人類(又は私)は、ちぐはぐである。確信犯は責任能力を持っていない。ちぐはぐであるから。

道具は危険である。人類は道具を本来と違った目的の、凶器に変えるから。

人類のある答えの行き先はそこにある。

最初の目的に責任を持つ。次に歪んだ目的が生まれ、最初の目的からした最も正しい目的でない事を知る。歪んだ目的から生まれた結果は確信的でありつつも、最初の目的の間違えで生まれたちぐはぐ現象の結果である事を知り、やがて、責任を持てない、間違いであると知る。

人類は幸せのために最も正しく生きる意志がありながら、最も正しい判断が出来ない。

だが、自由な選択と可能性が、幸せのためにある。幸せの答えは一つではない。

そして、最も信じるべき幸せのなかで、間違え、偽り、という恐怖に意識は常に支配されている。

もっとも正しく生きている自信や間違え偽りなく生きている自信がない。

そして、間違えを正当化するため、間違えを確信的に犯す。確信的な意図の結果であれば、知能的価値があり、道徳的価値より知能的価値のほうがコントロール可能な安全なものだと無意識のなかで感じるから。

だが、それは真の確信ではない。






最も正しく判断出来なくて良い。

なぜなら答えは一つではない。貴方の最も正しい判断、答えを生きれば良い。

罪の意識やレッテル付けを放棄しなければならない。

誰が悪いのか。誰に責任があるのか。ではなく、

何が最も正しかったのか、どうすれば最も良いのだろうか。と考えて生きていきたい。




なぜ、歪んだ目的が生まれるのか。

人類は、恐れに依存してしまう性質がある。

あらゆる恐れがあって、幸せが何であるかを再認識しているから。

人類の価値あるもの全てが、何らかの恐れを背にしている。

宇宙は、対極の概念が存在する事で、全てが成り立っている。

人類の意識や価値も同じ仕組みであるから。(競争、創造性、発展、愛や尊厳の基準)

その崩壊、又は無気力への恐れ(第2に知覚する「恐れ」)が、時として、幸せの存在に対する対極の概念に当てはまる存在(第1に知覚する「恐れ」)を自らの手で意図的に生み出してしまう事へ繋がる。

だから、その恐れは過去に存在していて、もう存在させる必要がない事、それを知る事が必要。そして、それが常に全人類の今この瞬間に未来永劫に見えない形で存在し続けていることを知る事も必要。



人類は恐れという痛みを意図的に生み出してまで幸せを認識しようとしてしまうほど、幸せを愛しているのだろう。


だから、間違いを知る事が必要。




だが、後悔は必要ない。どのような事も全ては幸せへ至る成り行きである。幸せになるためなら、どの瞬間も後悔は必要ない。