Bloom where God has planted you. | Verbum Caro Factum Est

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僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

シスター渡辺和子先生の著書「置かれた所で咲きなさい」は多くの人が手に取りベストセラーとなった。キリスト教に関する書籍にもかかわらずかなり売れたようだ。そしていろいろなテレビに引っ張り出されているシスターのお姿は少々痛々しい感じもしないでもなかった。

その昔、夢破れて単身上京し、新しい夢に向かっていた時、四谷のカトリック麹町聖イグナチオ教会でシスターの講演会を拝聴する機会があった。それまで講演の録音テープやご本でシスターの言葉にずいぶん助けられ、何度かお手紙のやりとりもさせてもらっていただけに、実際に聴く講演は心にずんときた。

僕が大学生のころにサンパウロが小さな祈り本を編纂して発刊した。今から20年も前のもの。主要な祈り(主祷文・天使祝詞)の公式口語訳はまだ出ていなかったので暫定訳と従来の文語訳が併記されており、新しい食前食後の祈りや、ミサの式次第、ロザリオの玄義や道行き、連願などが掲載されており、また同時に公教会祈祷文の祈りもいくつか掲載されていた祈り本だった。



講演が終わった後、そんなにミーハーではない方だと自認しているにも関わらず、駅に向かって歩いてお帰りになるシスターに声をかけさせてもらい、不躾とは思いながらもカバンの中に放り込んでいた祈り本を取り出し中表紙に一筆願った。

「わたくしみたいなものが。。」と躊躇されていたのだが、どうしてもお願いしますと頼み込んだら短い言葉と日付と名前を書いて下さった。

そこには次のように書かれていた。

「置かれた所で咲いていて下さい
 二〇〇〇年六月二九日 渡辺和子」



この言葉はシスターがまだ有期誓願時代にも関わらず大きな使徒職を任され、悩みのうちにある時にベルギー人の神父様からいただいた英詩の出だしだ。

すべて訳すとこんな感じになる。

「置かれたところで咲きなさい
 仕方がないと諦めるのではなく、咲くのです。
 咲くということは、
 自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、
 神が、あなたをここにお植えになったのは
 間違いでなかったと、証明することなのです。」

もちろん差別的な場所、搾取の関係にある人などには当てはまらない詩ではある。修道生活を送っている人にはずいぶん響く詩かもしれない。僕はずいぶん感銘を受けた。

僕は今まで一生懸命咲いてきたつもりだ。
戸惑いながらも「ここが僕の居場所なのだ」と自分に言い聞かせながら。

「神様、まだ咲き続けなくてはいけませんか?
 それとも神様、まだ僕は咲けていないんですか?」

と自問する日もある。

最近「もうそろそろ自分は植えかえられるのだろうか」とも思う。その居場所にこだわればこだわるほど遠く感じるのだ。その場の人々と出会えば出会うほどに、どこか植えかえられてしまうのだろうか、と。いや、そう願っている自分がいる。

たまに心が折れた日、折れそうな日、咲いていようといまいと、もっと芝生が青く見える「ここではない」自分の居場所を見つけようとする。そんな日は無理に伸びようとする必要はないし、花を咲かせられなくていいのだと思う。じっと神に植えられた「ここ」という場所に根をはって行けばいいのだろう。

そしてそんなことを思いめぐらすと同時に、お会いした時のシスターの丁寧さとほほえみの向こう側に垣間見えた強さを思い出す。凛とした厳しい強さを感じた。修道院ではきっとかなりのご苦労をされてきたのだろうな、と感じたことをふと思いだす。

どこまでが咲いたというのかが分からない日、はたして自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、自分をここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明出来ているのだろうかと自問自答する。

結論はいつも同じ。

あせらなくてもよい。ゆっくり休めばいいじゃないか、と。他人を消費する幸せではなく、笑顔で幸せに生きる時他人も幸せになる幸せなら、それでいいじゃないか、と。

人は僕から去っていくことができる。きっとそれが血縁者であったとしても。パートナーであったとしても。

ただ一人だけ僕から去ることが出来ない人がいる。

それは他の誰でもなく、自分自身だ。

だから、やっぱり「ゆっくり休めばいいんだ」としみじみ思う。自分自身が自分に愛想をつかしてしまってはどうにもこうにもならないのだから。

伸びれない日は決して心地よいものではない。だけど、自分が変わらなければどこに行っても同じ。ただ、劇的に変わることは出来ないし、他者の期待に沿って変わる必要もないんだとも思う。ゆっくりでいいし、休む日もあってもいい。伸びれない日があってもいいし。根をはることもできなくてもいいじゃないか、と思う。それが「ここ」であっても次に植え替えられたあたらしい「ここ」であっても。

どこかはわからないが、神がお植えになったところでしっかり根をはり、笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、僕をここにお植えになったのは間違いでなかったと、静かに証明することが出来ればいいなと思う。