力』で、山中貞雄らと同様「韻文映画」の人だが、浅薄ながらもキャラクターの自我の芽生えを表現して、伊丹万作という「散文映画」の巨匠が登場する道を切り拓いた脚本家・監督であると評された人だ。

かつて、ボブ・ディランの'Bucket of rain'の一節について、このブログでも書いた

 

彼が、村上春樹を押しのけて、ノーベル文学賞を取った。まあ、春樹と同様に前から受賞候補として噂されてたからね、さほど驚かん。

 

ガロ『学生街の喫茶店』などで、日本人にとっては馴染みの深い名前。保父ディランなんてバンド(ユニット?)もあったよな。近田春夫は、「サウンド派の俺には、(歌詞が肝らしい)ディランのどこがいいのか分らん」と言ってた。

 

ぶらんしぇっと

ケイト・ブランシェット演じるディラン

不活腑理論

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昔、このブログでふれた、「とっておきの話(レーゼシナリオについての、未発表理論)」は、課金サイトで発表しようと思ってたけど、突然そんな気がしなくなった。それほどのネタでもないと思うようになったのだ。

 

かといって、ここに書くのも何か気が乗らぬ。書こうとすると手が止まるのだ。それゆえに、このネタを「不活腑理論」(”腑”の字は内臓という意味のほかに心を意味する。書こうとすると心が不活発になる理論ということで)と呼ぶことにした。

 

考えてきたことを忘れて、無かったことにするのも勿体ないし。喋りを録音してYOUTUBEに発表するのはもっと面倒。

 

では、どうすればいいか・・・

文工(ぶんく)

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「文学」という語は「文芸」そのものと「文芸を研究する学問」(文芸学)の両方を意味するから紛らわしいので、前者の呼称としてはなるべく「文芸」という語を使いたいという意味のことは前にも書いたかもしれない。

 

しかし、かつて人々が文芸を「文学」と呼び始めた時期には、「娯楽のためだけではなく、人生について学ぶための読み物」というニュアンスを求めて、「学」(學)という厳めしい字が好まれて受容されたという背景もあろう。正式名称は「文芸」で、ある時期(近代)におけるニックネームが「文学」だったと考えるといいかもしれない。

 

小説帝国が滅びて、レーゼシナリオの時代が到来した暁(=現代)にも、文芸に対する当世風のニックネームがあったらいいと思う。

 

それが「文工」だ。「ぶんく」と読む。「細工」が、「工夫して作る行為」と「工夫して作った物」の両方を意味することができるように、「文芸を書く行為」と「文芸作品」双方を意味することができるようにしよう。

 

イェイツの詩に、「どうやってダンスとダンサーを区別できようか?」というのがあるらしいが、文工は、文芸だけではなく、それを書く人(作家)をも意味することができることにしよう。

新経連

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http://blog.livedoor.jp/muchink/archives/52135141.html


楽天・三木谷さんが結成。ユニクロは経団連に参加せず。ソフトバンク孫さんも経団連と仲悪いとか。ユニクロ、ソフトバンクもここに合流して、岡田民進党(彼が代表じゃなくても)の資金源になる、という流れだろうか。


今日、雑誌「サピオ」読んだら、新経連は、自民党不支持、反原発だとか。