Verbum Caro Factum Est

僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。


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毎年のことなのだけど夏の終わりから秋の始まりまでどうも調子が良くない。かといって調子を良くしようともさほど思わない。なかなか動いてくれない自分の頭と体と、それを焦っている自分とが、なんとか仲良く一つの体で同居してくれればいいやくらいな感じで静かに鈍く暮らしている。

 

以前は良くなければ、良くなっていかなければならないと強迫的に思ったが、最近はそうは思わなくなった。良さへの衝動は世の中に突き動かされる呪いめいたもののように思う。不健康で不健全な日や時期、部分や側面があってもいいではないか、と最近とみに思う。

 

次の主日、教会では出エジプト記、テモテへの手紙、ルカによる福音から朗読される。出エジプト記の中からアマレクとイスラエルの戦いの場面が選ばれている。この中でモーセは神の杖を持ってその腕を上げている間、戦いはイスラエルが優勢になり、腕が下がるとアマレクが優勢になった。モーセの腕を上げ続けるために石を持ってきてモーセをそこに座らせ、アロンとフルがモーセの腕を支えたのだから、どうも滑稽に思えてしまう。

 

優勢を得続けるため、戦いに勝つがためにいい大人が神の杖を持ったモーセの腕を腕ごと支えるのならやはり滑稽だ。この旧約の記事で忘れていけないのはモーセが神の杖をもち手を挙げイスラエルの勝利を得たことではなく、神の思いを生きる民は、神を利用する民にもすぐなり得るということ。アマレクとは神に敵対する動きの象徴だが、このアマレクの記憶を天の下から消し去るというくらい強い怒りの表現は、神の思いを生きよというシンプルでダイナミックなメッセージのように思う。

 

ミサの中で聖体制定句が唱えられた後、司祭は御聖体を奉挙し会衆に聖別された御聖体を顕示するわけだが、この所作が象徴する出来事の一つにこのモーセの神の杖を持った手を挙げる出来事が含まれるように思う。

 

杖には権威、手を挙げるという動作には祝福の意味があるが、神の杖を持って手を挙げる、つまり、神の祝福が今ここであるというその時、神の意志を示すために選ばれた民イスラエルはアマレクとの戦いで優勢を得る。人は神の祝福のゆえに神の敵対する動きに負けることなく、神の意志に生きることができるのだということ。同時に神の意志に反する自分たちの益のために神の祝福を利用するものとなってはいけないことを教えてくれる。

 

では神の意志はどこにあり、神の意志とは一体なんなのだろうか。

 

この日の福音では神を神とも思わぬ裁判官とやもめの譬え話を通し、神が夜も昼も叫び求める人々に応えないはずがないことを教えている。この世の中を見る時、本当に神に頼るより他どうしようもない叫びに神が応えられた跡を見ることができるだろうかと思わず問いたくなるほど違っているように思う。

 

神の祝福に与り共に生きる現実は力の中ではなく痛みの中にあるのかもしれない。神を利用し人々を消費し手段にしている権力やマンモンの前では、神が望まれる神の祝福などなんの役に立つものかと、諦めと自嘲もこめつつ思ってしまう。だが、今日も神はご自身の祝福をおおよそ力からは程遠い姿のうちに、十字架と同じように傷の中に表される。御聖体という静かな秘蹟のうちに。

 

闇がなければ光を理解しない。光があることを知らなければ闇を恐れるが、キリストという光を知っており、わたしたちのうちに光としてとどまってくださる現実を知っているのなら、わたしたちキリスト者は闇をも引き受けていくことができるはずであるし、光を知っているからこそ、闇を引き受けていかなければならない。

 

同じようにキリストの傷がなければ神の愛を知り得ないのと同じように、わたしたちの傷も傷自体は決していいものではないけれど、その傷を得たゆえに知り得る事柄、見えてくる世界もある。その傷がなければ知らないで済んだ出来事や世界はこのわたしにとってかけがえのないものであったかもしれない。キリストの傷に結ばれていくということは、なすがままに傷つくのではなく、できてしまった傷を、空いてしまった穴を、意味あるものへ変えていくということ。

 

同じようにまったく静的なものは果てしなく動的なものを内包しており、静けさはわたしたちにその向こうのダイナミックな世界へと導いてくれる。

 

今日も御聖体のイエス様は静かにわたしたちの所にやってきてくださる。ご自身の傷を示し限りないいつくしみでわたしたちの間にとどまり、わたしたちを違いを超えて互いに一つに結びつけてくださる。わたしたちが「共にいてください」と願う前にすでに共に在り、共にいてくださることに気づかされたわたしたちはエマオの弟子のようにこの世へと遣わされるだろう。自分自身と和解するために。そして人々と、世界と和解するために。

 

聖母の扶けを願いつつ神の果てしないいつくしみに信頼して今日という日を渡ってゆきたい。

 

この上なく高く栄光に満ちておられる神さま

わたしの心の闇を照らし、

正しい信仰、

確かな希望と完全な愛、

感じる心と深く知る恵みをお与えください。

こうして主よ、

あなたのとうとい、 誠の掟を守ることができますように。

アーメン

(アシジの聖フランシスコがサン・ダミアノの十字架の主の前で捧げた祈り)

 

 

 

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次の主日教会ではルカ福音10.38-42が朗読される。

イエスはマルタとマリアという姉妹のところに訪問するが、当時のユダヤ社会では親族でない女性と一人で話すことや訪問することは常識的にありえなかったようだ。もちろんこの背景には幾つかの理由があるのだけれど、それは一旦置いておいてもイエスのこの行動は非常に新しいものだと言える。

もう一つ、律法(トーラー)の勉強や会堂での勤めといったいわゆるみ言葉への奉仕は男性に特化されていて、女性はその男性を支えることで間接的にみ言葉に使えるという発想だったという。今日でもシナゴーグで行われる安息日の礼拝に行くと富裕層以外のユダヤ人女性の数は男性よりも少ない。イエスの時代と同じように安息日の食事の準備に追われているからとのことである。

イエスを迎えたマルタとマリアの基本的な姿勢は実は変わらない。一つはイエスのみ言葉に渇望しているというところ。もう一つはイエスとの近さ。そして二人ともイエスというみ言葉に仕えているところだ。

マルタにしてみたらマリアと二人で準備を済ませてしまえば、二人揃ってイエスの足元でイエスのみ言葉に聞くことができたかもしれないという思いがあったのかもしれない。二人揃ってみ言葉に仕えたかったと言ってもいいだろうか。ただマリアは早々にイエスの足元に侍ってみ言葉に聞き入っている。

ここにマルタの様々な葛藤、み言葉への渇望からくる葛藤であるはずなのに、いろいろなものに引っ張られマルタの心はせわしなさに支配されてしまう。ここで「せわしない」という言葉はギリシャ語の「ペリスパオー」の訳で「中心から引き離される」という意味である。マルタは様々なものに葛藤している。イエスのみ言葉への渇望、イエスへの尊敬やもてなしに専心したい葛藤、イエスの足元に侍ってみ言葉に聞き入る羨望、そして当時の社会が期待する女性の役割といった様々な心的圧力や価値観、マリアやここには出てこない人々との比較からくる苛立ちや焦り、そんな意に反して本質から引き離されてしまった人の姿をマルタのうちに描き出されている。

結局マルタが何をしたかというと、客人が帰ったのちマリア本人にチクチクと叱責喰らわすわけでもなく、弟子の一人でもとっ捕まえて愚痴るわけでもなく、マルタはイエスに直接訴える。直訴するのだ。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

ここで思うのはマルタとイエスの近さ、親密さだ。というのも、イエスに直訴してしまえるというのはなかなかの近さでなければできないように思うのだ。

そのマルタに向かってイエスは答える。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ここでイエスはマルタの名を二度呼んでいるが、これは親しさや愛情の表れである。ここでもうイエスとマルタの距離は実に近いことがわかる。そしてイエスはうまくかけて答えている。いろいろのもてなしのためにせわしなくなっていたマルタに「多くのことに思い悩み, 心を乱している」と諭す。「マルタよ、マルタよ、そんなにせわしなくもてなす必要はないんだよ、ご飯なんて大皿ひとつみんなで分けりゃいいじゃないか、マルタもこっちへ来て座ったらいいよ。」というイエスの声が聞こえてくるように思う。それなればよっぽどのんびりした人でもなければマリアが「ちょっと台所見てきますね、先生」となるかもしれない。

この箇所は誰が賄いをするのか、誰がみ言葉に聞きその奉仕に専従するのかという話ではない。仕える、もてなす、奉仕する(全てギリシャ語「ディアコネオー」に含まれている)は本質的に一緒であり、大事なのはその本質から引き離されてしまわないことなのではないだろうか。

また、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とイエスは言うのだが、ここの「取り上げる」は未来形で、「(イエスのみ言葉は)なくなることはない」となる。すなわち、マリアが選んだのはイエスの足元に侍ることでも、マルタにお給仕を任せっきりにする厚かましさでもなく、永遠に取り去られることのない命の言葉を選んだのだよ、とイエスは言っているのではないだろうか。そのみ言葉は当たり前だがマリアだけでなくマルタにも開かれているわけであり、ひいては今日このみ言葉に触れるわたしたちにもひらかられ、招かれているのである。

イエスという独身男性が親戚でもない女性の家、しかも家主が女性という何らかの事情を抱えた家を訪れ、男性の働きであるはずのみ言葉への傾聴に専心している妹を叱責するよう懇願する姉に、あなたも中心を見失ってはならないよ、と優しく諭す。イエスのこれらすべての出来事は、当時の常識では考えられないほどの新しさだったのではないだろうか。

マルタの中には、イエスへの思いがあるけれど、どうしても逃れられないような社会が期待してくる思いや役割や立場など、様々な価値観と力に引っ張られてしまい、福音という中心から引き離されてしまっている現実がある。このマルタの心中に、現代社会の教会とキリスト者の姿が映されているように思える。

わたしたちが生きている中で、対人であろうと自分の内面であろうと、教会にあっても社会でも様々な問題や衝突を避けて通ることはできない。だが、その何か良くないものをすぐに吐き出してしまわず、一旦心に収めることができるものでありたいと思う(できてないから書いているのだが)。一番大事なことから引き離されてしまわぬように、すべてのことを心に納めていた(ルカ2.51)聖母の扶けを願いつつ次の一週間も過ごして行ければと思う。


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イエスの誕生の時、王の誕生を知らせる星を見て東方から博士たちがベトレヘムを訪れ、幼な子に黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げたとマタイ福音に記されている。福音書には「マゴイ」すなわち「博士ら」と複数で書かれているだけで人数は書かれていないが、贈り物の数から「三人の博士」として語られている。

民間伝承の物語によればこの「三人の博士ら」に加え実は、もう一人の博士がこれまた星を見て、自分の医師としての職業も妻子も捨て、全財産を売り払い高価な真珠を求め、それを捧げ物とすべく、ベトレヘムへと旅立っていた。その名を「アルタバル」と言った。

医者であるアルタバルは、ベトレヘムへの途上病人を見かけては手当てをしているうちに、ベトレヘムに着いた時には、イエスら聖家族はヘロデの手を逃れ、すでにそこを去っていた。

その日からアルタバルのイエスを探し求める人生が始まる。毎日の生活の中で彼を必要とする病人を手当し、生活の糧が得られないがゆえに悪事を働いている人々には惜しみなく扶けの手を差しのべ、田畑を共にたがやし彼らと共に生活を共にして、あっという間に三十数年が経ってしまった。

ある日、ナザレのイエスという一人の預言者がカルワリオで十字架につけられるという知らせを聞いたアルタバルは、生涯肌身離さず持っていた真珠を手にカルワリオの丘を目指し急ぎ出かける。だが、その途中、経済的な問題から身を売らなければならなかった一人の女性に出会ってしまい、彼女をたすける身請け金としてその真珠を与えてしまう。その間にイエスは十字架上で息を引きとり、全地は暗くなり地震が起き、アルタバルは倒れてきた建物の下敷きになってしまった。

瓦礫に挟まれ嘆き悲しみ苦しむアルタバルにの目の前には十字架で死んだイエスが立っていた。

アルタバルはイエスに言った。「主よ、遅すぎました。わたしは何度も何度もあなたに逢おうとしましたが結局お逢いすることができませんでした。わたしにはもう何もあなたにお捧げするものは持っておりません。」

そこでイエスはアルタバルに向かって優しく言った。
「あなたはわたしに逢えなかったというが、わたしは何度も何度もあなたに逢っていたのだよ。わたしが病んでいる時に手当をしてくれ、餓えている時に食べられるようにしてくれた。そしてお前の真珠は今しっかりと受け取っている。」

人が生きていく時、あらゆる場面で選択することが求められる。何をするのか、どう在るのか。その選択の基準をイエスの福音に見いだしていくと決心した人をキリスト者というのだが、そういう意味においてキリスト者は一生涯を通してイエスを探し求める者だといえるだろう。

わらしたちキリスト信者は教会で祈りや聖書の学び、信者同士の交わりの内にイエスについて学び出会っていく。そしてキリスト信者の群れの中で霊的に満たされ社会の中へと派遣され、その社会においてもわたしたちはイエスと出会っていく。その意味においてもキリスト者とは社会のただ中でイエスの福音に生きるようにと招かれた存在、生き方、と言えるだろう。

キリスト者は洗礼によってキリストの死と復活に結ばれたものとなるわけだが、それは自分の軸足をどちらに置くかということに似ている。今までの自分の考え方や生き方、いわゆるこの世が求めることに答えてきた今までの生き方なのか、イエスの福音が告げる価値、聖パウロのいうまだ完成されていない世界にあってキリストに結ばれ新しく創造されたものとして生きるこれからの生き方なのか。そして生涯通してイエスに何度も何度も出会っていくたびに、軸足をどこにかけていくのか自分に問うていくのなのではないだろうか。

イエスと出会う、イエスの福音に生きることに軸足を置くということは「日々」「十字架」を背負って行くことから避けて通ることはできない。神が十字架上のイエスを痛みなく十字架から下ろして力を示さず共に苦しんだように、わたしたちも神との交わりの中で苦しみや困難は避けて通れないのだから。

イエスはわたしたちに問いかける。

「それではあなた方はわたしを何者だと言うのか」

イエスを探し求めることと同時に、わたしにとってイエスは誰なのかをわたし自身の内に向かって探し求めることはとても大事なことだ。アルタバルはその生涯の最後に探し求めていたイエスに出会い続けてきたことを知る。自分が求めた出会い方や捧げ方では決してないけれど、そこにイエスはおられ、イエスはしっかりと受け取ってくださる。わたしたちも神に信頼を持って歩み出す時、そこにイエスはおられ、苦しみや困難に悩む日にはイエスも共に苦しんでくださる。すでに恵みの中に生きている気づきを与えられたなら、わたしたちの軸足をどこに置くか自ずと決まってくるのかもしれない。

主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧。
あなたをおいて誰のところに行きましょう。

毎日の生活の中で、わたしにとってイエスとは誰なのか、思いと言葉と行いによって告白することができるよう聖母の取り次ぎを願いたい。


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