出雲二千年の謎が秘められた荒神谷遺跡〜初夏出雲行(46) | 日々のさまよい

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大地の豊穣を守る水神が坐す御井神社~初夏出雲行(45)←(承前)




いよいよ、この初夏出雲行で最後の訪問先となる荒神谷博物館へと到着しました。
博物館の正面玄関から、荒神谷遺跡へと向かう方向です。

荒神谷博物館

ここは、出雲市斐川町神庭(かんば)。
神庭とは、神の庭ということでしょうから、中々に神々しい聖地かと思われます。

神庭は出雲国風土記における出雲郡健部郷(たけるべのさと)の一地域で、健部の郷は景行天皇の勅により倭健(やまとたける)の名を後生に遺すため命名された地名で、元の地名は宇夜(うや)の里だったそうです。

宇夜の里という名の所以は、かつて宇夜都弁命(うやつべのみこと)という神がこの地の山に天から舞い降り、その神の社である神代(かみしろ)神社が鎮座していることによる、ということです。

玄松子の記憶/神代神社
玄松子の記憶/宇夜都辨命


さて、博物館のホールから導入展示室に入ると、歴代の土器などが、ほぼレプリカですけれど、ドラマティックなライティングでディスプレイされています。
基本的に博物館内が撮影禁止でしたからカメラは仕舞ってしまい、ここでの写真は何もありません。


奥の荒神谷展示室では、大画面モニターで『荒神谷遺跡発掘ドキュメント』が上映されており、なかなか迫力あるその実体が見応えたっぷりでした。

ただ、もうあまり時間がありませんでしたので、ユックリと観覧する余裕のないままホールへ戻りましたが、そこで黄金色に輝く銅剣・銅鐸・銅矛のレプリカが持てるように展示されており、それには一時かなり盛り上がりました(笑)

原寸かつ実際の重量があるとのことでしたから、手に取ってみると思っていたよりかなり大きく、何よりずっしりと重かったことがリアルな体験です。

4travel.jp/ひとり旅[510]想い出さがして<荒神谷遺跡/銅剣が358本も出土した地>島根県斐川町





小雨に濡れる2000年(大賀)ハス。

2000年(大賀)ハスとは、千葉県千葉市の落合遺跡で今から2000年以上前の実として発掘され、ハスの権威であった植物学者の大賀一郎が発芽育成に成功し開花したことで米国ライフ誌にも「世界最古の花・生命の復活」として報道された古代ハス、ということです。

Wikipedia/大賀ハス




ハスの葉に溜まった雨水が、ゆるやかな風に合わせコロコロとたゆたいます。


YouTube/博物館荒神谷/古代出雲人の聖地 荒神谷

上にご紹介した動画は、荒神谷博物館ホームページのトップページに貼られているものですが、出雲平野における荒神谷遺跡の位置的な状況のよく分かるのが、このシーンです。


はじめに/歴史的混沌-謎と闇が多すぎ~初夏出雲行(5)で書きました、私的に衝撃だった感想の3点は、このようなことでしたけれど、

1)人里から思っていたよりずっと近い
2)銅剣を埋めて隠すというには、あまりにも浅い
3)何でこれが2,000年もの間、見つからなかったの?

その「
1)人里から思っていたよりずっと近い」ということが、お分かり頂けるかと思います。





国指定史跡 荒神谷遺跡 (簸川郡斐川町神庭)

この史跡は、昭和59年(1984年)農道予定地の発掘調査で全国最多の銅剣358本が出土、翌年に隣接地で銅矛16本、銅鐸6個が出土し、日本古代史上最大の発見として大きな脚光を浴びた遺跡である。これら弥生時代の青銅器群が埋納されていたのは、仏経山(『出雲国風土記』記載の神名火山)から延びる山間の小さな谷斜面で、現在は発見当時の状況が再現されている。
出土した銅剣はすべて「出雲型銅剣」ともいわれる中細形C類とされるもので、全長50~53cmあり、うち344本には基部に×印が刻まれている。同型式の銅剣は山陰地方でこれまでに3ヵ所11本が出土しており、地元産とする説が強く、この地方の弥生時代を考えるうえで鍵を握る青銅器である。銅鐸は高さ約22~24cmの小型品6個で古い型式である。銅矛は長さ70~84cmで、刃部を綾杉文に研ぎ分けた例があり、北部九州産と考えられている。
青銅器が埋納された時期は、弥生時代中期後半から後期はじめと考えられており、いわゆる邪馬台国が登場する以前にあたる。この時期、ここに多種類の弥生青銅器が大量にかつ一括して埋納されたということは、他に例がなく、出雲地域に近畿地方や北部九州と同じほどの勢力が存在したということを証明するものである。また、学術調査で青銅器の埋められた様子が確かめられた貴重な例でもある。出土青銅器は国宝に指定されている。

昭和62年(1987年)1月8日指定・・・・・・・・・・・・
平成12年(2000年)3月 島根県教育委員会
斐川町教育委員会






博物館から、右に広がるハス田を望みながら左手に迫る山裾に沿った歩道を行くと、ほんの数分で荒神谷遺跡に辿り着きます。


ところで、この「荒神谷遺跡」という名称ですが、実のところ、この谷が荒神谷というわけではないそうです。
荒神谷史跡公園内のすぐ近くに荒神さん広場という場所があり、そこの杜に三宝荒神が祀られているそうですが、その谷とこの谷は隣同士ですが違う谷です。

西暦弐千年壱月五日開設/荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡
荒神谷遺跡の名称について、少なからぬ専門学者より、荒神谷はこの谷の本来の名前ではなく隣りの谷の名前が誤まって付けられたものであり神庭荒神谷遺跡、若しくは神庭遺跡と呼ぶべき、との主張があります(注:参考文献(3)14項「今まで、一般的には「荒神谷」と呼んでいるのを、ぼくたちは「神庭」とよびかえようとしているんだから(佐原真)」)。
(中略)
地元斐川町発行『荒神谷遺跡』(参考文献(5))によれば「遺跡の近くには昔から「荒神さん」が御祀りしてあったので、この遺跡を荒神谷遺跡とよびました」とあります。つまり、正確な名称よりも、すぐ近くに荒神様があったので、それに因んで名付けた、ということです。
(中略)
荒神谷遺跡は冒頭にも触れました通り実際には荒神谷には無く、神庭西谷にあります。神庭(かんば)はその字の如く神事に関係のある地名であり、西谷も「にしたに」と読まず敢えて「さいだに」と読むことから、古来は「西⇒さい⇒斎・祭」だったのではないか、という可能性も有り得るようです。

そこで、その経緯を調べていましたら、その命名に関する新聞記事が↓こちらに転載されていましたので、孫引きになりますけれど引用させて頂きます。


邪馬台国大研究/全国・遺跡旧跡案内/38.島根・神庭荒神谷・加茂岩倉・猪目洞窟他
荒神谷 それとも 神庭荒神谷? 国、県、町で名称混在 

遺跡の名称は荒神谷、それとも神庭荒神谷? 遺跡の名前をめぐって島根県が「神庭荒神谷」、地元斐川町は「荒神谷」を使い混乱があったが、斐川町も国宝指定を機に、県にならって神庭荒神谷を採用する方針。ただ、国は今後も荒神谷を使い、混乱は尾を引きそう。
荒神谷遺跡の名称は、出土地奥の別の谷の名にちなむ。しかし、その出土場所が斐川町神庭だったことから、研究者の中にはなぜ神庭を遺跡名につけなかったのか、と発見当時から疑問の声も出されていた。研究者の意見を入れ、神庭荒神谷と称されるようになったのは、県教委が作製した遺跡の調査報告書から。昨年開催の古代出雲文化展でも踏襲され、一般化した。今春の島根県の公立高校入試問題には「神庭荒神谷遺跡」として登場したが、「どこの遺跡?」と戸惑った受験生もいた。これに対し、地元斐川町は、県教委から何の相談もなかったことから、遺跡案内標識や印刷物などすべてを、先例に従って荒神谷のままできた。しかし、3月末に開いた町文化財保護審議会で、名称変更の意見を聞いたところ、神庭荒神谷とする方向でまとまった。県と協議した上で、文化庁への遺跡名変更申請がこれからの課題となる。
-1998年4月22日(水) 山陰中央新報より転載-

けれども結局、今は「荒神谷遺跡」に落ち着いているようですね(苦笑)




荒神谷遺跡発掘再現
島根県出雲市斐川町神庭

1984(昭和59)年、このあたりに新しく広域農道を建設する計画がありました。遺跡があるかどうか、それを確かめるために予定地のところどころを掘ることにしました。7月11日発掘開始、2日目に小さな銅片がみつかりました。「青銅器だろうか」「まさか」と発掘関係者は思いました。しかし、そこから銅剣358本が発見されたのです。このときの発掘調査はひとまず9月に終わりました。
まだまだあるのではないか。翌1985年の7月、地中に電波を発射したり、電気を流して地下の状況を探る装置を使って地表面から調べたところ、銅剣の東7メートルほどの地点で反応がありました。そこを発掘すると、銅鐸6個と銅矛16本がみつかりました。
ここで発見されたのは、コメ作りのはじまった弥生時代の青銅製の祭りの道具です。それがこれほど多数まとまって1か所から出土したのは初めてです。3種類の祭りの道具が1か所からみつかったのもここだけです。しかし、なぜこれほど多数まとめてここに埋めたのか、それはまだ解けていない謎です。
農道は計画が変更され、1987年には、このあたり一帯、約1.3ヘクタールを史跡に指定、保存することになりました。
斐川町は現地に発掘状況を再現しました。現地に立ってください。そこで発掘当時の感動を味わいながら、二千年前、ここに祭りの道具を埋めたわれわれの祖先のこころに想いをはせてください。

空から見た荒神谷遺跡

指揮管理・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 文化庁・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 奈良文化財研究所・・・・・・・・・・・・・
 島根県教育委員会・・・・・・・・・・・・・
写真提供・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 島根県教育委員会・・・・・・・・・・・・・
 (財)リモート・センシング技術センター・・・
   1990年11月修正・2011年 3月
     出雲市




遺跡の全景。
左が銅剣358本のレプリカ、右が銅鐸6個と銅矛16本のレプリカです。

あと地面についても後ほど調べて詳しく分かったことですが、実はレプリカ、というか発掘現場再現工事によって、実際の遺構面を保護したその上に作られたものでした。


奈良文化財研究所/全国遺跡報告総覧/出雲神庭荒神谷遺跡
13824_14_出雲神庭荒神谷遺跡.pdf

出雲神庭荒神谷遺跡 第4冊(史跡整備、保存修理報告)1995年 島根県教育委員会
第2章 遺跡の整備
第3節 遺構・遺跡の整備
3. 事業の実施
(1) 経過と事業費


(2) 発掘現場整備工事
1989年度工事
・発掘現場再現工事
発掘現場再現工事は、銅剣・銅鐸・銅矛の出土状況の復元を主たる目的としたものであり、出土時点に保存用のため設置された土のうを取り除き、新たに遺構面の保護を行うために5~15cmの砂による保護層を形成した。その上面に新たに試掘面を復元するための構築基礎となるよう、また、法面を強度的にも安定な状態に保つために、防錆エキスパンドメタル(低融点亜鉛メッキメタル)と軽量GRC (耐アルカリガラス繊維補強コンクリート)厚み20mmにより一体的な不透水性の支持層を形成した。
次にその上に部分的にスランプ0に調合した山砂モルタル(標準200kg/㎡)によって試掘トレンチの復元原型を作成した。また、施工面へ乗れるようになった段階でさらに形を整えるため切削を行い、不足の所は同配合の山砂モルタルを付け送りし、形を整えることとした。
次に、表層には景観性や耐久性等に配慮し、現場土と樹脂を混練したものを使用するものとし、樹脂の種類や配合等については現場土を使用した予備実験の結果に基づいて決定した。
(後略)

つまり、現況で見た地表から遺跡の深さと実際に発掘した深さは、およそ30cm前後くらい違っており、それだけ今の見た目は浅くなっているということでした。

そこで、実際に発掘された時の写真を見てみると、↓このようなことです。


奈良文化財研究所/全国遺跡報告総覧/出雲神庭荒神谷遺跡
13824_1_出雲神庭荒神谷遺跡.pdf
出雲神庭荒神谷遺跡 第1冊 本文編 1996年3月 島根県教育委員会

口絵2
銅鐸・銅矛出土状況


これは、右の銅鐸6個と銅矛16本が出土した状況の写真ですが、上の現況を撮った写真と比べると、明らかに掘り下げた法面(のりめん)の高さがかなり違います。

ということで、当初に私の抱いた「2)銅剣を埋めて隠すというには、あまりにも浅い」という感想は、ちょっと大げさなものだったと分かりました。


けれど、この出土状況写真で分かった実際の深さでも、やはりそれほど安心できるものでないことは確かです。

往事はもちろん現代においてさえ、黄金色に輝く銅剣や銅鐸銅矛がどれほどの価値があるかと考えれば、あれほどの数量をこの程度の深さに埋めるだけで秘匿し続けられるものかどうか、非常に危ぶまれる状態であったことにかわりはありません。

2000年という長い歴史の中で、もしこの埋納を不心得な余所者が知ったとしたら、おそらく一夜の内に全て持ち去ることも可能であった状況です。
あるいは何かの拍子で、第三者が偶然に発見してしまったり、激しい風雨による土砂崩れで露出してしまうことも、大いにあり得たことだと思えます。

まして、この地が人跡未踏の険しい深山渓谷であったのならまだしも、あまりにも人里に近い、それも目の前が現役の田畑だったようですから、どうしても「3)何でこれが2,000年もの間、見つからなかったの?」という驚嘆の思いは増すばかりです。

私にはこの謎こそが、出雲という地に秘められた謎そのものの構造を表しているのではないか、という風に思われてなりません…


奈良文化財研究所/全国遺跡報告総覧/出雲神庭荒神谷遺跡
13824_1_出雲神庭荒神谷遺跡.pdf
出雲神庭荒神谷遺跡 第1冊 本文編 1996年3月 島根県教育委員会

口絵5

神庭荒神谷遺跡近景




銅剣358本レプリカのアップ。
斜面に平らな面を掘って、埋納しています。




さらにアップ。
発掘された時の通り、整然と銅剣が並びます。


左から、A列・B列・C列・D列と名付けられ、手前から1・2・3…と番記されています。
C列の手前4本(C1~C4)がずり落ちかけており、それらが最初に発見された銅剣群で、地表下50cmであったということです。


奈良文化財研究所/全国遺跡報告総覧/出雲神庭荒神谷遺跡

13824_1_出雲神庭荒神谷遺跡.pdf
出雲神庭荒神谷遺跡 第1冊 本文編 1996年3月 島根県教育委員会
第2部 神庭荒神谷遺跡の調査
第2章 調査の概要
第1節 1984年度の調査(足立克己)
2  銅剣調査の概要
発掘調査二日目の夕方、第8試掘坑から銅剣が出土した。第8試掘坑は南向きの斜面にわずかに平坦面を発見し、掘立柱建物跡か横穴墓でもあればと思って設定した長さ5m 、幅1.5m のトレンチで、斜面下半の地表下50cmのところで銅剣4 、5本が重なった状態で横たわっていた。
(中略)
最初に発見した銅剣群は、実際の銅剣列の中ではC1~C4にあたり、ちょうど埋納坑からずり落ちた銅剣たちであった。
(後略)





銅剣発掘再現──1984年8月の状況

穴のなかに4列に並べて埋めた銅剣がみつかりました。左から、34本、111本、120本、93本合計358本です。右の銅鐸や銅矛と同じく、銅に錫をを加えた合金の青銅を材料としたものです。ただし、製作当初は、このような青い色ではなく、金と銀との中間のような光り輝く色でした。銅剣は、本来は短い柄をつけた短剣で、突き刺す武器です。それが弥生時代の日本では扁平な大型品になり、祭りの道具に使われるようになります。この銅剣も祭りの道具で、柄もつけなかったものでしょう。刃を研いですり減った痕跡もありません。ここでは、銅剣の出土した地面の上に30センチほど土を盛って発掘当時の地表面を再現し、そこに青銅器の複製品を出土した状況で置いてみました。

わざわざ資料を探して詳しく調べなくても、ここにちゃんと「銅剣の出土した地面の上に30センチほど土を盛って発掘当時の地表面を再現」と書いてありましたね(苦笑)




銅鐸6個と銅矛16本のレプリカをアップ。

ここから近くの加茂岩倉遺跡で発掘された39個の銅鐸のうち、13組26個は中型鐸の中に小型鐸が納められた「入れ子」状態で出土しましたが、こちらの銅鐸は「入れ子」状態ではありません。


加茂岩倉遺跡ガイダンス

Wikipedia/加茂岩倉遺跡
遺跡は先に発見され358本の大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから両遺跡は関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっている。これらの二つの発見から、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきている。




さらにアップ。
その置き方にも、何か法則があるのかも知れません。




銅鐸・銅矛発掘再現──1985年8月の状況

左の銅剣がみつかった翌年、銅鐸6個と銅矛16本が1つの穴のなかに埋めた状況で発掘できました。銅鐸は中に棒をつるして鳴らします。弥生時代の農村では、その音が鳴って祭りが進行したのでしょう。ここで発見された銅鐸は、細かくみると、文様や形などに他にはない独得の特徴をもつものも含まれています。銅矛は、もともとは柄をつけて槍のように使った武器ですが、ここにあるものは、幅も広く、大きくなり、柄を差しこむ根元の穴に鋳型の土が詰まったままで、柄を差しこむこともできません。刃の部分に光を受けると独得の反射をする研ぎかたをしたものもあります。悪を倒す威力をもった祭りの道具だったのでしょう。銅矛は北部九州を中心に中・四国からも出土し、銅鐸は近畿地方を中心に東西にひろがっていますが、この2種類が一緒にみつかったのは、ここ荒神谷遺跡だけです。




遺跡の正面を歩いて反対側に来ました。
発掘されるまでは、この空間一帯も木々に覆われた森だったことと思われます。




こちら側からもアップ。




遺跡をグルっと周遊できるよう、山の尾根には道が拓かれています。




山道から、もといた方まで帰ってきました。
これにて遺跡ともお別れとなります。




来た道は右手の山裾にある歩道でしたが、帰りはハス
奥のあぜ道を辿って戻りました。
目の前の建物が荒神谷博物館です。




博物館の前でハス
を振り返り、名残を惜しみます。
時刻は閉館ギリギリの17:00少し前。


これにて遂に、今回の初夏出雲行は満願となりました~。
出雲の神々さま、そしてお世話になった皆々さま、ありがとうございました。


実はこの後、もし体力気力に余裕があれば、近くの湯の川温泉でひとっ風呂浴び、八上姫神社にもお参りしてから帰ろうかという腹案もあったのですけれど、それは全員とうてい無理な状態だったので諦めます…(笑)

ここで皆そそくさと車へ乗車すると、一目散で山陰自動車道からの帰路へと向かいました。



さて、紀行はこれにて完了いたしますが、あと少し補足がありますのと、何かまとめみたいなことも書いておこうかと思いますし、出来ればキリよく全50回にしたい気持ちもありますから、しぶとくあとチョットだけ、続けさせて頂こうと思っています。

よろしくお願い申し上げます。



(つづく)→ [補足] 上代特殊仮名遣の「黄泉」と「夜見」~初夏出雲行(47)





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