左翼文芸雑誌『文藝市場』の編集をしていた梅原北明。途中からは左翼色は消えていくが、この大正十五年三月の第二巻第三号號は妖怪研究号というかなり面白い特集となっている。このなかに石角春之助こと、石角春洋の話が掲載されているので紹介する。


牛の首


 これは火の話である。
 誰もが同じように、私は幼い時分、冒険的な怪談や、不自然極まる妖怪の噺を聞かされることを何よりの樂しみして居た。最も私が生れた國は、おそろしく山國で、芝居や活動写寫眞などは、滅多に見ることが出來ない所でもあつたろうが、センチメンタリストの私にとつては、唯一の慰安だつだた(*ママ)、から私は殆ど毎晩のように、父に噺を強請るのだつた。
 とつ辨な父は「あのう、あのう」(*閉じ括弧は編者で付けた)と口籠り話を途中で休止させるので、夢中になつて居る私は、時々焦繰くなり『それからどうしたの』と催促する父は當惑したらしく頭を掻き掻き噺を續けるのであつた。
 しかし、父には多くの噺の持合せがなかつた。同じ噺を幾度となく繰り返へし焼き直しては話して呉れたが、耳新らしくない噺には共鳴出來ない。それでないのを、もつと變つたのを、私はせがんだ。
 父は暫らく考へて居たが軈て、思ひ出したらしく「お向ふの小母ちやんとこの亡くなたれたお父さんが……」と、新しい何物かを得たらしい口調で、何時になく雄辨に語り出した。
 父の話はかうである。
 短い日の冬のことで、山間の村は早く小山の麓まで日蔭を示しつゝあつた。五作の一人娘のお花は、其の頃からだんだん險悪になつて、十時過ぎには全く危篤の状態だつた、五作の非嘆は云ふまでもないこと、---彼は半信半疑の裡に、三里近くもある町まで醫師を迎ひに出かけたのであつた。
 五作が町に着いた頃からちらぱらと降り出した雪が、急に激しくなり、彼が人家を離れた時は、もう五六寸も積つて居た。馴れた道ではあるが夜半のことでもあり、道と云はず山と云はず田も畑も銀世界の上にのしかゝるような吹雪なので、時々つまづいたり溝に足を入れたりして倒れることがあつた。
 しかし、彼は一刻も早く歸りたかつた。醫藥に喝えて居る娘を思ふと、駈け出したい氣持ちになるのであつた。


 つづく


*出来るだけ本文に沿って、当時の漢字・仮名を使用しました。一部手直しした箇所があります。