「イサン」 で気になるもう一人! ~丁若鏞(チョン・ヤギョン) ~ | Marcallのイケイケ韓国ブログ

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子供の受験勉強と一緒に韓国語を勉強し始め、娘息子は父母に。私もハルモニ~♡
 根底に流れる〝史実”を知って、 もっと楽しく『韓国史劇』を観ませんか?
歴史大好き ♡ Marcall の 『アジュンマ目線で歴史探究』  どうぞ皆様ご一緒に♪

「イサン」は 私にとって、 「別格」の 史劇ドラマ ラブラブ!ドキドキ


 何度見ても 「感動」し  ・・・  何度見ても 同じところで 「涙が出ますしょぼん


 繰り返し見た 「イサン」 。。。。。その中で  「気になった」もう一人ひらめき電球


       チョン・ヤギョン(丁若鏞)


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         丁若鏞(チョン・ヤギョン) 本貫:羅州


    1762年(英祖38)陰6月16日生~1836年(憲宗2)陰2月22日没


    字: 美鏞(ミヨン)、頌甫(ソンボ)・・・初字:歸農(キノン)

    号: 茶山(タサン)、三眉(サンミ)、與猶堂(ヨユダン)、俟菴(サアㇺ)、

      紫霞道人(ジャハドイン)、籜翁(タゴン)、苔叟(テス)、門巖逸人(ムナミリン)、

      鐵馬山樵(チョルマサンチョ) 等  

    諡号: 文度(ムンド)


     追記: (2014.3)

          映画「風と共に去りぬ?!」を観た後、更にヤギョンについて

          調べたところ、面白いことが判りました。

          ヤギョンの右眉には縦に三本、毛が抜け落ちた痕が有りました。

          幼い頃天然痘に罹り、その痕だそうです。号に「三眉(サンミ)」と

          有るのもそのためとかビックリマーク その他、この「洪國榮、そしてイサン母

          恵慶宮洪氏と姻戚関係がにひひひらめき電球と言う事実が判明しました。


            詳しくは、コチラ → ブログ 三筋に分かれた眉の「丁若鏞」




  洪 國榮(ホン・グギョン1748年 - 1781年 享年34歳) が流刑となった後、


  正祖の右腕となる人物。



  実はこの人物 すごい人なんですよ~!!


チョン・ヤギョン(丁若鏞)はイサンより10歳下の1762年、ソウル郊外の


広州(クヮンジュ)で生まれました。1783年に進士試験に主席及第した後


89年には文科及第すると、抄啓文臣(チョゲムンシン)に選ばれます。この


抄啓文臣と言うのは、下級官僚から優れた者を選抜し昇進させる制度で、


正祖によって始められました。ヤギョンは、もともと多くの科挙合格者を出した


名門の出身でありましたが、「南人」に属していたため、政権の中枢には参与


できなかったのです。正祖によって活躍の場を与えられたヤギョンはその豊か


な才能を発揮していきます。


権臣の集中するソウルから離れようとする正祖の「水原遷都」に伴う「水原城」


築造に尽力します。 挙重機や滑車ろくろを設計します。



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       (挙重機)                   (滑車ろくろ)


清を通じて西洋の築城法をとりいれます。



Marcallのイケイケ韓国ブログ    ドラマ 「イサン」 より



Marcallのイケイケ韓国ブログ   強い瓦を開発します。


こうして造られた城壁などは、朝鮮戦争の際にほとんどが破壊されましたが


復旧され、西洋と東洋の高い当時の技術が今も高い評価を受けています。


このように、正祖に厚い信頼を受けていたヤギョンですが、その官僚生活は


波乱に富んだものだったようです。彼は少数派である「南人」に属していたと


言うだけでなく「天主教徒」とのうたがいを掛けられたのです。その為、


「辞職と復職」を何度も繰り返しました。一時は忠清道 海美(チュンチョンド


ヘミ)へ流配させられたことも。


韓国・北朝鮮におけるこの「天主教」とはカトリックのことを指し、プロテスタント


のことは「基督教」と呼びます。19世紀末に伝わる「基督教」に比べ、


「天主教」は、17世紀には中国を通して伝わっていました。


16代仁祖の長子であり、清に人質として送られた昭顕世子とアダム・シャール


の出会いだけでなく、17・8世紀に清に就いた燕行使達が多くの「漢学西学書」


をもたらしました。 ヤギョンを常に庇った正祖を深く信頼し「天」と仰いでいた


ヤギョンは、天主教とのかかわりを否定、正祖の為に全てをかけます。


   。。。ドラマ「イサン」の中では、ソンヨンの弟が「天主教信者」でしたよねチョキ


      その弟の存在を含め、ソンヨンの家族の事や天守教との関わりが


      実際に有ったのかどうか分かっていません。    しかし。。。


      ヤギョンの兄弟は実際に『天主教信者』であったようです。 ガーンDASH!


      (追記:2014.1) ドラマの中の“ソンヨン”の家族に関してだいぶ判明!

                  成氏(ソンヨン)には、兄二人と弟一人居たようですが

                  弟の名前もソンウクではないようで、更に天守教徒

                  であったという可能性も少ない!?と思います。


               詳しくは・・・

                   2014.1 正祖イサン関連「成氏の生涯」として

                           まとめましたのでご覧くださいニコニコ



1793年には、若い学士の教育の場である「成均館の直講(チッカン)」に任命


されます。 ・・・ドラマ「王女の男」に填まっている私にひひ汗


         すぐに 「チッカン、キムスンユドキドキ」って考えてしまいます(笑)


    (追記: ドラマ「トキメキ星成均館・・・」にも 直講で出ていますね~ひらめき電球



このように、建築学だけでなく様々な分野に才能を発揮しますが、この根底には


母方の曽祖父であり、書画家として有名な尹斗緖(ユンドゥソ)が貯蔵してい


た本をたくさん読んでいたことが有ると言われます。その他 多分野に・・・


後には、蔓延していた天然痘についてまでも研究し、本を書きました。 


1794年から34ヶ月を掛けた「水原華城」の建設も1797年10月16日に


ついに落成式を迎えましたが、「遷都の夢」は1800年6月に正祖の急死により


潰えてしまいます。そして以降、正祖を失ったヤギョンは政敵からの攻撃を真っ向


から受け、1801年(辛酉教獄)に伴い流配され、ながい流配生活の後、


生地の広州に戻って長執筆生活を続け、多くの「文集」を残し、1836年2月22日


この世を去ります。



   1801年(辛酉教獄)とは、「大規模な天主教弾圧」です。



正祖がヤギョンと共に夢見た 「一君万民 」は その後即位した「純祖」が


幼かったため、英祖継妃 貞純王后が代わりに政治を行うことになり・・・・・


   それからは。。。。。 朝鮮王朝の崩壊に続いていくことになります。



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   実際の 正祖(イサン) と 丁若鏞です。


 何だかドラマ「イサン」の中の 二人と 似ている気がしませんか~べーっだ!チョキ



           参考テレビ番組 : kbsワールド「歴史スペシャル」


             参考文献  : 이야기로 풀어쓴 조선왕조실록


                      世界の歴史12「明清と李朝の時代」


                                           他

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 やはり、 歴史の中に 「聖君」 有るも・・・・・・・


      「理想」を 「現実」にすることは  とても 困難だと言うことですね ショック!DASH!



   それでは、 頭が ドンッ となってしまいそうなので、



    このヤギョンや ペク・ドンスの名前が出てくる 「おススメドラマ」


     「 トキメキ星 成均館スキャンダル 」 については、



           また後ほど・・・・・・・        本サーチ  メモ