彼は考へるともなしに、娘の病氣を考へて見た。ひよつとしたら死んで了ふのではなかろうか、----彼の眼端はほてつた。ぐらぐらと目舞がし、そうだ、づきんづきんと悲みの血汐が逆上する。彼は踏み止まつてぐいつと抑へた、そしてうるんだ眸で三四間前を見張つた。
 突然、それは本當に突然、眞白な雪の中に、ぽつちり浮いたように黒い塊が見へて居た。
 掻き乱された五作の頭にも、それが何で居るかを明瞭り(*ママ)意識することが出来た。
 牛だ、牛の頭だ。三四寸の太い角がある。生々した目、びくびく動いて居る耳、鼻づらが通されて、それに短かな綱がついて居る。
 ぶつつり斬り放された首からは光りを放つて居る。
 『あツ』彼は思はず叫んで尻持ついた。そして眼を閉ぢて一信に念佛を唱えた。軈て彼が眼を開いた時は、今まで牛の頭だと思つて居たものが、何時の間にかお花が大切にして居た鏡台に替つて居た。そして、其の鏡台を能く見て居ると、何時かお花が「こゝにこんな珍疵があつてよ。お父さんは安物買ひね」と云つて指した時のそれと寸分間違ひのない「キズ」があつた。
 「わハツ」再び叫んで眼を閉ぢた、そして又、眼を開けて見ると、鏡にお花の姿がそつくり寫つて居るのだ。そして其のお花がまだ病氣にならない前の美しさである。五作は餘りの不思議さに、恐怖をこらへて懸命に見詰めて居た鏡に寫つて居るお花は、無心に髪をといて居る。しかし、能く見て居ると、お花の顔が薄黒く處所に斑點がついて居る。
 そして、それが軈て血汐であるかのように思はれてくる。更らにそれが流れ出す。黒い血汐がだくだくと。
 五作は見るに忍びなくなつて、何時までも何時までもかたく眼を閉ぢて居た、夜が明けるまで眼を開けなかつた。
 彼が家へ歸つた時は、お花はもう此の世には居なくなつてゐた。


(了)