ふしぎな身逃げ神事の謎に湊社で挑んでみる~初夏出雲行(17) | 日々のさまよい

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大正浪漫あふれる和風建築の旧大社駅舎~初夏出雲行(16)←(承前)




湊社(みなとのやしろ)。
祭神:櫛八玉神(くしやたまのかみ)。

大国主大神が国土奉献の大業を終えて天日隅宮(あめのひすみのみや、出雲大社のこと)にお鎮まりになるとき、天照大御神の命により「膳夫(かしわで)」となり、鵜になって海底に入り、埴を咋(くい)出でて八十甕(やそびらか)を作り、海布の柄(から)を燧臼(ひきりうす)に作り、海葦(こも)の柄を燧杵(ひきりきね)に作って火を鑽(き)り出し、祝の言葉を述べて大神を饗応された神です

また、櫛八玉神は水戸神(ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ)二神の孫神だということです。
Wikipedia.org/ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ

こちらの本殿も、残念ながらというか、お目出度くというか、ご修造中でした。




住宅地を抜けると、ぽっこり広い公園のような境内があって、お社はその隅っこ、杜へ潜むように建っています。

この湊社は、出雲大社で行われる数多くの祭祀の中でも、特に不可解な身逃(みにげ)神事の舞台のひとつになります。

ただし、その身逃神事を執り行うのは祢宜(ねぎ)であり、国造ではありません。
その神事が祢宜によって行われている間、国造は国造館を出て身を隠すのです。




これは拝殿。
修造中の本殿は、木々に隠れて見えません。


さて、身逃神事について、詳しくは少し長くなりますが、私の拙い説明では何とも心許ないため、またまた千家尊統『出雲大社』から引用させて頂きます。

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●身逃神事(神幸祭)

前にも述べたように、出雲大社で現今行なわれている祭祀は年間七十二度、その中には比較的新しく行なわれるようになったものもあれば、また古来行なわれて今は廃絶したものもある。
その七十二度の祭りのうち秋の神在祭、それに引きつづく古伝新嘗祭とともに由緒の古く、学者の間にも注目されていながら、しかも明確な説明を欠くものとして「身逃(みにげ)の神事」(またはみみげの神事)とこれに引き続く「爪剝(つまむぎ)祭」とがある。
明治以前は陰暦七月四日深更に身逃げの神事、翌五日に爪剥祭となっていたが、現今は八月十四日に前者、後者は八月十五日となっている。

特異な神事であるからその次第を記そう。
まず八月十日朝から祢宜は斎館に籠もり、大社相伝の火鑚杵・火鑚臼で鑚り出した聖火で調理した斎食を喫し、神事が終了するまで他火は厳しく禁ずる。
十一日の夕刻、祢宜は稲佐の浜に出て海水にて身を潔め、斎館に入って潔斎する。
十三日夜は「道見(みちみ)」といって祢宜は斎館を出て、先頭に高張提灯二張、つぎに祢宜自用の騎馬提灯持一人、つぎに祢冝、その後に献饌物を捧持する出仕一名が従う。
この行列でまず大鳥居を出、ここから祢宜は人力車に乗り町通りを過ぎて町から離れた湊社(みなとのやしろ)を詣で、白幣(はくへい)、洗米(せんまい)を供えて黙祷拝礼する。
この社の祭神は櫛八玉神(くしやたまのかみ)で大社社家上官(じょうがん)の別火(べっか)氏の祖先神であり、この身逃げ神事を奉仕するのが本来別火氏であったのであるから、この神事はもともと別火氏の祭りであったと思われる。
湊社の次には赤人(あかひと)社を詣でるが、この祭神も別火氏の祖である。
つぎに稲佐の浜の塩掻島(しおかきしま)で四方を拝し、前二社と同じ祭事を行い、終って斎館に帰着する。
以上はつぎの夜、執り行われる神事の道筋の下検分である。

十四日の神事の当夜は境内の諸門はどれも開け放たれる。
午前一時祢宜は狩衣を着け、右手に青竹の杖をもち左手には真菰(まこも)で造った苞(しぼ)および火縄筒をもち、素足に足半(あしなか)草履といういでたちで、大社本殿の大前に参進して祝詞を奏し、終って神幸の儀となる。
この神幸は祢宜の遊幸ではなくして、祭神大国主神の神幸というのがこの神事の本義であるから、このときの祢宜は大国主神の供奉(くぶ)なのである。
そこで前夜に「道見(みちみ)」が執り行われるのであり、この夜は祢宜は前夜の道見の通りに、そのとき詣でた二社に行き、塩掻島で塩を掻き、帰路出雲国造館にいたり、大広間内に大社御本殿に向って設けられた祭場を拝し、本殿大前に帰来して再拝拍手する。

これでこの神事は終了し、斎館に入るのである。
なおこの夜、塩掻島で掻いた塩は、翌日十五日の爪剥祭に供えることとなる。




この祭事中、出雲国造は神幸に先立ち国造館を出て、一族の家に宿するのであるが、のちには中官西村神太夫家に行き、今日では儀式のすみしだいその夜のうちに帰館する。
西村家ではいまも、国造が国造館を出て西村家にいたる絵図や当夜の用具を伝えている。

こういうしだいなので、国造館では国造が西村家にいくと直ちに大広間を掃き清め、荒薦(あらこも)を敷き八足机をそなえ、大国主神を迎える用意をととのえる。
またこの神幸の途中、もし人に逢うと汚れたりとしてふたたび大社にもどり、神幸の出直しをするのである。
大社町内の人もこの夜はとりわけ早くから門戸をとざし、謹しんで外出をしないことにしている。今はこの身逃げ神事では、国造は西村家にて一時の仮宿をし、儀式のすみしだいにその夜のうちに帰館するが他家の借宿が文字通り行われた明治五年のときは、中官坪内家に出たのであった。
坪内家ではこのときの記録として、国造の着座の上、炒豆(いりまめ)、切餅(きりもち)、瓜の三品を土器に盛り配膳、冷酒盃三遍、右儀式すみ休息、それより取肴(とりさかな)三種にて濁酒出し、引きつづき夜食壱汁壱莱出す、これまた相すみ次第庁舎へ一同引取、神拝退散すとある。
なお北島国造は、杉谷中官(ちゅうがん)の家に赴かれるのが慣例であったと聞いている。

この神事には、古くは国造の一族の家で一宿する、夜に他家で儀式をすませて直ちに帰還する、昼に他家で儀式をして帰る等の変遷がみられるが、もちろん一宿するのが本来の型であったと思われる。
また身逃げとはいうが、陰陽道に由来する方違(かたたがえ)では解明しきれないものがある。
おそらくは身逃げということの意味がわからなくなってから後の、窮した説明が方違ということであろう。

(中略)

けだしこの身逃げとは、本来は斎戒を目的として自宅よりある所にノガレ去ル、あるいは避け行くというほどの意味ではあるまいか。
そして中官家におもむくようになってからは、いつとはなしに斎戒のためという点は忘れられて、ただ何のためでめるかわからないが、とにかく国造が、国造館を出てそこにいくことが、神事であるとしているように思われる。


●他家に赴いての斎戒

こうして自分の家で斎戒をせず、他家に行ってするということは不思議である。

(中略)

こうしてみると身逃げ神事を後世ではその文字により、ただ自分の家を逃げだすことだと簡単に解釈しているのは、まったくあたらない解釈で、実の意味は、他家にてなすところの斎戒ということにほかならないということが知れるであろう。
それではなんのための斎戒であるのか。
それに答えるのが、つぎの日にとり行われる爪剥祭でなければならない。


●爪剥祭

爪剥祭は古くは爪剥の御供といわれていた。
爪剥はツマムギとよばれる。
八月十四日夜の神幸祭に塩掻島でかいた塩・根付稲穂・瓜・茄子・根芋・大角豆(ささげ)・御水の七種の神饌を供えるが、古来からの習わしとなっている。
いずれも大社社家上官平岡家から出されたものである。

(中略)

この爪剥神事は、もと霊魂の憑りくるという陰暦七月に執り行われ、神饌をみてもすべてがいわゆる精進物である。
その昔の両部習合時代における神社行事に与えた仏教の影響をみることができるが、霊魂を迎えるというのは神道思想であり、仏教教義からは本来ない思想である。
また、わが出雲大社で天神地祇を祭る神事に玄酒(ごすい)を捧げるが、この爪剥祭の時は他の時とは異って、瓢箪を切半して麻の柄を付けた柄杓のような容器を使用する例となっている。
諺にも瓢箪から駒が出るといって瓢箪のように中が空洞になったものは、霊魂をやどす、祓禳避邪の呪力があると昔から考えられ、信じられているのである。
その瓢箪をとくに用いるということも、かならずふかい意味があにちがいない、と私は思っている。

こうして霊魂の憑りくるのを迎える祭りが、この爪剥祭の本義であって、このための厳重なる潔斎物忌みがすなわち身逃げ神事でなければならない。
そして身逃げ神事に先行する神幸祭は、もともと上官社家別火氏が奉仕し、しかも別火氏の祖先神祠たる湊社や赤人社に詣でるように古来からなっているのであるから、別火氏の祭りが国造の祭りに附着添加するようになったもの、と私は考えている。

(後略)
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閉ざされた拝殿の向こう、本殿が工事用のシートに覆われているのがチラッと見えます。

けれども、ここでは何故か、修造中の案内看板が見当たりませんでした。
もしかしたら、こう見えても、神さまはまだ中におられたのかも知れません。
それならチョット失礼なことでした。



そこで、さてさて、身逃神事とは何とも不思議な神事ですね~。

千家尊統国造の見解によると、そもそも身逃神事の道見と神幸の儀は、上官社家別火氏が奉斎するものである、ということかと思います。

さらに、国造がその身逃神事の間に身を隠すのは、翌日に執り行われる爪剥祭に備え、厳重なる潔斎物忌みを行うため、ということです。

…けれど、それだけの説明では、謎だらけではないでしょうか。


簡単に不可解な点を書き出してみれば、こんな感じです。

1)なぜ出雲国造の潔斎が、道見と神幸の儀に併せて行われなければならないのか?
爪剥祭に備えて厳重なる潔斎が国造に必要だとしても、その潔斎がなぜ
祢冝、かつては別火氏が奉斎する道見と神幸の儀に併せて行われなければならないのか、理由が全く不明です。

2)オオクニヌシはこの神幸の際、何に憑依しているのでしょう?
神幸はオオクニヌシの神幸であり、祢宜はその供奉ということですが、オオクニヌシはこの神幸の際、何に憑依しているのでしょう? 白幣でしょうか?
しかし、出雲国造≦アメノホヒ≦オオクニヌシという憑依の関係を前提として出雲国造は生き神様なわけですから、その生き神様が不在なら憑依する依り代もいないため、オオクニヌシもいるとは思えません。

3)なぜその行き先が湊社と赤人社なのでしょう?
百歩譲って、それでもオオクニヌシが神幸するとしたら、なぜその行き先が湊社と赤人社なのでしょう?
それらの祭神が社家上官の別火氏祖先神だということなら、それでは他の社家上官も、それぞれの祖先神へオオクニヌシの神幸を執り行ったのでしょうか?
おそらく、湊社と赤人社だけが特別で、その理由はあえて語られないのではと思われます。

そこで、ここは素人なりに、ちょっと考えてみることにします。



ともあれ何より、湊社のご祭神である櫛八玉神について。

古事記をそのまま読む《13》上つ巻(国譲り10)
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このように(※オオクニヌシが国譲りを承服する旨)申し上げまして、出雲の国の多芸志(たきし)の小浜に天(あめ)の御殿を設け、水戸神(みなとのかみ)の孫、櫛八玉神(くしやたまのかみ)を料理まかない人とし、天の饗宴を開いて差し上げ、その時、呪文を唱え、櫛八玉の神は鵜に変わり、海底に入り、底の埴(はに)土を食って吐き出し、多数の天の平瓮(ひらか、食器)を作り、海藻の柄を鎌で刈り、火鑚臼(ひきりうす)を作り、アオサの柄を用いて火鑚り杵(ひきりきね)を作って火を鑽(ひき)り出し、祝詞を唱えるに、
「この我が燧(ひき)りする火は、高天原(たかまがはら)には神産巣日御祖命(かみむすびみおやのみこと)の立派な天(あま)の新宮殿の煤(すす)の長く垂れるまで焼き挙げ、地下は、地の底の大岩まで焼き凝らせましょう」
と祝詞を唱え、長い縄をはわせ、漁夫に釣らせた口の大きな魚の尾が跳ね、その鱸(すずき)をざわざわと引き寄せ釣り上げ、投げ入れた竹(の釣竿)はたわみ、そして天の真魚(まな)を祭壇にお供えし、食したのでした。
このようにして、建御雷(たてみかづち)の神は戻り天に昇り、葦原中つ国との交渉をまとめ上げ平定するまでの、経過を復命しました。
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玄松子の記憶/祭神記/櫛八玉神
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『古事記』に、大国主命が国を譲って遠くに隠れ控えるかわりに、天神御子の住むような住居を要求し 出雲国多芸志の小浜(杵築の地)に神殿(出雲大社)が造られ、水戸神の孫・櫛八玉神が膳夫(料理人)となった。
櫛八玉は鵜に変身して海底の埴(粘土)をとり「天の八十平瓫」(平らな土器)を作り海藻を刈って 燧白・燧杵を作り、火を鑽り出して、大国主命に対して、火を使って調理した魚を献る詞章(火鑽りの詞)を述べた。

燧臼・燧杵とは火を鑽る板と棒の象徴であり、これをこすりあわせることにより作られた火で調理したものを神に献げた。
出雲国造家では、国造の交代時に、火継式という儀式が行なわれ、そこでは床下の御食焼所において、火切板を使って火を鑽り、食物を炊いたとされる。
よって、『古事記』の詞章(火鑽りの詞)も、その儀式において唱えられた壽詞を採用したものだとする説がある。
詞章には、「さわさわに控き依せ騰げて、打き竹の、とををとををに」という語がみられ、出雲國
土記(意字郡)のヤツカミヅオミヅノの国引き神話中にある 「霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに」という形容に相通じるものがあり、これが、口で語られていたものであったことを髣髴させる。

なお、多芸志の小浜の神殿は、文脈上、オオクニヌシが造ったとする説がある。これによれば、「火鑽りの詞」は大国主命が服従の意をあらわすために天神を饗応したことになる。
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これらをまとめると、櫛八玉神とは出雲大社ホームページの説明通り、
大国主大神が天日隅宮にお鎮まりになるとき(中略)祝の言葉を述べて大神を饗応された神
ということですね。

ただし、櫛八玉神が饗応した対象がオオクニヌシなのか、あるいは別の説で、オオクニヌシがホストとして建御雷を始めとする天神をもてなしたのか、二通りの可能性があるということのようです。


次に、本来この身逃げ神事を奉仕したという大社社家上官の別火氏について調べてみましたが、分かりませんでした。

そこで、「別火」という言葉については、このようなことです。
Wikipedia/別火
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別火 (べっか)とは日常と忌み、物忌みの状態の間で穢れが伝播することを防ぐため、用いる火を別にすることである。
穢れは火を介して伝染すると考えられており、日常よりも穢れた状態(忌み)から穢れが日常に入ることをさけるため、また日常から穢れが斎戒(物忌み)を行っているものに伝染することを防ぐために用いる火を別にすることが行われた。
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Weblio.jp/三省堂 大辞林/別火
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神事を行う者が、けがれを忌んで別に鑽(き)り出した火を用いて食物を調理すること。また、服喪中の者や月経中の女性など、けがれがあるとされる者が、炊事の火を別にすること。べつび。
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そして、赤人社というのがどのような神社か知りませんでしたので調べてみましたら、出雲市大社町杵築西赤塚に山辺神社という社があり、それがどうやら赤人社のことのようでした。
魁 神社参拝記/出雲國出雲郡杵築郷 山辺神社

この↑記事であるように、ご祭神は大国主神、天照大神、少彦名命、山辺赤人之命とのことです。

ただ、それだけでは確信が持てませんでしたので、もう少し調べてみたところ、↓こちらの地図に「山辺神社(赤人さん)」とありますので、ほぼ間違いないかと思います。


正確な位置は、↓こちらをご参照ください。
GoogleMap/山辺神社


そこで、赤人社のご祭神である山辺赤人とはどのような人物か調べると、奈良時代の歌人である山部赤人にしか行き当たりません(泣)

山部赤人は山辺赤人とも表記されるとのことですから、同一人物のように思いますけれど、どうなんでしょう、関係あるんでしょうか?
Wikipedia/山部赤人


それと塩搔島ですが、上の杵築地区全域マップで左上、稲佐の浜の左上にありました。
しかし写真となると、↓こちらの記事でしか見つかりませんでした。


塩搔島の位置は、↓ここでしょうか?
GoogleMap/35.402829, 132.670580



ということで、上で書き出した身逃神事の不可解な点、1)2)3)を、私なりに検討してみたいと思います。


そこで先ず、出雲国造は
オオクニヌシが憑依するからこそ生き神様なのだという前提ですから、その国造が参加しなければ、そこにオオクニヌシはいない筈です。
しかし身逃神事の神幸の儀が、国造不参加なのにどうしてかオオクニヌシの神幸とされオオクニヌシが憑依することのない祢冝、かつては別火氏によって行われるのは何故か、から考えてみます。

その理由として、ひとつは、
A)神幸するのはオオクニヌシとされていますが、実はオオクニヌシではない。

もうひとつ考えられる理由は、
B)神幸するのはオオクニヌシでありながらオオクニヌシでない、つまり日常一般にオオクニヌシとされる神ではなく、この神事の際にのみ示現する非日常の特別なオオクニヌシである。

このどちらかではないかと思います。

これはつまり、身逃げ神事で神幸する神は、少なくとも日常一般にオオクニヌシとされる神ではない、という仮定です。
そうでなければ、国造不在でオオクニヌシが示現する筈は、前提からするとあり得ないからです。


そこでそもそも、オオクニヌシの神幸とはいかなるものか、身逃げ神事の神幸は誰も原則として見ることができませんから、代わりに涼殿祭(すずみどのまつり)を参考にしてみますと、こんな感じです。


等間隔で点々と盛られた立砂を崩した上へ次々と敷かれる真菰(まこも)を踏みつつ、大きな御幣をご神体として持ちながら歩くのは出雲国造であり、とても賑々しく行われています。

何より、身逃げ神事では「神幸の途中、もし人に逢うと汚れたりとしてふたたび大社にもどり、神幸の出直しをする」にも関わらず、この涼殿祭では、真菰を頂戴するため待ち構えた人々で溢れかえっており、「汚れ」どころではありません。

また、前にご紹介したフォートラベル/神々の都”出雲国「杵築」~神様の衣替え『涼殿祭(真菰の神事)』では、
御幣を持った国造様は神様なのです。地上を歩いてはいけないのです。だから立砂を盛り真菰の上を渡られるのです。明治までは、国造はいつも輿に乗り真菰の神事の時以外は歩かなかったとされています
と説明されています。

このような涼殿祭と、千家尊統『出雲大社』で説明される身逃げ神事の神幸次第や、神幸供奉図による祢冝の出で立ちなどを比較してみますと、あまりに違い過ぎるのではないでしょうか。

これではどう見ても、全く同じ神さまの神幸とは到底思えません。


そのようなこともあり、このA)B)、どちらかである筈だと思います。

しかしながら、もしA)だと考えた場合、やはり無理があるように思えます。
これは
オオクニヌシとは全く違う神とする仮定ですが、それではオオクニヌシの神幸であるという大前提を完全に覆してしまい、そうなれば出雲国造を始めとして出雲大社の関係者すべてが嘘をついているということになって、あまりにも現実味がなさ過ぎると思われます。

もちろん、かつて主祭神オオクニヌシをスサノオとしていた経歴もありますけれど、それは時代の中でやむを得ず選択した事情もあった筈ですから、身逃神事へそのまま当て嵌めて考えるわけにもいきません。

そうすると、ここで例えば不可解の大元となる原因がB)であると仮定した場合、オオクニヌシでないオオクニヌシとは、いかなるオオクニヌシなのでしょう?



そこで思い起こされるのが、以前に出雲大社教神拝詞集など(9)でご紹介した神語です。
「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま) 守(まも)り給(たま)ひ 幸(さきは)へ給(たま)へ」

この幸魂・奇魂とは、合わせてひとつの和魂(にぎみたま)であり、それを荒魂(あらみたま)と合わせ、一霊四魂説による神の霊魂の総体をあらわします。
Wikipedia/荒魂・和魂

つまり神の霊魂は、大きく2つに分けて、和魂(幸魂・奇魂)と荒魂が存在する、とされています。
それは元々、中国からの陰陽思想に基づいているわけですが、すでにこれは思想という枠を越え、陰陽の理は万物の根源であると考えられます。
Wikipedia/陰陽

そこで例えば、伊勢神宮では、皇大神宮の
アマテラスは正宮に和魂・荒祭宮に荒魂、豊受大神宮のトヨウケビメは正宮に和魂・多賀宮に荒魂、そして大神神社ですと、オオモノヌシは三輪山に和魂・狭井神社に荒魂、が祀られています。

ところが出雲大社では、この荒魂をお祀りしているお社がありません。

にもかかわらず、「幸魂 奇魂 守り給ひ 幸へ給へ」とお唱えして参拝をするわけですから、「荒魂」は一体、どこへ行ってしまったのでしょうか?

もし神語に「幸魂 奇魂 荒魂」と荒魂が入っていれば、それはそれで和魂と荒魂の総体を一社で祀っているということでイイんでしょうけれど、幸魂・奇魂だけだと、お祀りされていない残された荒魂は、そのまま放ったらかされ、荒ぶってしまうのではないかと心配です。

なのでおそらく出雲国造は、オオクニヌシの陽の面である和魂(幸魂・奇魂)を精一杯に奉斎することで、その陰の面となる荒魂を和魂の力により鎮める、というスタンスではないかと思われます。
そうでなければ陰陽のバランスが崩れてしまい、オオクニヌシの魂は大変なことになってしまいますから。

しかしそれでも年に一回くらい、普段は窮屈にされている荒魂に行幸で外出して頂き、境外にて存分にお慰めを奉仕するなどして、荒ぶるパワーを祀り
鎮めることが必要かと思われます。



そこでつまり、身逃神事で神幸するオオクニヌシとは、オオクニヌシの荒魂ではないか、と考えられます。

もし、このオオクニヌシの荒魂こそが、身逃神事の際にのみ示現する非日常の特別なオオクニヌシだとすれば、不可解な1)2)3)の謎も、解きほぐされるかも知れません。
そこで以下、挑戦してみます。



1)出雲国造の潔斎がなぜ道見と神幸の儀に併せて行われなければならないのか?

荒魂とは、「神の荒々しい側面、荒ぶる魂」ということで、人々に悲惨な災厄を引き起こす禍々しい力でもありますから、考え方によっては、そのような荒魂そのものがタブーとして捉えられる、ということもあり得るのではないでしょうか。
コトバンク/デジタル大辞泉/タブー(taboo/tabu)

しかし、神の陰なる面である荒魂だけをタブーとして避けるというのも、何だか都合良すぎて不自然というか、陰陽一対の理にかなわないというか、本当にある得るのかとは思います。
けれども、それは完全に避けるということではなく、あえてそっとして荒立てないよう殊更に祀り上げず、只ひたすら心中じっと敬い畏れかしこみ続ける、というような姿勢や心構えなら、あるのかも知れません。

また、身逃げ神事の神幸と涼殿祭にあった大きな違いのひとつ、「もし人に逢うと汚れたり」とするか、しないかという点についても、身逃げ神事の神幸でのオオクニヌシは荒魂というタブーであり、涼殿祭でのオオクニヌシはタブーでない和魂であるとすれば、“汚れ”という意味を“タブーへの抵触”と考えることで、理が通ります。

さらに、
身逃げ神事の神幸が夜半、涼殿祭が日中に奉斎されるということも、まさに陰と陽、つまり荒魂と和魂の関係に符合します。

もし、そのようなことで、荒魂へ直接関わることを出雲国造自らが自らへの禁忌としているのであれば、荒魂の神幸に際し、その荒魂へオオクニヌシ本来の依り代である自分を感知されないよう「ノガレ去ル」ということには、十分な合点がいきます。
もちろん、国造以外の者が
身逃げ神事の神幸を奉斎するしかない、という理由もそこにあります。

だからこそ、神幸の儀と同時に神へ気付かれないよう別家で、万一にも
荒魂による障りがないよう「厳重なる潔斎物忌み」が是非とも必要となり、これが「すなわち身逃げ神事でなければならない」のではないでしょうか。

このように神幸の儀の主がオオクニヌシの荒魂であったとして、出雲国造にとりその荒魂がタブーであったとしたら、国造の
身逃げによる潔斎は、荒魂が示現する神幸の儀に併せて行われなければならない、ということは必然といえます。


2)オオクニヌシはこの神幸の際、何に憑依しているのでしょう?

荒魂が出雲国造にとってタブーだとすれば、日常一般に出雲国造が奉斎する神は、オオクニヌシの和魂だけ、ということになり、出雲国造に憑依する神も和魂だけ、ということになります。
つまり、出雲国造が生き神様としてあるのは、オオクニヌシの和魂によってのみ成立するということです。

そこで身逃神事で神幸する神がオオクニヌシの荒魂だとすれば、その荒魂は、出雲国造以外の然るべき人、あるいは物、へ依り憑くことになります。

要するに、オオクニヌシとはいえ荒魂だけの場合、そもそも憑依するのは国造以外の何か、ということになります。
そして、その何かは全く不明ですが、その何かがある限り、出雲国造がこの神幸に不参加でも何ら差し支えはありません。
それどころか、出雲国造はタブーである荒魂に憑依されてはなりませんから、絶対に参加できないわけです。

そして祢冝、かつての別火氏は、神幸の締めくくりとして塩掻島で念入りに、まるで「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」におけるイザナギのごとく、禊を行なって後に出雲国造館へいたり、本殿大前に帰来して神事は終了し、斎館に入ります。
このように、お祀りの始めはともかく終わりにも、わざわざ禊を行うのは珍しいことと思いますから、これも神幸の主が荒魂というタブーであることの証左ではないかと思います。


3)なぜその行き先が湊社と赤人社なのでしょう?

湊社の祭神である櫛八玉神は、大国主大神が天日隅宮にお鎮まりになるとき、祝の言葉を述べて大神を饗応された神です。
それはつまり、オオクニヌシの荒ぶる魂を鎮めるには史上随一の神である、ということです。

国譲りの際、事の成り行きが記紀神話の通りなら、オオクニヌシは心中で怒髪天を衝くほど怒っていたに違いありません。
その超弩級の怒りを最々大級の饗応で癒やし慰め、なだめなだめてオオクニヌシを得心へと誘って、征服者である建御雷ら天神をも満足させ帰らせた櫛八玉神とは、もの凄い神さまなのでしょう。

ですからオオクニヌシの荒魂を鎮めるには、この神さまを置いて他にはあり得ません。

けれど、もとより出雲大社の境内で、オオクニヌシの荒魂を
祀り鎮める然るべき社があればそれでイイ筈なのですが、荒魂をタブーとして出雲国造が関わることを禁忌とするため、それができません。

ならば、ということで、「祢宜は斎館に籠り、大社相伝の火鑚杵・火鑚臼で鑚り出した聖火で調理した斎食を喫し、神事が終了するまで他火は厳しく禁ずる」として別火を用い、国造は身を隠して、その上あえて境外で、国造以外の者が神幸の儀を執り行うのだと思われます。

だからこそ、これは「もともと上官社家別火氏が奉仕し、しかも別火氏の祖先神祠たる湊社や赤入社に詣でるように古来からなっているのである」と思います。



以上、このように考えてみましたけれど、いかがでしょうか?(笑)




サチエが鳥居で身逃げ?しています。

何となく隠れんぼな気分なのは、身逃神事など何も知らなかった筈ですが、この湊社にそんな雰囲気を感じたのかも知れません。


ここから次は、稲佐の浜に戻ってもう一度潮を汲み直し、本来はそこから巡るべきだった境外摂末社に行く予定なのですが、その前に、また出雲蕎麦を頂こうと、今度は平和そば本店へ向かいました。
平和そば本店ホームページ




平和そば本店へ向かう途中、国道431号線へと入って、きづき海浜公園の南端あたりで海を見ると、何やら変な船影が見えました。

「あれ、空母ちゃうのん?」
あわてて車を停め、海辺まで確認しに走りました。




船影のアップ。
どう見ても、空母です。

どうして空母が今、日本海にいるのか分かりません。
もしアメリカ海軍、ましてや中国やロシアの海軍だったら、それはただ事でない筈です。

そこで、何か国際紛争が知らぬ間に起こり、やおらキナ臭い状況になっていたら大変ですから、急ぎタブレットでニュースを検索したら、海自最大の護衛艦「いずも」が、その名の由来である出雲の地へと表敬訪問していることが分かりました~。

産経WEST/海自最大の護衛艦「いずも」艦名ゆかりの出雲沖に投錨!4日まで停泊
Wikipedia/いずも_(護衛艦)




この明るくのどか海辺で、何とも人騒がせな、と思いましたけれど、この「いずも」が結構人気のようで、この日は夕方まで、ここから日御碕に至る道路が、見学の自動車と人でごった返していました(苦笑)

これは自国の戦艦でしたが、あ~やっぱり日本海って最前線だなあ、と思わざるを得ない気持ちになりました。


さて、出雲蕎麦ですが、先の本家大梶に続いて平和そば本店も休店でした。
そこで混んでいそうなため避けていた代表的な老舗の荒木屋へ行ってみましたが、こちらも休店(泣)
食べログ/荒木屋




そうして彷徨い、ようやく、かねやが開いてました~。
こちらはとても上品な、量とお味で満足でした。
食べログ/かねや


ということで、稲佐の浜へと向かいます。



(つづく)→ 稲佐の浜を再訪し因佐神社から屏風岩へ~初夏出雲行(18)




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